美術史87章『日本美術の概要-日本美術1-』
日本美術とは日本列島で製作された凡ゆる美術の総称とされるが、アイヌ美術や琉球美術は区別され、近代では日本人が海外で活躍するといった事も多くなったため、必ずしも日本美術が日本国内で作られているというわけでもなく、正確に言えば日本民族によって展開された美術を広く指しているような場合もある概念と言えるかもしれない。
日本美術はそのほとんどが中国美術に由来するもので、弥生時代以降の古代や近世には東アジア、近代以降は西洋美術の強い影響下に置かれてきたため、日本美術は日本人の完全なオリジナルにより発展してきたものではないが、「浮世絵」などそこから独自に生まれた様式も多く存在する。
また、現在の日本では他の世界と同じく、「アニメ」に代表される映像作品、写真、広告、漫画、パフォーマンスなど諸々をひっくるめてアートとして扱われる場合が多くなり、美術とそうでないものの違いは非常に曖昧なものになっている。
日本美術では絵画や彫刻、建築、庭園の他、金属加工、漆工、染織、陶磁器など中国から伝来した工芸品の占める割合が多く、刀剣や鎧などの武具も重要で特に刀(日本刀)に関してはそれ自体が美的鑑賞の対象であった。
日本語や琉球語では中国から伝来した漢字やそこから派生して作られたひらがな、カタカナが使われてきたため、漢字などを美し書く「書道」という芸術も中国圏と同様に重要なジャンルとなっており、また、唐代に伝わった水墨画も栄えることとなった。
日本での最初の本格的な美術作品は日本が中国の律令制などを取り入れた7、8世紀頃から始まったインドから中国を通って伝わった仏教に関連する一連の美術であると言える。
その後の9世紀以降、中国と日本の距離が遠ざかっていくにつれて非宗教的な美術に重点が置かれるようになり、藤原氏による摂関政治が行われた10世紀から11世紀にかけての「国風文化」から11世紀後期から12世紀後期の退位した天皇である上皇が院政を行った時代の院政期文化にいわゆる「和風」の美術が形作られ、中国の「唐絵」とは区別される「大和絵」もここで生まれた。
院政期には貴族の「寝殿造」には浄土宗の極楽浄土を再現するための「浄土式庭園」が造営されるなど仏教美術が再び栄え、さらにその後の鎌倉時代の13世紀中頃に再び中国との交流が始まると思想面では禅宗が盛んとなり、絵画では中国の水墨画などが流行、庭園では岩や砂で山水を表現する「枯山水」が流行した。
日本では室町時代には禅宗の保護から水墨画が繁栄、終わる15世紀後期の応仁の乱まで仏教美術と非宗教的美術が双方とも繁栄したが、戦国時代が終わり日本が再統一されると仏教美術は衰退し始め、安土桃山時代には大和絵が栄えた。
江戸時代が始まると彫刻という分野自体も衰退していき、庭園では回って見て楽しむ「回遊式庭園」が作られた。
さらに「浮世絵」と呼ばれるカラフルな木版画が民衆のポップカルチャーとして大繁栄を遂げ、数多くの世界的に知られる画家を輩出していくこととなった。
19世紀末期、明治維新で近代化を成し遂げて以降は御雇外国人などにより他の西洋の思想や技術と共に西洋美術が導入され西洋風のものは「洋画」、日本に元々あった様々な絵画は「日本画」として区別されるようになっていった。
逆に日本画の伝統もヨーロッパで「ジャポニスム」として流行し、西洋美術で先述した印象派やアール・ヌーヴォーなど現代美術に至る大きな流れの誕生に重要な影響を与え、具体的には平面的な表現、鮮やかな色で埋め尽くす表現、現代の遠近法表現などを西洋に普及させた。