【読書感想文】ドストエフスキー「罪と罰」
こんばんは!
お盆ですし、大作の感想文でも書こうかなと思っております!
小栗義樹です!
本日は読書感想文を書かせて頂きます。僕が好きな本、読んだ本を題材に本気の感想文を書くという試みです。
本日の題材はコチラです
ドストエフスキー「罪と罰」
文学の最高峰と謳われる、見事すぎる作品を世に送り出した伝説の作家:ドストエフスキーが書いた、後期5大長編の1作目となる作品です。
知らない方のために少しだけご紹介いたします。
ドストエフスキー後期5大長編とは、罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟という長編小説のことを指します。
デビュー作「貧しき人々」でロシア中から絶賛されたドストエフスキーですが、2作目、3作目は暗さや内容の過激さから不評が続きます。その頃、社会主義サークルなどに出入りしていたこともあり、見せしめのために逮捕されます。死刑判決が下されましたが銃殺ギリギリのところで減刑され、シベリアで懲罰。刑終了の後、戦争に徴兵され、戻ってきたところで書いたのが「罪と罰」です。
この時点で壮絶な経歴ですが、これは本当に搔い摘んだ説明です。ドストエフスキーの研究をした本やWikipediaなんかを読むと、さらに壮絶な出来事が満載となっています。
注目して頂きたいのは「文学の最高峰」という点です。ドストエフスキーは、ロシア文学ではなく文学の最高峰なのです。それくらい後世に大きな影響を与えています。それは日本人作家も例外ではありません。多くの天才作家が「ドストエフスキーは天才だ」「ドストエフスキーから影響を受けている」と公言し、多くの天才作家がドストエフスキーの作品の文章を自身の作品に引用しています。
僕も、ドストエフスキーの作品が好きです。
今まで読んだ小説の中で好きな小説は?と質問されたら、高確率で「カラマーゾフの兄弟」を上げます。グレートギャツビィ、ノルウェイの森と答えるときもありますが、それくらい影響を受けた作品です。
ドストエフスキーの作品で感想文を書こうとするとキリがありません。書きたいことが沢山ありますし、堀りどころも多すぎます。
今まで読んだドストエフスキーの作品は「貧しき人々」「分身」「白夜」「小英雄」「虐げられた人々」「地下室の手記」「罪と罰」「白痴」「永遠の夫」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」です。
後期5大長編の中で未成年だけ読めていません。探しても見つからないんですよね。諦めてネットで買おうかしらと今は思っています。
面白いなと思うのは、地下室の手記からカラマーゾフの兄弟まで、主人公を含む登場人物がひと繋がりになっている点です。例えば、地下室の手記の主人公と罪と罰の主人公は思想がかなり似ています。ただ、地下室の手記の主人公と比較すると罪と罰の主人公ラスコーリニコフは若くて野心が強いです。その結果、ラスコーリニコフは自分の思想を体現しようとします。地下室の手記の主人公は思想や考えを吐露するだけですが、ラスコーリニコフはソーニャという女性によって最後は救済されます。
こんな風に、前作の登場人物が次作の登場人物と何かしらでリンクしていて、しかも前作よりもパワーアップして登場するわけです。
その手腕は、読んでいて感動します。
遺作となった「カラマーゾフの兄弟」も、実は2部作を予定していたそうです。カラマーゾフの兄弟は、それこそドストエフスキーの集大成的な作品となっています。今までの作品で登場したキャラクターが一堂に会することになるため、それだけでもテンションが上がります。それでお話が面白のだから、天才以外の何物でもないでしょう。
ドストエフスキーは、経歴や作品の紹介だけでも十分に面白いのですが、これ以上はキリがないですし、僕よりも圧倒的に面白く、興味深い解説をしている方が沢山いますので、興味があればそれらの本・記事をあたってみてほしいです。
さて、罪と罰ですね。
お話としては、主人公のラスコーリニコフが自分の考えの正しさを証明するために金貸しの老婆を殺害します。これが偶然完全犯罪となってしまい、ラスコーリニコフのライバル役として登場する警察のポルフィーリは、事件の真相に気づくも証拠がなくて立証できません。ラスコーリニコフは自分が犯した罪に耐えきれなくなり、段々と幻覚を見るようになります。衰弱していくラスコーリニコフは、ヒロインのソーニャの力を借りて犯行を自白。その後、シベリアでの懲罰の中でソーニャによって救済を迎えるというお話です。
細かい部分は端折りましたが、大筋はこれであっていると思います。ラスコーリニコフとポルフィーリの読み合い・騙し合い、ラスコーリニコフの思想、ラスコーリニコフとソーニャの関係・救済など、ヒリヒリする展開や考えさせられる場面が随所に散りばめられています。若干時代背景のギャップに苦しむ部分がありますが、差し引いてもめちゃくちゃ面白いです。ぜひ読んでみてほしいなと思います。
僕と罪と罰の出会いはマンガです。ドストエフスキーの作品で最初に読んだのはカラマーゾフの兄弟でした。翻訳小説をなんとなく借りて読み始めたのですが、全然分からなくて途中で止めました。その後しばらくして、カラマーゾフの兄弟のマンガ版を発見し、さらっと読んでみたらめちゃくちゃ面白くて、その後、ドストエフスキーの作品はマンガから読んでいこうと決めました。
カラマーゾフの兄弟の次に読んだのが罪と罰です。カラマーゾフの兄弟で学んだので、最初はマンガから入りました。大学1年生の頃でした。やっぱりこれも面白いと読み終わって思いました。その後、2回~3回ほどマンガで読み返してみて、いざという気持ちで小説版に挑みました。めちゃくちゃ難しかったのですが、マンガと違いって心象や心理戦に切迫感があり、勢いで読み切ることに成功したのを覚えています。マンガだと絵で心象を描写するパターンが多いように思うのですが、絵だと切迫感や悲壮感は伝わり切らないんですよね。ドストエフスキーが演出したかった理屈や理論で固めるまどろっこしい人物像は、やっぱり小説で、文章で感じ取るべきなんだなぁと思ったことを覚えています。
今、どうしてそんな回りくどい読み方をするんだろう?と思った方も少なからずいらっしゃるかと思います。もしかしたら、noteを利用している方の多くはドストエフスキーやロシア文学に明るい方なのかもしれませんが、一応説明しておきます。
ドストエフスキーの作品、というか、ロシア文学は非常に読みづらいです。日本語に訳すと、とにかく言い回しがくどい。はっきりした結論をパンと正直に発することはほとんどありません。必ず比喩やたとえ話でもって、イメージしてください・想像してくださいという書き方がなされています。これは国柄が出ているのでしょう。思ったことをはっきり言うのが難しい国がロシアなのだと思います。しかしまぁ、差し引いても読めません。今でこそ慣れてきましたけど、高校生の頃の僕からすると、本当にどうしようもないくらい意味が分かりませんでした。何が言いたいのかが全然伝わってこないのです。
もう1つ、登場人物の名前がとにかく分かりません。登場人物との関係性に応じて呼び方がコロコロ変わります。ラスコーリニコフと言ったり、コーリャと言ったりします。先ほどから出てくるソーニャという女性も、ソーネチカと呼ばれている描写があります。誰が誰をなんと呼んでいるのかが分からなくなってくるため、登場人物が増えれば増えるほど、ひたすら頭が痛くなってくるわけです。
今からドストエフスキーの作品を読もうと思っている方がもしいるなら、この点は押さえておいた方がいいと思います。はっきり言って、これが分からないと秒で挫折することでしょう。僕は当時吐き気を催しました。意味が全く分からない、日本語難しい、ドストエフスキー恐いとなって、小説版カラマーゾフの兄弟に挫折してからマンガに出会うまで、2年の間が空いています。
これが当時一般人の間で読まれていたと思うと、昔の人の頭の良さは異常だなと思わざるを得ません。活字理解力や読解力は年々下がっているのでしょう。ドストエフスキーという作品を読むとそれを痛感します。
そんなドストエフスキーの罪と罰ですが、後期5大長編の中では(未成年を読んだことがないのでわかりませんが)、それでも比較的読みやすい作品だなと思っています。
まずストーリーはありきたりです。古畑任三郎を思い浮かべて頂ければ大丈夫です。読者はすでにどんな事件が起こっているのかも、その犯人が誰なのかも知っています。ラスコーリニコフの犯行を順を追ってインプットしながら話が進んでいきますので、どういうトリックで、どんなアクシデントが起こって、どうやって完全犯罪を形にするかを共有している状態です。
この物語が動く瞬間の掴みの文章がとにかくバシッと決まっています。手際が良く、絶妙に気になる書き方がなされていて、シンプルにすごいなと思いました。ドストエフスキーは、つくづくお話で魅せるつもりがない。面白いお話を書くことは前提となっているわけです。
この罪と罰はタイトル通り、罪を犯した人間が背負う罰とは何か?をテーマにした小説です。僕は「心が穢れていくこと」だと解釈しました。そして、人間ごときに人が生きる価値を測ることは出来ないという強烈なメッセージを受け取ったような気分になりました。
そもそもラスコーリニコフの殺人の動機は、自身の思想からきています。天才は現行の法律を犯したとしても、それ以上の功績を上げて後世に多大な影響を与えることが出来れば、現在の罪は許されるという思想です。
この危険な思想の穴を、ライバルであるポルフィーリは一瞬で見抜きます。ポルフィーリは、ラスコーリニコフの頭の良さを称えつつも動機と実際の犯行に整合性が取れないだろうということを、ラスコーリニコフとの最初の対面で見抜いているような口ぶりで議論を交わします。
要するに、犯人はラスコーリニコフであり、その根拠は彼の思想にあり、その思想のもと犯罪を遂行したのであれば、この犯行をバレずに乗り切ることは不可能だと最初から分かっている口ぶりなのです。
そこからまた話がこじれて、物語が前に進んでいくのですが、僕たち読者はラスコーリニコフの犯行の一部始終を知っている分、ポルフィーリの最初の口撃から強いメッセージみたいなものを受け取ることになるわけです。
作中ではラスコーリニコフの思想に対して、天才だと勘違いしている凡人が法を犯す可能性があるとポルフィーリが指摘します。しかしこの言葉は、現代を生きる僕たちからすると解釈に余白があるように思います。
僕はこう解釈しました。そもそも法を犯して次の時代を切り開く人間は、天才などではなく所詮はサイコパスでしかない。人には他者の生きる価値を測る力などなく、その領域を侵せばその重荷に精神は耐えることが出来ない。
飛躍した妄想にすぎないのかもしれませんが、ポルフィーリの口ぶりからするとそんな風にも感じ取ることができます。読んでいる僕からすると、ラスコーリニコフは作中で、1回もポルフィーリに弁で勝っていません。彼はポルフィーリが指摘した自身の理論の穴を埋めることが出来ないまま話が終わってしまいます。
天才だと勘違いしている凡人とはどのような存在なのか?という問いに対して定義が明らかにされることはなく、天才を見抜く方法についてもほとんど言及されていません。
そうなると、そもそもこの説はそれらしい人が確かに過去にいたという話でしかなくなってしまいます。つまり、この思想が完璧に補完されることはないと、少なくともこの作品ではそう訴えていると取ることが出来るのだと思うのです。
であれば同時に、天才が法を犯してまで後世に影響を与え、その罪のすべてが許されるというラスコーリニコフの思想自体が立証されていないということになるなと僕は思います。
それは、人間が他者との連携・共存で成立している社会という枠組みから逸脱することが不可能であるということを表していて、すなわち、他者の生きる価値を人が測ることは出来ないということを意味しているのではないでしょうか。
カラマーゾフの兄弟では、次男のイワンが「罪もなければ善幸もない。すべては許されている」という言葉を使うのですが、最終的にイワンは自分の言葉を信仰した他のカラマーゾフの兄弟が引き起こす過ちに対して責任を感じ狂ってしまいます。
罪と罰は、イワン・カラマーゾフの言葉が世の中では絶対に成立しない・通用しないということを証明するための作品だったのではないか?とさえ思うのです。
とまぁこのように、ドストエフスキーの作品はとにかく深堀出来る要素が沢山あります。何度も何度も読み返してしまうだけの意味がそこにはあって、決して古典的な作品とは言えないと思います。
罪と罰はそんな複雑さをもちながらも、長編の入り口としてはぴったりな題材であるなと思います。登場人物も比較的少ないし、それぞれのストーリーを独立させて読むことも可能です。にも関わらず、これだけ色々と考えさせられる提案を含んでいて、それが決して色褪せないのです。
正直、古本屋で購入するのは経験上難しいと思います。揃っていたところをほとんど見たことがありませんから。
でも、絶対に読んでみてほしい。お盆休みの間にトライしてみてほしいです。読んだら世界が変わると思います。
電子書籍であればいつでも買えます。僕も諦めて「未成年」は電子書籍で購入するつもりです。
ぜひ休みの期間を利用して、ドストエフスキーの作品に触れてみてほしいなと思います。
というわけで、本日はこの辺で失礼いたします。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。
また明日の記事でお会いしましょう。
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