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#38【雑感】書く・影響を与え合うこと―note.開始1か月

またも日をまたいでしまいましたが、2月23日の分の投稿です。

インタースコア 影響を与え合うこと

くらたが学んでいた「イシス編集学校」(松岡正剛校長)は、いわゆるメディア編集の具体的技術ではなく、氾濫する情報と知識の時代に、それらを「編集する」「方法」を学ぶ学校でした。情報と知識はいくらあってもそれだけでは生かすことはできません。それらをどのように活用するかは各人の「編集」にゆだねられています。

そこでは「インタースコア」という言葉が大切にされていました。同名の書籍も発行されています。『インタースコア』(松岡正剛&イシス編集学校/春秋社)。日本語では「相互記譜」と言いかえられていて、直接的に言い換えると、「互いのノートに記すこと」。大意としては、他者がさしかかりあって己が持つ方法を交換し合う、相互に影響を与え合う、学び合うこと、だとくらたは受け取っています。その場に差し掛かること、交わし合うこと、それがとても重要であるという言いかえもされていたと記憶しています。

ステフィン・カリーと目が合った?!

馬瓜エブリン選手がファンサービスの重要性を語ったポッドキャストの中で、「NBAの試合を観に行ったとき、カリーと目が合った」と言ってステファニー選手に「それマジで言ってる?!」と言われる場面がありました。
カリーはどうか知りませんがエブリン選手はちゃんと目線をくれます。くらたも女子バスケ選手に目線がもらえるとうれしいです。また、女子バスケ選手の多くはインスタグラムをやっていて、誕生日などにメンションすると多くの選手が見てくれます。この近さが女子バスケの魅力です。

目線をくれたり、メンションした投稿を見に来てくれたり。
「あなたを認識しています」という表明がうれしい。それはなぜか。

もちろん存在の肯定もあるでしょう。でもそれだと、先方からこちらへの一方的な方向性が強い。さらにくらたはこの「インタースコア」の可能性を秘めているからではないかと思っています。

拍手 インタースコアの可能性

先日、歌舞伎を観に行ったとき、隣に座ったおっさ……失礼、どこぞのお大尽様が、すこぶる態度が悪かったのです。たぶん同伴の、金髪に染めたお化粧上手な毛皮のお姐さまにねだられてきたのでしょう。真剣に見入っているお姐さまの隣で、ワンカップぐびぐびぐびぐび飲みながら、時計みたりスマホみたり。飽きちゃってお姐さまに話しかけてすげなく無視されてやんの。お姐さん、こっちが迷惑だから今すぐ連れて帰ってくれませんか。

くらたが一番むかついたのは、そのおっさんの拍手です。「簡単に俺様の拍手がもらえると思うなよ。拍手するかしないかは俺様が決めてやる」と言わんばかりのふんぞり返りぶりでぜんぜん拍手しない。お姐さまが熱心に拍手していると、良しあしのわからない野暮天と思われたくないと、しぶしぶパチパチパチと2~3回嫌そうに手を打つ。

たった10歳の長三郎ちゃんが衆目の中、元気いっぱいに立派に仔獅子を勤めているのに、あんだこのジジ……いやいやお大尽さま、それはあんまり大人気ねえじゃござんせんか。

くらたは「損得」という言葉を使うのはあまり好きではないですがお大尽は好きそうだから敢えて言おう、そういうの結局自分が一番「損」すると思うんですよね。「芝居小屋の見料なんて俺様にははした金だ」とか言われそうですけどそういうことじゃなくて。

以前、中村屋密着ドキュメントで勘九郎さんと七之助さんが、故・勘三郎さんに「満場の拍手、お客様が盛り上げてくださる時こそ、芸が荒れやすいから注意するように」と再三教えられたと話していました。逆に言えば、観客の拍手にはそれだけの力がある。鍛錬を重ねた役者さんをして、芸を荒れさせてしまうかもしれないほどの力が。
われわれ観客は拍手をしたり声をかけたりすることで、舞台上の役者さんと影響を及ぼし合い、交わし合うことができる。(役者さんがこちらに届けてくれるもののほうが大きくて、こちらが届けられるものの方が小さいのは承知の上ですよ、もちろん。)
その、こちら側から役者さんに何かお届けできるかもしれないかすかなよすがが拍手です。大枚はたいて劇場内にいるからは、そのチャンスをみすみす逃すなんてもったいないと思うのです。
「俺様ひとり拍手しなくたって変わらない」ですって?ぜんぜん変わるだろ、「自分がその場に積極的にコミットしたかどうかの自分の体感」が。

学ぶ力とは

その場から何を持ち帰れるか、何を学べるか、何を生かせるかって、自分次第だと思います。どうせならたくさん学んだり持ち帰ったりした方が「得」だと思いませんか。わが師(勝手に!)内田樹先生も言っておられます。

「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。

第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。

この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。

その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。

内田樹の研究室『学ぶ力』(2011/9/2)

人類は交換がお好き

もうひとつ、内田樹さんからの引用を。

貨幣や商品は「くるくる動き回るもの」である。
市場は「ものがくるくる動き回る場所」である。

以上。
(中略)
どうしてそういうことになるかと言うと、私たちは何かがくるくる動き回るのを見るのが大好きなだからである。
それなしでは生きてゆけないのである。
理由は知らない。
(中略)
私たちは「物と物ができるだけ速く、できるだけ大量に交換される」事態に抗しがたい魅力を感じてしまうのである。
それはクロマニヨン人の子孫なんだから仕方がないと私は思っている。

内田樹の研究室『3月12日』(2001/3/12)

少し古い記事ではありますが、大変面白い指摘なので詳細はぜひ原文をご覧ください。近年ウチダ先生がよく話題にされる「贈与」「資本論」の話でもこのあたり触れていたかもしれません(氏の著作を乱読し過ぎてもうどこに書いてあったかソースを探すのが大変)。

これは直接的には交易、経済の話ですが、人と人の情報もご多分に漏れません。学ぶこと、交わし合うこと・インタースコアは、人間の生物的な深いところにセットされた欲求なのでしょう。

くらたがここに書くことの意味 note.開始から1か月

note.に集う人が記事を書いたり、他人の記事を読んだり、スキをつけたりコメントを付けたり返事したりする、それはとても相互編集的、インタースコア的だと感じています。
note.を始めた時は、自分の考えを書き記してそこに置く、ということまでしか考えられませんでしたが、初めて見て約一か月たち、自分にとってそうした編集的な交わし合いの場となっていることがありがたいなと感じたのでした。

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