#114 『VRおじさんの初恋』から考える「恋の本領」
今日もお読みくださってありがとうございます!
ありがたいことに、以前に書いた文章にもぱらぱらと「スキ」していただくことがあり、それをきっかけに読み直したりするのですが、『ずっとやりたかったことをやりなさい』のワーク中に書いたものと今書いているものと、かなり趣が異なるように感じます。
どちらがいいとか悪いとかは置いておいて、あ、違うな、ということを認知できることも、note.を書き続けているよさだと思いました。
簡易投稿でタイトル画像なしが続いていますが、そのうち後から足すかもしれません。足さないかもしれません。
出会いは偶然
さて、昨晩は、NHKの『歴史探偵』を見ながら500枚近く溜まってしまった小銭(それも1円玉ばかり)を数えているうちに、ドラマ『VRおじさんの初恋』の第23話が始まりました。
昨年の是枝裕和監督の映画『怪物』で、危うげでとても魅力的だった柊木陽太(ひいらぎひなた)くんが出ているらしい、と聞いて気にはなっていたのでそのまま観ることに。VR世界と現実世界が並行して描かれるので理解できるまでに時間がかかりましたが……
ん??
どうやら、野間口徹さんと坂東彌十郎さんが、美少女アバターを使うVR世界で知り合って、恋に落ちた話っぽい。野間口さんのアバターは倉沢杏菜さん、やじゅぱぱのアバターは井桁弘恵さん。
なんだこれ、めちゃくちゃ面白そうなんですけど!
エピソード一覧全部読んだけど、現実世界とVR世界と二重になっていて、設定も複雑だから、説明する方も大変そうですね……。
でも見たら、俄然ここに感想を書きたくなってしまった。
すごい感化力です。
23話から観たニワカが語る『VRおじさんの初恋』の画期性
雑駁に設定の話だけすると、美少女同士の百合画面で中身はおっさんずラブ。それだけでも表現世界はすごいところまできたなあ、と思う。
でも、中身を詳しく見ていくともっとすごい。
おっさんずラブにしても、シスジェンダーかつ異性愛者によるおっさんずラブというのが新しい。これは、セクシャルマイノリティではなく、マジョリティ側、シスジェンダーかつ異性愛者に問いかける話なのです。
確かに中の人がシスジェンダー・異性愛者の男性で、VR世界でのビジュアルが倉沢さんと井桁さんなのだから、お互い出会った最初に惹かれ合うのは納得感が高いけれど、しかし何より心を掴まれるのは、中の人が野間口さんとやじゅぱぱだと分かった後でも互いに惹かれ合っている点です。
従来であれば、中の人が互いに中年男性と高齢男性だとわかった段階で、それがオチとして扱われてもおかしくなかったと思います。
でもこの作品では、互いを想い合う者同士の話として続いていく。
上記リンクからエピソード一覧を見る限り、中の人が分かった後、二人には葛藤が生まれます。まあそれはそうだと思います。特に野間口さん演じる主人公は苦悩したようですが、最終的にこれが自分の初恋だと受容します。
恋に「落ちる」とはよく言ったもので
つくづく、恋に「落ちる」とは言い得て妙な表現だと思います。
それは突然やってくる、コントロール不能なもの。
そして必ずしも心地よいことばかりではないもの。
少し話がずれますが、ディズニー映画『美女と野獣』の主題歌、映画では
と訳されています。
一方で、劇団四季ミュージカル版では、
となっています。
初めてミュージカルを観た時に、そうそうそれだよそれ!と思いました。
「扉をひらく」というよりは「淵へ陥ちる」ほうが、最初反発しあっていたが、あるきっかけで惹かれ合い始めるベルとビーストの物語に合っている。突然やってくる、コントロール不能なもの。
(この話をずっと書きたかったけど機会がなくて、ぴったりの話題に巡り合えて良かった!)
「恋の本領」 フレームから抜け出せば新しい可能性がある
シスジェンダーの異性愛者が、同性に、それも40歳と70歳で恋をする。
正面切った「恋」のテーマで、性別も年齢も超えてきた。
荒唐無稽なようだけど、でも、そういうことってあると思うんですよね。
自分にいい影響を与えてくれた・惹かれ合うことができた・よい関係性を築くことができた相手が、必ずしも「恋の相手として一般的に想定される条件」を満たしているとは限らない。恋が「落ちるもの」、「突然やってくるコントロール不能なもの」、「必ずしも心地よいことばかりではないもの」であるとすれば、「一般的に想定される条件」を満たしていない相手とのそれこそが、まさに「恋の本領」とさえ言えるかもしれない。
さらに言えば、何かをきっかけに「一般的に想定される(≒固定概念)」フレームから抜け出せば、そこには新しい可能性があるということです。
そして、この作品は、そういうことがあることを、温かく受容しているように感じられます。
仮想現実でも、変身には効果がある
また、VRでは現実世界とはかけ離れたビジュアルのアバターを使いたいという気持ちも、とてもよくわかります。
くらたはVRはやったことがないけれど、ポケモンGoもニンテンドーアカウントも、肌も髪も現実とは全く異なる色に設定しています。
現実の自分の身体性から離れて、ちょっと自由になる感じ。
その見た目での他人からの扱われ方を体験して、自分のふるまいが変わって、その経験が現実の自分にも影響を与える……、とても納得性の高い描写です。
イシス編集学校では、「さまざまなロール(ポリロール、と呼んでいた)を経験せよ」と言われます。複数のロールを演じることで、多様な他者との関係性を経験し、自分の側面をたくさん発見していく、それが自己編集、という話でした。
アバターも、それに似ています。
わあああ、すごい作品が来たなあ!
分断・対立の時代に
最近、note.の有料記事で読みたいものの中に「X(旧Twitter)でシェアしたら読める」という仕組みの記事があって、今更ながらX(旧Twitter)に登録しました。
(どうでもいいけど「X(旧Twitter)」って書くのめんどい。Xで検索してもヒットしないし、「X」に改名したことによる全世界の人の手間をすべて換算したら損害額すごいことになると思う)。
ついでなので久々に「X(旧Twitter)」を見てみたら、岡田斗司夫の言ったとおりスラム化がすごい。「ママチャリ炎上おばさん」だの、「男が察しろ」「女が説明しろ」だの、隙があればこっちとあっちに分かれて分断・対立している。
似たようなことはスレッズでも起きていて、どれもこれも既視感がある話題で繰り返し盛り上がっている。
社会・環境から離れて生きることはできないし、人生には限界があって、みんなが生きることに必死で大変な思いをしているからこそ分断が起きてしまうとは思うのだけれど、そういうときに、性別も年齢も「あたりまえ」を超えていくこの作品は、ステレオタイプな性別論・世代論・恋愛論から自由な、新しい希望のように感じられました。
原作を試し読みしてみたら、主人公は、背が高くなく太っていて、毛髪が薄くなった中年男性として描かれていました。
原作ではさらに美醜の概念も超えていくのか。
なんて自由!
『ロミオとジュリエット』で描かれた家同士の対立が二人の愛を阻む構図が現代では古い時代のことに思えるのと同じように、この作品で葛藤の原因として描かれたこと(異性愛者だとか同性であるとか何歳であるとか美醜であるとか)が、古いことと思える日が来たらいいなと思います。