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アーサー・ミラーをめぐる翻訳の話(前編)

「戯曲翻訳(の話)をしよう」④ アーサー・ミラー編
髙田曜子さん、広田敦郎さんに聞きました!


2022年春、アーサー・ミラーの翻訳について、戯曲翻訳者の髙田曜子さん※、広田敦郎さん※のお二人とLINEでやりとりしました。この記事はその編集版です。昨年来、アーサー・ミラーにどっぷりだったお二人。年明けから『THE PRICE』、『セールスマンの死』、『みんな我が子』と続々とアーサー・ミラー作品が上演され、まるでフェスティバルのようです。今、アーサー・ミラーを新訳上演する意味、そして翻訳者と稽古場との関わりについて話してもらいました。その前編です。

※髙田曜子:2022年1月の劇壇ガルバ公演『THE PRICE』(桐山知也演出/吉祥寺シアター)の翻訳者
4―5月上演のPARCO PRODUCE 2022『セールスマンの死』(ショーン・ホームズ演出/パルコ劇場ほか)と、5月上演のDISCOVER WORLD THEATRE vol.12『みんな我が子』(リンゼイ・ポズナー演出/シアターコクーンほか)の演出家通訳を務める

※広田敦郎:上記『セールスマンの死』『みんな我が子』2作の翻訳者

(聞き手:キウチ)


稽古場をハシゴしながら


キウチ「今、広田さんはアーサー・ミラー2作品の上演に立て続けに翻訳者として関わっていらっしゃる訳ですが、最近(2022年4月11日現在)はどんな感じですか?」

広田「3月末まで『セールスマンの死』のリハーサルにほぼずっと立ち会いながら、台詞を直したり、調整したり、また、演出家といっしょにカットの作業などもしていました。これが劇場入りしたタイミングで、『みんな我が子』の稽古場にシフトし、10日間の読み合わせ〜綿密なテーブルワークに立ち会ったところです」

キウチ「稽古場に翻訳者がいるのは、とても望ましい創作環境ですね。先日の広田さんのツイートも、だからこそのものとして読みました!」

※4月9日、広田さんのSNSから
ほんとに誰も観たことのないような、おそろしい『セールスマンの死』になりました。このクリエーションに参加できたことをありがたく、誇らしく思います。ステレオタイプな上演にならないよう、いまの世界を生きる自分たちの姿がくっきりと見える翻訳、台本づくりを、いつも以上に心がけました。


広田「『セールスマンの死』のプレビューと初日までは、『みんな我が子』の稽古場帰りに、劇場でのテクニカルリハーサルを覗きに寄ったりしていました。こういう翻訳者はあんまりいないかもしれませんが、劇場で実際に芝居ができ上がる時間に立ち会うのが、僕はとても好きなのです」

キウチ「『セールスマンの死』の演出家ショーン・ホームズさんは、サイモン・スティーヴンスの『FORTUNE』を演出したイギリスのかたですよね。演出家が外国人の場合、翻訳者が稽古場にいてくれると心強いでしょうね」

広田「特に外国人演出家の作品では、この期間に驚くほどクリエイティブな過程を経ることもあり、学ぶことも多いので見逃したくないのと、20代のころに数年、ベニサン・ピットでかかった英米の演出家の作品で、演出部の仕事をさせてもらっていた時期があったからかもしれません。あと、訳したものが手の届かないところへ羽ばたいていく時期でもあるので、名残惜しいんでしょう」

キウチ「ショーン・ホームズさんの稽古場からリンゼイ・ポズナーさんの稽古場へ、そんな経験ができる翻訳者はなかなかいませんよ。いや、そんな働きができる翻訳者はー」

広田「とても優れた俳優さんと演出家との作業を2本はしごしながら、こんな贅沢が許されるんだろうかと思うのと同時に、いつまで経ってもスクラップ&ビルドの終わらない、物質的欲望と資本主義に取りつかれた渋谷の街で、アーサー・ミラーのような反骨の作家の芝居が(たまたまとはいえ)かかることを、厚かましくミラー本人になり変わって、誇らしく思ったりしています」


『演劇で世界を変えられる』と信じていた作家


キウチ「アーサー・ミラーはあまりに有名で、むしろ『反骨の作家』という認識が薄かったです。そのあたりのこと、教えてください」

広田「ミラーは『演劇で世界を変えられる』と本気で信じていた最後の世代の作家なので、彼のそういう信念を忘れないでいることは、芝居のつくり手の一人として大切なことではないかと思います。ちょっと偽善的と言われるかもしれませんが、本当にそう思っています」

キウチ「『演劇で世界を変えられると本気で信じていた最後の世代の作家』というところについてもう少し聞かせてください。現代の作家と、アーサー・ミラーまでの作家は、世界との関係がどう違いますか?毎日、ウクライナの悲惨な映像を目にしながら思ったことがあります。日露戦争の時、トルストイはロシア皇帝と日本の天皇に戦争を止めるよう手紙を送ったそうですが、それほど影響力のある作家がいたということでもあると思います。例えばそういうことでしょうか?」

広田「いきなりビッグな話になっちゃいましたねー。トルストイと日露戦争のことは知りませんでしたが、ロシアのことで言うと、以前翻訳した作品で、ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンの生涯を描いたトム・ストッパードの『コースト・オブ・ユートピア』では、文学者や芸術家は社会を変革できるのか、という点が一つのテーマでした。ストッパードがこれを書くときに注目したのは、圧政下の作家たちが検閲の網の目をくぐり抜ける言葉を書き続けたことで、19世紀ロシアは文学史上最も豊かな時代になったということ、そして、皇帝アレクサンドル2世に農奴解放を決断させる最大のきっかけになったのは、世界の変革を志したゲルツェンや革命家バクーニンの言葉ではなく、とにかくおもしろい作品を書こうとしたツルゲーネフの『猟人日記』だったという皮肉でした。『コースト・オブ・ユートピア』は三部作の長編で、翻訳やリサーチにかかった時間がとても長かったので、この戯曲に登場する人たちの影響を、僕は思った以上に受けているのでしょう。『ロシアの民衆は骨の髄から保守的だ』というような台詞があったと思いますが、19世紀の専制主義ロシアは、共産主義革命やその体制崩壊を経て、現在も変わらず温存されているのかなと思わされますね。『コースト・オブ・ユートピア』を訳していたとき、ロシアが西欧の文明と向き合ってきた歴史には、日本の歴史や現状にも通ずるものがあると思ったので、いまロシアで起きていることを見ると、他人事ではないと感じます」

キウチ「トム・ストッパードと言えば、去年12月のトークセッションで取り上げたことが記憶に新しいところです。広田さんは『コースト・オブ・ユートピア』の話をしてくれました(ストッパードをテーマに翻訳者5人で話したイベントのテキスト編集記事をnoteでご購読いただけます!)。『ペンは剣よりも強し』という言葉もまた戯曲の言葉ですが、良くも悪しくも、それが比喩でない世界があったということが思い起こされます」

曜子「『演劇で世界を変えられると信じている』ということに関してですが、『Remembering Arthur Miller 』(Edited by Christopher Bigsby)という本のなかでアーサー・ミラー自身がインタビューに応えています。インタビュアーの質問はこうです。『世の中に介入できる、世界を変えることができる、そういう感覚で書き始めたのですね?それは今でもあなたの信念として変わらずに残っていますか?』この質問にミラーが次のように答えているんです。『自分の書いたものが、選挙で誰かを当選させるとか、そういう意味で世界を変えるという考えは手放したよ。でも、非常に小さいところで、おそらく歴史的にはまったく重要ではないけれど、一人の作家が書いたものが人を変えることができる、私はそう考えている。その人に新しいイメージを与えたり、これまでその人が持っていたイメージを変えたりすることによって。私がこう考えるその根拠は、シンプルにこれまで長い間やってきた中で、(実際にそういう話を聞くのは少し気恥ずかしいのだけど)私の作品を見たことでこれまで知らなかった何かを見ることができた、誰かの人生の何かが変わったという声を聞いてきたこと。それが政治的に重要でも重要でなくても、誰かの意識が変わることはある』」

キウチ「なるほど。劇作家は一人の命を描くことで誰かの人生を変えることがあり、それは選挙とは違う方法で世界の意識を変えうることを信じるというー」


『セールスマンの死』ー
構想段階では『THE INSIDE OF HIS HEAD』だった


広田「『セールスマンの死』について言うと、今回の上演でふと気づいたことがあります。今回の演出は、アーサー・ミラーがこの戯曲にもともとつけたタイトル、『The Inside of His Head(彼の頭のなか)』にヒントを得たところがあり、主人公ウィリー・ローマンの心のなかの寒々とした荒地に現実の世界が浮遊するようにやってくるところから始まります。この美術がとても素晴らしいのですが、劇場でテクニカル・リハーサルを観ながら、『サミュエル・ベケットの芝居みたいな装置だな』と思ったんですね。何もない舞台に木が一本立っている『ゴドーを待ちながら』とか、荒れ野の真ん中で女性が土に埋まっていく『しあわせな日々』なんかを思い出した。実際、『ゴドーを待ちながら』は『セールスマンの死』とほぼ同時代に書かれたものなんですよね。美術家はベケット風を目指したわけではまったくないのですが、単なる偶然の産物もないように思うんです。大恐慌があって、全体主義の嵐が吹き荒れて、人類史上最悪の戦争が起きて、ホロコーストが起きて、核戦争の脅威が迫って、人々が互いを信用しなくなっていった。そういう世界を生きていた人々は、僕みたいに高度成長期真っ盛りの豊かで平和な1970年代生まれの人間と違って、こういう荒涼とした心象風景を共有していたんじゃないかと思います」


※『セールスマンの死』は1949年NY初演。『ゴドーを待ちながら』は1948年から1949年にかけてまずフランス語で書かれ、1952年出版、1953年パリ初演。

広田「20世紀の後半、西側先進国を中心に比較的長く平和が続いて、豊かな大衆文化が華開いたのは、ベケットやミラーのような作家がちゃんと仕事をしたからではないかと、僕は信じたい。アーサー・ミラーの『るつぼ』は1950年代の赤狩りを背景に書かれ、アメリカの民主主義史上、重要な事件とされるセイラム魔女裁判を題材としていますが、スタインベックの『二十日鼠と人間』などとともに、アメリカの高校の授業で必ず読まれ、上演もよくされていると聞きます。ミラーの仕事はアメリカの民主主義の発展に確かに貢献していて、戦後の日本に生まれた僕たちもそのおこぼれにあずかってるんだと思います」


共通するテーマ、こだわりをゾクゾク感じる2作


キウチ「曜子さんにうかがいます。最初に広田さんに伺った質問と同じになりますが、去年から今年にかけて、アーサー・ミラーとどんな付き合いかたになっていますか?曜子さんも先日ご自身のSNSで、アーサーミラーの作品に触れていた学生時代のご自身にいろんなことを話してあげたいと書かれていましたが、そのことも聞いてみたいのですが?」

曜子「1月に山崎一さん主宰の劇壇ガルバの公演で、『THE PRICE』の翻訳をさせて頂きました。お稽古が12月から始まっていましたので、私的には、かれこれ半年近く、どっぷりアーサー・ミラーに浸らせて頂いています。こんなふうに1人の作家の作品に連続して向き合ったのは、たぶんきっとはじめての経験です。すごく面白いですし、幸せです。翻訳させて頂いた『THE PRICE』は1967年に書かれ、1968年が初演の作品なので、『みんな我が子』『セールスマンの死』から約20年後のアーサー・ミラーが書いた戯曲です。それでも、家族、父と子、兄弟、アメリカンドリームの幻想、というテーマはもちろん、過去における選択が現在を決定するということ、とか、共通するテーマというか、拘りをゾクゾク感じながら過ごしています」

※4月10日、曜子さんのSNSから
PARCO劇場「セールスマンの死」上演中です。演出のショーンさん・デザイナーのグレイスさんは先日帰国。ショーンさんのエネルギーのもと、本当に素晴らしいカンパニー。数日ぶりに拝見し、あらためてこの作品に携われたことを誇らしく思いました。写真は公演パンフレットと、大学の時授業で使った”Death of a Salesman”のテキスト。当時の私の書き込みイロイロ。現実? 幻? 回想? 侮辱 プライド 愛 家族etc. あの頃の自分にいろんなこと話してあげたい。


曜子「SNSに書いた『昔の自分に話してあげたいこと』というのは、実はそんなにたいしたことではなく(笑)。大学で、たしか、英米演劇とかそんな授業ではじめて『セールスマンの死』に触れたんです。その20年前くらいの自分のメモが本のあちこちに残っていて。私、全然よくわかってなかったなあ、と。何より、当時の自分に教えてあげたいことは、2022年、ものすごく素晴らしい人たちと一緒に、PARCO劇場でこの本を上演するお仕事をすることになるよ!ってことですね。PARCO劇場にワクワク通っていた学生の頃は、まさかそんな未来がくるなんて信じられないですよね。話がふんわりしちゃいましたね、、、」

キウチ「ふんわりトーク歓迎です!昔は全然わかってなかったなあという感覚は僕もよく味わうことがありますが、わかってなかったことを思い起こせる過去というのは、現在につながるための必然かもしれないなんて思ったりもします。これは脱線になるので深めませんが、学生時代に何らかの形で戯曲や演劇に触れることは本当に重要だと思うこの頃です」


タイトルをどう訳すか、あえて訳さないか


キウチ「さて、アーサー・ミラーの作品タイトルの訳し方についてうかがいます。昔の翻訳はほとんど日本語タイトルが付けられていると思いますが、近年は英語タイトルの上演もあるようですね。曜子さんが訳された『THE PRICE』はまさに原題のままでした。広田さんが訳された『セールスマンの死』はよく知られた邦題ですが、宣伝ビジュアルを見ると英語の『THE DEATH OF A  SALESMAN』が併記されています。『みんな我が子』も日本語メインのタイトル表記ですが、やはり原題『ALL MY SONS』が併記されています。タイトルをどう訳すか、あるいは訳さないかということについて、お考えはありますか?また、翻訳者としての基本姿勢のようなものはおありですか?訳者が変わればタイトルの訳し方も変わるのは当然と思う一方で、訳者が変わるたびに作品タイトルが変わることが作品とお客さんにとっていいことかどうかー」

曜子「新訳させて頂くにあたり、タイトルはそのまま『THE PRICE(ザ プライス)』にしました。出版されていた倉橋先生の訳は『代価』で、新訳にあたってどうするのがいいか、演出の桐山知也さんや主宰の山崎一さんとも相談しました。英語ってズルいなあって思いますね、こういう時。PRICEは値段・金額という意味でもあり、代償とか払う犠牲という意味もある。鑑定士のソロモンがやり取りするモノの値段であり価値であるし、人が生きていく中での責任とか決定とかに伴い払う代価でもある。今回はタイトルの時点では、どちらにも寄せすぎたくなくて、英語のままでいくことにしました。ふと振り返ると・・・まだまだ浅く少ない翻訳歴ではありますが、私、これまでのところ、原語タイトルのまま(ニョロをつけてカタカナを添えたことはありますが)ですね。とくにそれにこだわっているわけでもないのですが。単語、それも比較的分かりやすくシンプルな単語のタイトルが多かったのでしょうか。そう考えると、もう一つ頭を捻って、クリエイティブになるべきだったのかもなあとも思いますね。『THE PRICE』については、『代価』という邦題が知られてはいましたが、日本での上演が多い作品ではありませんでしたし、新訳だから新しいタイトルにするぞ!という気負いもなく、自然にそのまま英語を活かした、という感覚でした。値段とか金額の意味を思う方が多いでしょうが、そんな中でも、値打ち、価値とか、代償の響きも一緒に感じとってもらえればいいなあ、と」

キウチ「訳してしまうとこぼれ落ちる意味や偏りすぎる意味があるということでしょうか。確かに『ザ・プライス』とカタカナにするだけでも英語に含まれる多層な意味が失われそうな気がします。あえて訳さず原題のままというのは、勇気のある、現代的な選択をされたなあと思いました」


※『THE PRICE』のあらすじ
1967年の作品。亡き父の遺品を処分するために16年ぶりに再会することになる外科医と警察官の兄弟。弟にはアルコール依存症の妻がいて、そこへ骨董家具の鑑定人が加わる。話が進む中で思いがけず知ることになる父の真実。残されたものの価値、そして、それぞれの人生の決断の価値とは?(劇壇ガルバHP公演紹介文より)

広田「『ALL MY SONS』について言えば、俳優座劇場で桐山知也さんが演出したバージョンの水谷八也さんの邦題が『彼らもまた、わが息子』だったり、詩森ろばさんがご自身で翻訳、演出されたものも『息子』にこだわって『All My Sons』のままにしたと聞いたりしたので、僕はどちらも拝見してないのですが、これは正確に『息子』にすべきか、ちょっと迷って、(主催者の)文化村のかたにも『どうですかね?』ということは言いました。ただ、最終的に『セールスマンの死』を翻訳した後、こちらの戯曲を読み直して、いま日本で上演するなら『みんな我が子』で行くのが僕にはベストのように思われたので、『やっぱり菅原卓さんや倉橋健さんの邦題を踏襲しましょう』ということは申し上げました」


新訳は、そのプロダクションのためにアップデートされること


曜子「話がちょっとあちこちしてしまいますが。セールスマンの稽古初日に、演出のショーンさんが、『アーサー・ミラー作品は、見た人が ‘’自分の家族を見てるみたいだった!‘’ となるんだよね。実際の自分の家族構成とかは違うのに、不思議とそう思わせるんだ』とおっしゃってました。社会の最小単位である家族、とても個人的で特定的なユニットを描いてるのに、誰もが自分たちや、さらにはその時の社会を重ねて見てしまうっていうのが、アーサー・ミラーの凄さなんですね、やっぱり。だからこそ、そのプロダクションのために翻訳がアップデートされることが肝なんだ、と、この半年で、そしてとくに、広田さんが演出家とプロダクションに寄り添って作業されているのを拝見しながら実感しています」


※『セールスマンの死』のあらすじ
1950年代のニューヨーク。旅回りのセールスマンとして真面目に働いてきたウィリー・ローマン63歳。今はかつてのような精彩を欠き、セールスの成績も上がらず、若社長からは厄介者扱いされている。そのウィリーを献身的に支える妻リンダと、30歳を過ぎても自立できない長男ビフと次男ハッピー。ウィリーとビフの間には過去のある事件のせいでわだかまりがある。ローンで手に入れた一軒家と、愛しい妻と自慢の息子たちだが、ウィリーの人生の夢は崩れ始め、やがて全てに行き詰まる。そして、家族と自分のためにある決断を下す。

※『みんな我が子』のあらすじ
第二次世界大戦のアメリカ。戦争特需で財をなしたジョー・ケラーは、一家で幸せそうに暮らしていた。隣人の医師ジムとも良好な関係だ。しかし妻ケイトは戦場から戻らぬ次男の帰りを今も待っている。そこへ次男の婚約者アンが訪ねて来た。ケラー家の長男クリスは密かに彼女に想いを寄せている。さらに現れたのはアンの兄ジョージ。彼の訪問はケラー家が抱える過去の闇をあぶり出し−(公演チラシより)


徹底的に『マン』の翻訳にこだわった


広田「『セールスマンの死』では『セールスマン』の『マン』に徹底的にこだわった翻訳にしました。こちらにはmanという単語が異様に多く使われています。特にウィリー・ローマンという主人公が、男らしい男であろうとすることにいつまでもこだわるのです。彼は自分という人間と正面から向き合うことができず、『男』であろうとすることに甘え、息子を『男のなかの男』に育て上げようとすることに甘え、自分の人生も息子の人生も自分の手でだめにして、結局そのツケを払うことになるのです。『みんな我が子』を改めて読んだときに、同じようなことがあるかなと期待したら、manという単語はそんなに使われていないんですよね。なので『セールスマン』に使われていたmanはミラーがかなり意識したものではないのかなと思いました」

キウチ「それはもしかしたら、『セールスマンの死』しか訳していないとしたら確信を持ってこだわれないことかもしれませんね。アーサー・ミラーを何作も訳している広田さんだからこそという気がします。先ほど曜子さんもおっしゃっていましたが、『セールスマンの死』も『みんな我が子』も、家庭の中で男親と男兄弟の関係が描かれていますがー」

広田「『みんな我が子』も『セールスマン』と同じく、家父長制度がっつりな家族の悲劇ではあると思うのですが、『セールスマン』と比べると、そういう男性中心主義的な社会そのものを批判する力は、こちらにはないような気が僕にはするのですね。あるのかもしれませんけど、そこが作品の核にあるかというと、それほどでもないように思うんです」

キウチ「すると、manの訳し方も変わってくると?」

広田「『みんな我が子』に出てくるmanという単語は、今回の翻訳では『男』ではなく『人間』と訳した箇所が多いと思います。a little manという表現が3回くらい出てきますが、これはミラーや作品の価値観を象徴していると思います。つまり、『小さな人間』が『大きな社会のシステム』とどう向き合うか、という物語だということです。なので、『All My Sons』のsonsもわざわざ『息子』という訳語にして、これは『父』と『息子』だからこそ起こり得る話だ、というふうにするよりは、もっと間口を広げたほうがいいのではないかと思いました。ちょっと詭弁みたいに聞こえるかもしれません。何ならいっそのこと、ジョーやその息子のクリスに女性が配役されるような公演があったっていいのではないかと思います。これからそういう時代は来ると思います。余談ですが、2、3年前にブロードウェイでグレゴリー・モーシャーさんという演出家が『みんな我が子』の主役ジョー・ケラーが罪を着せた相手がたの家族をアフリカ系俳優で上演しようとしたら、ミラーの娘のレベッカ・ミラーからNoが出て(戯曲に人種の指定はないけれども、この二人が黒人だったら、時代背景的に、それなりの書き方がされたであろうという理由)、しかも妹役を白人にするならいいという提案までなされたのですが(ある意味もっと先進的ですね)、すでに黒人の女優を求めてオーディションに入っていたため、アフリカ系俳優のコミュニティに対していまさら『やっぱり白人にしました』とは言えねーよ、ということで、演出家が降板したということのようです。過渡期らしい出来事です」


誰も見たことがない『セールスマンの死』はどう作られたか


キウチ「作品の中身の話を聞きたいと思います。広田さんがご自身のツイートで『誰も見たことがないような、おそろしい‘’セールスマンの死‘’』と書いていました。誰も見たことがない舞台を作るという、いわば究極の目的のために、翻訳はどんなことができるか、あるいは今回どんなことをされたのか、すでに伺ったお話と重複することがあるかと思いますが、あらためてお二人にお聞きしたいのですがー」

広田「誰も見たことがないものをつくろうと思って翻訳することはありませんが、古典の新訳の場合は、単純に言葉遣いを時代に合わせてアップデートするのでなく、型にはまったものにならないよう、新作として翻訳していく姿勢を崩さないようにしています。『往年の名作』にありがちな手垢のついたイメージにとらわれず、『この芝居は当時なぜ新しかったのか』を考えながら、同時にいまの世界とつながれる言葉を原文から掘り出していくのが楽しいところです。『セールスマンの死』で言うと、僕は過去の上演を劇場や映像で観たとき、『フラッシュバック』とか『回想』と呼ばれがちな場面、ウィリーが若かったころの妻や息子や隣人、そして兄ベンの登場する場面のおもしろさがよくわからないなと思っていました。なのでまずは自分の理解が足りないものを見つけるところからアプローチしています」


ミスリーディングを退け、ストーリーテリングを明確に


「最終的にこういうことかなと思ったのは、『フラッシュバック』『回想』という考え方がとてもミスリーディングで、ウィリー一人がこの戯曲のなかでずっと現在形で存在していること、そしてほかの登場人物は、それが現実のなかであれ、ウィリーの記憶や妄想のなかであれ、常に現在形で存在しているウィリーにさまざまな働きかけをしていて、それに対するリアクションの積み重ねによって、彼が最終的に死を選ぶ、という物語になっていることです。このあたりで思いついたり悩んだりしていたことは、全訳の初稿が完成してから最初のミーティングで共有しました。そのときすでに美術家も同様のストーリーテリングを目指していて、演出家もアーサー・ミラーが構想段階でつけていたタイトル(The Inside of His Head)のことを話題にしていました。なので、翻訳の推敲や上演台本の編集、稽古場で加えた修正は、単なる間違い直しやブラッシュアップだけでなく、そういうストーリーテリングをもっと明確にしていくためのものが多かったと思います。その演出家の試みは小屋入り直前にかけてますます先鋭化していったので、ぎりぎりまで相談しながら修正させてもらった台詞もあります。曜子さん、僕の記憶に間違いや嘘があれば指摘してくださいませ」

曜子「間違いも嘘も、ありません!!誰も見たことがない『セールスマン』をつくろう!と狙って取り組んだというわけではなく、名作と呼ばれるが故にこびりつきがちな先入観なしに、ピュアに戯曲に向き合ったらこうなった、という感覚です。それは演出家も、美術家も、敦郎さんの翻訳も。そこに全幅の信頼を寄せ、カンパニー全体も同じ方向を見て進んでいった、そんなプロセスだったと感じてます。演出のショーンさんも、頻度高く、『ミラーが何を書いているか』『ミラーの意図は何か』とおっしゃっていたのが印象的でした」


新訳が先か、演出家の大方針が先か


キウチ「『こびりつきがちな先入観から自由になってピュアに戯曲に向き合う』、新訳はまさにそのために行うということも言えると思いますが、曜子さん、広田さんの場合、翻訳者としてその旗振りをしている意識はおありでしょうか?しばしば『セールスマンの死』は上演され、新訳がなされているにも関わらず、今回の『セールスマンの死』が「誰も見たことのないような」舞台になった出発点はどこにあるのか?『THE PRICE』のチャレンジに関しても同様に思います。翻訳はそこにどう関わっているのかを聞いてみたいです。もしも外国人演出家が示す方向性が旗振りそのものだとすれば、彼らは古典や近代古典にどう向き合っているのかということに興味が湧きます」

曜子「うまく言えるかわからないのですが、翻訳が旗振りする感覚は、自分が翻訳する時、自分では持っていないです。『セールスマンの死』について、『ピュアに戯曲に向き合った』と言いましたが、それぞれが好き勝手に各々向き合ったのではなく、プロダクションの大方針としてみんなでその方向を向こう!と手を取りあって向いた、と言いますか。私はセールスマンのプロダクションにいて、そう感じていました。私は、新訳は、そのプロダクションのために新訳するってことだと思うのです。そのプロダクションの目指すもの、つまりは演出家が目指すもの、のために必要なもの・役に立つものでありたいな、と思います。質問とずれてたらごめんなさい!言語化するって難しい😣」


当たり前の言葉は書かれていない


広田「国籍を問わず、僕が好きな演出家の人たちはみんな、古典でも新作でも、戯曲に書かれた言葉を何一つ当たり前とは考えません。どんなに明白に思えることでも確認して、可能性を探っていきますし、些細な疑問もみんなと共有してくれます。誰も見たことがないような作品ができあがったとしても、すべてそういう地道な作業から始まっています。ショーンさんは東京で前回、存命の作家の初演もの、今回は超がつくほどの古典を演出しましたけど、戯曲へのアプローチにちがいはなかったと思います。この人物はここでなぜこんなことを言うんだろう? なぜこんなことをするんだろう? ミラー(あるいはサイモン・スティーヴンス)はここで何を見せようとしたんだろう? ほとんどそれです。『みんな我が子』のリンゼイさんも、ショーンさんとはまったく対照的なスタイルのお芝居をつくる人だと思いますが、戯曲の言葉に対する姿勢はそれほど変わらないと思います」


ただの「よく書けたお話」にしないように


広田「さっき『型にはまったものにならないよう』と言いましたが、アーサー・ミラーだけでなく、オニールもワイルダーもウィリアムズもオルビーも、20世紀アメリカ演劇の古典と見なされている作家はそもそも実験的で革新的なアーティストです(それを言うなら、イプセンもストリンドベリもチェーホフも、ブレヒトもベケットもピンターも、シェイクスピアだってそうですよね)。なのにブロードウェイでヒットして、映画化もされて、世界中で上演をくり返すうち、初期の上演や映像化されたバージョンでつくられた雰囲気だけが権威主義的に受け継がれ、いつの間にか角が取れて、ウェルメイドな芝居、ただのよく書けたお話になってしまう。そうならないために翻訳が大事なんだな、というのは、20代のころ、翻訳を始める前から何となく考えていたことです。旗を振ってはいませんが、先行する世代の演劇に不満で、自分の関わるものだけは変えていこうってことだと思います。でも翻訳者一人でできることでもないので、最終的にはどんなチームでお芝居をつくるかによります」

キウチ「曜子さん、広田さん、お忙しいところありがとうございました。このあと、『みんな我が子』が開幕した後に続きの話をしましょう!」


「アーサー・ミラーをめぐる翻訳の話」(後編)に続きます!

noteにはトランスレーション・マターズの有料記事もあげています。
2021年に行われたトークセッションのテキスト編集版
「AT19:00 戯曲翻訳(の話)をしよう」
各回1人の作家をめぐって、戯曲翻訳者たちが自身の翻訳と演劇について
語っています。


①サイモン・スティーヴンス編
サイモンからの特別メッセージ/『ポルノグラフィ』二つの翻訳比較/『Birdland』の稽古場で など
出演:小田島創志 髙田曜子 広田敦郎
サイモン・スティーヴンス(特別出演)
小川絵梨子(司会)

②テネシー・ウィリアムズ編
常田景子さんの翻訳の話/テネシーと源氏物語/『花散里の君』とは など
出演:常田景子 広田敦郎
髙田曜子(司会)

③トム・ストッパード編
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
『良い子はみんなご褒美がもらえる』『アルカディア』
『コースト・オブ・ユートピア』
出演:小川絵梨子 常田景子 広田敦郎
小田島恒志(特別出演)
小田島創志(司会)


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