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≪ネタバレ注意≫『セールスマンの死』をみてきました!

このツイートスレッドには『セールスマンの死』の舞台装置に関する言及があり、ストーリーの内容とまでは言いませんがその骨子にふれることもありますので注意書きをしておきます。

こんな風に注意書きをして私のツイッターアカウントに投稿しようと書き始めた『セールスマンの死』観賞投稿。しかし書き始めてみると長い長い…。そしてストーリーにも触れずにいられない…。そのままではツイートのツリーが大久保のヒノキ級に伸びそうなので、そしてツイッターにネタバレ投稿を晒してしまうのはやはり危険だとも思いましたので、noteに認めておるところです…。

では、椎葉村図書館「ぶん文Bun」の司書が観た『セールスマンの死』観劇感想をご覧ください!

『セールスマンの死』におけるくすんだ黄色の冷蔵庫がもたらす効果について

原作では「自動車」が一つの不気味モチーフでしたが、今回日本で公演されている『セールスマンの死』では冷蔵庫がずっと舞台の中心に居座っていました。その設置の仕方からして作品全体のモードを象徴する存在であることは間違いないのですが、この記事ではそのデバイスの役割を中心に分析します。

・冷蔵庫の「色」について

冷蔵庫は終始「くすんだ黄色」でした。これはローマン家の過去の栄華が「明るい黄色」に満たされていたことをふまえると、時代を行き来する本劇の時間軸ピボットとして冷蔵庫が機能していることを表しています。

どんな場面で明るい黄色が出てきたかというと、たとえばあの栄華極まるビフの学生時代…フットボールでQBを務めるビフは全身黄色でした。「ローマン!ローマン!」と家族の栄華の象徴を極めるタッチダウンの瞬間、彼は黄色の最高潮としての黄金につつまれていくのでした。

ほか、たとえばハッピーの衣装(帽子がキュート)やその他細部にいたるまで、ローマン家の過去には鮮やかに黄色が満ち溢れていました。

一方で舞台に鎮座する冷蔵庫は常にくすんだ黄色。これは、没落後の現代から過去を顧みているという「印」の役割を担っているからではないかと見受けられました。

たとえて言うならば『インセプション』でコブ(レオナルド・ディカプリオ)が持っていたコマのようなもので、夢のように時間軸を行き来するなかで観客が現代のローマン家の衰亡を忘れ去りそうになった時、ふと冷蔵庫を目にするとその「くすみ」のおかげで我に返ってしまうというわけです。

『セールスマンの死』では、時間の行き来という現(うつつ)ではありえない移動を効果的にかつ混乱なく映し出すために、それを現の者(現在にしか生きられない者)として享受する観客に対して「時間の拠り所」としての冷蔵庫を提出しているのです。複層次元に亘る夢を行き来する『インセプション』でもコマ(トーテム)が効果的に使われていましたが、本劇における冷蔵庫もまた作品のモードを体現する重要なデバイスとして鎮座し続けていました。

黄色=過去、くすみ=現在と双方の要素をもつ冷蔵庫は、ある意味では時代を超えた超時空的存在(だからこそどの場面でも舞台の中心にある)なのでした。そしてこれは、本劇の大団円にあたり重要な役割を果たすことになります。

・冷蔵庫の「音」について

劇中の不穏な場面や独白の重みある場面では冷蔵庫のコンプレッサー音が効果的に使われていました。「ブゥーーーーーン」と鳴り響く音による場面転換は、『ドグラ・マグラ』の時計の音を彷彿とさせる効果があります。

原作で予習をして臨んだ観劇当初は「車の音かな?」とも思いましたが、本劇における象徴としての役割を黄色いくすんだ冷蔵庫が果たしている以上、あの「ブゥーーーーーン」は冷蔵庫のコンプレッサー音と捉えて間違いないでしょう。

・冷蔵庫の「死」について

そして、最後の場面です。

アーサー・ミラーの原作ではウィリーが車に乗り事故死するのですが、本劇の死はいかにも象徴的で示唆的だったと思います。ウィリー・ローマンは最期の行き場所として、冷蔵庫の中を選ぶのです。
(もちろんそれはあくまでウィリーが観たビジョン=幻覚としての死であったのかもしれません。実際は車に乗って突っ込んでいった、という可能性もあるでしょう。しかしながら、彼自身の主観がそういうビジョンを捉えた…あるいはそのように本劇が描いたというのは非常に重要です)

時代軸のピボット・・・つまり時が止まった存在としての冷蔵庫に自らを内包させるということは、すなわち家族の時を止めることに他なりません。ウィリー・ローマンは自らの死をもって、過去の栄華を栄華のままにとどめたのです。これは、一人のセールスマンとしてのウィリーの死が、彼が生き永らえた場合は避けることができなかった「セールスマンの死」を消失させた…このように希望的な見方もできるエンディングではなかったでしょうか。

死によって時を留め栄華を保つというと、私には『ロミオとジュリエット』が浮かびます。彼らは死によって二人の愛を時間の流れに束縛されないある場所に留め置くことを選択したのでした。まるで美しさを保つために虫ピンで留められ、時の流れの影響を受けなくなった可憐な蝶の標本のように。

つまりウィリー・ローマンは、自ら心身を時の流れから逸脱した存在としての冷蔵庫に同化させることによって、家族の栄華を留め置くことを選択したのです。これが「逃げ」なのか「勇気」なのか、その判断は観賞者に委ねられるところなのかもしれません。

過去の美しさを保つために時を留めるという選択に至るまでの懊悩。これこそが『セールスマンの死』で描かれたことではないでしょうか。

アンハッピーなハッピー

林遣都さんの舞台を初めて観る!そう意気込んで東京・渋谷で観賞した今回の舞台。やはり彼が演じたハッピーに注目せざるを得ません。

一番声を張り上げて、みんなの笑顔を呼ぶハッピー。女の子にもモテモテで、仕事も順調で自立している。

でもそんな表面上の姿こそが、ローマン家そのもののようにヴァニティなものだったのですね。女の子は娼婦たちでその愛は偽物、仕事もどうやらそれほど重要な役回りでもないらしい。口から出てくる出まかせはとめどなく、欲望の前には止まることもできない。もはや発言は重要視されることもなく、ただただ虚実を生きていく存在・・・。

ハロルド・ローマンはそうした意味で、ローマン家を代表するような存在でした。

つまり、ハッピーは本劇をグッと引き立てる存在でした。上滑りで不安定で虚飾に満ちた存在としてのハッピーがいるからローマン家の悲しさが浮き彫りになり、ウィリーの「時を留める」選択の重みが増したのです。

そんな役割をこなせるのは、お芝居に真摯でまっすぐで情熱的な人・・・まさに林遣都さん!

僕は観劇が終わった時、周りにスタンディングオベーションをしている人がたくさんいるのに気づきながらも、腰が抜けたようになって立てませんでした。「これは時代を変える作品に立ち会ったぞ」という強い意識が、僕を朦朧とさせしめるほどでした。

そんな舞台に、推し人が立っている!ほとんど目の前にいる!!

観劇後の大きなエクスタシーは、PARCO劇場のあれこれを写真に収めることを忘れさせるに十分でした笑。つらみ・・・。
(ほぼ唯一撮れたのが、カバー写真のオリジナルカクテル・ソフトドリンクです。お話しさせていただきました湖民さんがた、ありがとうございます!初観劇の緊張で気もそぞろですみません(笑))

そんな緊張しまくりの観劇でしたが、とりあえずパンフレットだけは購入してきました!しっかりと椎葉村図書館「ぶん文Bun」に寄贈し、林遣都さん推し棚↓に収めます!




さて目下の悩みは、もう一回観られるかどうかということ…。

大楽を北九州で観たい。その思いは募るばかりなのですが…。どうなることやら…。

まずは、これからご覧になられる皆さまも『セールスマンの死』を大いに楽しまれること、無事に最後まで本劇が演じられることを祈っております!