#コラム
美術が聞いてくることはひとつだけ「生きているか」
私は美術が大好きです。
太陽や月や風や砂と同じように、
美術は人を選びません。
美術初心者が来ても、美術の専門家が来ても、
作品は変わらぬ態度でそこにあります。
美術はその人が誰かなんて、気にしません。
美術が気にするのは、その人が生きているかどうか、
です。
美術の前では、何者であってもいいし、
また、何者でもなくていい。
ただ生きていればそれでいい。
そのことが、ある人にとっては
と
「生きている」にも色々あって。
前回の記事で小さい頃からずっと生きていることに違和感があったと書きました。
そんな私も生きていくなかで、ここなら違和感なく過ごせるぞ、という場所をいくつか見つけました。むしろ、なんだか生き生きしちゃうかも、という場所までありました。
それはひとくちに「生きている」といっても、実はいろんな「生きている」があるからだと思います。
人間社会で「生きている」こと。
動物として体が「生きている」こと
「技術が無闇に透けない」という技術
”つくったものに対して「上手い!」というより「好き!」と言われたい。”
これはわたしがイラストなどの制作に関わっている中で、ずっと思い続けていること。
というのも「上手い!」という感想が真っ先に出るクリエイティブは、それを作った「クリエイター自身の満足度」をやたらに高めるために作られてしまっているのではないかと思っている。伝えたいことより、技術が前に出てきてしまっている状態。ポートフォリオなど
その「謙遜」は誰のため?
「立派なことを成し遂げたのに、偉そうにしない人」というのは、好感度的に最強なんじゃないでしょうか。
そういう人に出会うと、尊敬の念と清々しさが自然と湧いてきますよね。
「謙虚さ」は接する相手をよい気分にさせるものなので、「褒められたら、謙遜で返す」という会話の流れはテンプレ化しているし、座りがいいいんだと思います。
こういう場合の謙遜は、コミニュケーションを円滑して場を和ませる、いわば相手への気
あのころの私に届いてほしい
中学生の頃私は、親と喧嘩をするたびに家でしゃくりあげて泣いていた。今思えばたいへんささいなことだったように思う。それでも、反論しているうちにどんどん涙がこぼれ、ぎゃーすか泣きわめくというめんどくさい思春期。
あるとき母が当時の私に言った言葉は、忘れられず今でも私の心に残っている。
「あなたは、感受性が強すぎて生きづらい」
母の言葉は、本当に的確だったと思う。同級生に嗤われやしないかとおびえ、