セールスマンの死

「セールスマンの死」17   20211015

「セールスマンの死」17   20211015

 そうだった。ここで暮らしていたころは他に交通手段などないから、マイカーであの角を右に折れて初めてどこかへ行くことができた。  あのカーブが外の世界へとつながる唯一の扉だった。そして車を運転するのはいつも父だった。私に世界を開いて見せてくれたのは父親だ。  外界に出る唯一の乗りものたるマイカーは、かなり年季が入っていた。ダッシュボードからはいつも嫌なにおいが漂い出た。そのにおいと、角を右折するときの遠心力で三半規管が揺さぶられるせいで、私は乗れば決まって車酔いした。  でも

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「セールスマンの死」16   20211014

「セールスマンの死」16   20211014

 思えば不機嫌さが骨の髄にまで染み付いているような父だった。とはいえさすがに、日々ずっと苦虫を噛み潰したような顔をしてもいられまい。たまにはこれから始まる一日に何らかの希望を見出して、心が浮き立つときもあったろうか。  そういえば私がまだ小さいころは、彼のはまだ堪えられる威勢のよさだった。  人にバカにされるな、好かれなきゃ話にならん。オレなんて人に好かれるという一点で、お前たちを食わせられてるんだぞ云々。  そんな言葉に、そういうものかすごいんだなと、素直に耳を傾けたもの

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「セールスマンの死」15   20211013

「セールスマンの死」15   20211013

 お手間を取らせました、どうぞ進んでください。  運転手に礼を言うと、霊柩車はまた音もなく前進し始めた。  元の道へ戻るため、すぐ現れる狭いT字路を右へ曲がる。家の前の道も交わる道も一方通行なので、ウチから車で出かけるときは、きっとこの狭い角を右に曲がらなければいけないのだ。  ということは、だ。移動手段がたいてい車だった父は生前、この角を数限りなく曲がったはず。  父はいつも何を思い、この角でハンドルを切っていたか。やっぱりたいていの日はイライラしていたか。  長らくセ

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「セールスマンの死」14   20211012

「セールスマンの死」14   20211012

 ひとけのない住宅街の道を、霊柩車はゆっくりと進んでいった。  火葬場へ行くには、実家のすぐ脇の道を抜けていくこととなる。車はもうウチの近所に差しかかり、薄黒い車窓は私が幼少のころから見慣れた景色で満たされていった。  見慣れた、か……。そういう光景でも、これが最後とわかって眺めたら、ずいぶん違うものに見えるものかな。父親にとってもこの辺りのは見慣れた景色なわけだが、眼にするのはこれが間違いなく最後の機会だ。  はて、どんなふうに感じるものなんだろう? いやまあ実際のところ

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「セールスマンの死」13   20211011

「セールスマンの死」13   20211011

 父の髪やら頬やらを撫で回して止まない母の姿を、私は正視できなかった。両親のスキンシップなど見慣れていない。  同時に、焦りの気持ちも湧いた。いまを逃せばたしかに、永遠に触れる機会は失われる。そう思うと、触れておくべきなのか? と思えてくる。  妙なものだ。生きているあいだは、父親に触れることなんてついぞなかったのに。長じて後はろくに帰りもしなかったのだから、当然ながら最後に父に触れたのはおそらく子ども時分で、それもいつどんなときだったかは思い起こせやしない。  棺の中に

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「セールスマンの死」12   20211010

「セールスマンの死」12   20211010

 セレモニーホールまで歩くのに、結局三十分ほどもかかった。遅刻だ。  私が着いたときには、もう読経が始まっていた。家族葬をうたう施設なので、朗々とお寺さんの声が響く部屋はずいぶん小さい。それでよかった。参集者は母、それに急ぎやって来た態の近くに住む母の姪。それに私のみだったから。案内係やら受付やらと、人数はスタッフのほうが明らかに多い。  私は母の隣に座を占めた。途切れず発声し続ける坊さんの斜め後ろ姿を漫然と眺める。悪くない声だ。声量もなかなかのもの。  どこか聞き覚えの

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「セールスマンの死」11   20211009

「セールスマンの死」11   20211009

 私の乗る新幹線が名古屋駅のホームに滑り込んだ。新鮮な空気が吸えるかと乗降ドアをくぐると、温気を含んだ鰹出汁の匂いがいきなり鼻をついた。ちょうどドアの真正面で立ち食いのきしめん店がやっていて、これでもかというほど辺りに香りを放散しているのだ。  愛知県人は日頃からきしめんを食べるのかといえばそれほどでもなく、ふるさとの味という認識もほとんどないのに、舌の両脇の奥のほうがじんわり痛くなって唾液が溢れた。  なるほどこういう生理反応として、素直に涙も出ればごく自然に受け止めら

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「セールスマンの死」10   20211008

「セールスマンの死」10   20211008

「すぐ疲れるでいかんわ最近は。まったく……」  と言い残して、父は便所を使ってそそくさと寝床へ入った。  台所で母が洗い物をする音がして、それが止むと辺りはしんとした。  私はといえば、寝付けそうにない。小学生のころから使っている勉強机の前に座って、熱くなる頭を持て余した。  父の物言いはいつもあんなものだ。ふだんは言葉少なで口下手なのに、酒が入ればとたんに気が大きくなって溜め込んでいたものを吐き出してしまう。それじゃあ相手を慮るような対応が期待できるはずもない。  だけ

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「セールスマンの死」9   20211007

「セールスマンの死」9   20211007

 いまの若い連中はみんな、あんなもんなのか? まあウチにもひとりおろうが。何を考えとるかわからんのが。  いきなり自分に話頭が向いて驚いた。酔いの回った父の声はいまやもう、襖に隙間を空けて聞き耳を立てなくたって小さい平屋を領して響いてくる。  最近は毎晩受験勉強しとるって? まあどんなもんか。だいたいアレだ。小さい時分はすこしはアタマが回ったから名大でも行くのかと思ってすこしはおもしろそうだったが……。  まあええわ。県大でも行けりゃ、中部電力か東邦ガスに潜り込めるだろ。

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「セールスマンの死」8   20211006

「セールスマンの死」8   20211006

 四畳半の部屋の襖をほんのすこし開けて、私は帰宅した父の様子に聞き耳を立てた。嫌悪するものの嫌なところをわざわざ見たくなるあの心理に、何か名前はあるんだろうか。  父は玄関先に大きな音を立ててアタッシェケースを置くと、さっさと部屋に入っていった。ガタタタ…と椅子を引く音が聞こえ、食卓のいつもの席に座ったと知れる。これみよがしな大きなため息の音もひとつ。  アタッシェケースを両手で抱え遅れて部屋へ入った母は、身体を案ずる声をかけながら手早くお茶を淹れる。熱々の湯呑みはしかし

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