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【劇評257】斬新な演出で幻影を見る。『セールスマンの死』

 アーサー・ミラーの『セールスマンの死』は、憂鬱な戯曲だ。家族のために懸命に働いてきたウィリー・ローマンは、ローンの完済を目前にしているが、職を奪われ、金の工面に汲々としている。ローンが終わった日に、二〇〇〇〇ドルの保険金を残すために自殺する。

 彼は家族思いではあるけれど、息子二人とは、うまくいっていない。アメリカ的な成功、金を儲けて、ひとかどの存在になることをいつも夢見て、ふたりの息子にもその価値観を押しつけている。

 少なからずこの作品の舞台を観た。今月号の雑誌「悲劇喜劇」に、アーサー・ミラーについて書いた。その原稿のために倉橋健の翻訳を読み直したのだが、後味の悪さはぬぐえなかった。なぜ、この戯曲が名作とされるのか、私にも疑問に思えてならない。

ところが、PARCO劇場で観た、広田敦郎訳、ショーン・ホームズ演出、グレイス・スマート美術・衣裳の舞台は、すっと胸に入ってきた。

 劇的な迫真力が足りないというのではない。
 おそらくは、この作品が書かれた一九四九年の時代から離れて、現代の物語として新訳・演出されているからだろうと思う。

 広田の新たな翻訳は、大胆に現代語を取り込む。月賦は、ローンと改められ、息子たちは、マジか、キレると台詞にある。一瞬、いきすぎた現代化かと思ったが、名作の登場人物ではなく、等身大の人間として描くための戦略なのではないかと思い返した。

 演出と美術の連携も、すぐれている。一杯道具で舞台をリアルに飾るのではない。車輪のついた小舞台が、交互に出てくる演出をとる。そのためリアルな現実は後退して、ある種の寓話であるかのように見えた。

 また、舞台には傾いた二本の電柱が吊られている。電柱の下部は、鉛筆のように尖っている。考えてみれば、ウィリー・ローマンは、セールスマンとして、ひとり車を運転して、長い自動車旅行をする人生だった。

 どこまでも続く一本道の両脇には、電柱しかない郊外もあったろう。いつ終わるとも知れない街道は、運転する者に孤独をもたらす。両脇の電柱が胸に突き刺さるような幻影を観たのかも知れない。そんな夢想をもたらす装置だった。この具象でありながら、歪んだ光景が常に舞台上にある。
 そのため、劇全体がリアルな現実ではなく、ウィリー・ローマンが繰り返し見た悪夢であるかのように思えた。
 
 ウィリー・ローマンを演じた段田安則は、かつては鳴らしたセールスマンのイメージをあえて殺している。ただの凡庸なセールスマンが、誇大な夢を持ち、息子のビフとハッピーを抑圧している。平凡さと狂気は矛盾しない。誤った職業を選んだ人間の悲劇をありのままに描き出していた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。