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惰眠
2023年1月22日 19:48
年が明けてから風の如く一週間の月日が流れた。職場のデスクで飛び交う新年の挨拶も月並みなもので、三度、同僚間のやり取りを見遣りながら飽き飽きしていた。オフィスの窓側後方。所望していた訳では無いのだが角の席を宛てがわれたことで、私は上司と、隣のデスクの人間に挨拶をするのみで難を逃れている。幼い頃は「あけおめ」とひと言投げて終わりだったやり取りがこうも社会一般のものとなると、どうも堅苦しく思えるのだった
2022年11月9日 21:15
「〜年ぶりの皆既月食」と書かれてもどこかピンと来ないまま、具もないスープを口に運ぶ。バナーに吊られた通知はどれも天体絡みのものばかりで、国道を埋め尽くす車の進路も、いつもより遅く進んでいるような気がする。揺れるのぼりの色もすっかり褪せてしまって、南向きの突風に曝されているのが見えた。具のないスープを見ていると、ひとり暮らしをしていた頃の慎ましさに戻されるような気がする。重い風邪を引いてひとり動け
2022年11月6日 21:21
ゴヤの絵画に片手を貼り付けて詭弁を叫ぶくらいなら、貴女の身体に両手を貼り付けて、全力の愛を叫びたい。長ったらしくも月並みだった告白を経て、私だけの星空を今、自分勝手にふたりのものにしている。生まれから離れて、十二星座のおとめ座は春に顔を出すらしい。ならば来春、私は毎夜おとめ座を拝みたい。思い出はひとつでも多い方が、と思うがゆえに、クアトロフォルマッジよりも100円だけ高いチンクルフォルマッジ頼
2022年10月10日 21:23
サウナでゆっくりと温まっていたら終電まであと30分。着替えなりドライヤーなりを済ませ、汗ばんだ天然水を喉に通しながら煙草を吸う時間、徒歩で駅へと向かう時間を加味するとこの時間ではギリギリ間に合わない。煙草を吸うとして、それを消した後にすぐに走り始めれば何とか間に合う気がするけれど、それはそれで胸が辛いと泣くような気がする。三丁目の信号は一度赤に変わるとなかなか顔を動かさない。旧道から駅前大通りまで
2022年10月5日 23:23
初戦敗退がもはや当たり前になっていた私の通う高校が創立史上初、めきめきと地方大会を勝ち抜く快挙を果たして、その勢いに乗せるままに甲子園準々決勝の切符を手にした。夏の風物詩に託けて浮き足立っているあの感覚は嫌いという訳ではなかったのだが、少年野球にしても中学野球にしても、草野球に毛を生やした程度の速度で進んでいくこの街にそれは似合わないように思っていた。そんな街が、十数年の時を経て、1試合3ホーマー
2022年9月18日 21:22
水面から露出した岩場より、蟷螂が水へ目掛けて落水、それは秋の終わりを意味する。尾端から伸びた針金虫を見た小学校六年の夏。その瞬間身体にびりりと走ったあの疼きは、驚きによるものではなく確実に、性的な疼きそのものだった。幼いながらに感じたそれは、同じ時期に欄干の脇にて落ちていたアダルト物の雑誌を拾った時の気持ちとよく似ていた。針金虫の卵鞘を喰らってしまった蟷螂は、秋の終わりに至るまで、針金虫のゆりか
2022年8月29日 20:39
知らなければ良かったことなんて生まれてから幾つもあるし、私は尽く執着をするタイプだから 物心がついた頃からのそれは凡そ記憶の中に留めている。20数年分の蓄積。その何れの軍を高高と超えてしまうくらいに知らなければ良かったと思っているのが、「先輩の結婚」だった。画面いっぱいに写っている彼女はとても幸せそうで、婚姻届の脇に据えてある指輪が二つに折り重なっている。「何ヶ月も悩んでやっと購入を決意した」とい
2022年8月24日 23:07
禁煙を宣言した友人と縁を切った。大学四年間を共に過ごした彼が今となっては元友人という名に変わり、単なる同級生という関係に落ち着いている。出会った頃から暇さえあれば外に繰り出すのが常だった。あちらが彼女と別れたと騒ぎながら、汗だくのまま私の家に逃げ込んで来た大学三年の夏を思い出す。居酒屋で稼いできた雀の涙ほどの給料を折半した家賃に充て、残りの金で酒と煙草を買ってくる彼は川べりで鳴いていた鈴虫が死ん
2022年8月19日 02:21
「泡沫」という字の並びを、" うたかた " と読ませようか、また " ほうまつ " と読ませようか、書き掛けの小説を前にして部屋の片隅でひとり、迷っていた。漢字に変換してしまえばそんな読み方などどうでも良いように思えるし、またこれを読む者もそこまで意識を投げうらないことには違いない。しかしながら、どちらを取るかで意味の奥深さたるものが変わってくるものだから、この頃はどうも勿体ぶってしまうようになっ
2022年7月2日 20:18
私の携帯を鳴らすのは君しかいない、なんていう馬鹿なことを考えていたことがあった。社会人ともなると、そこに意味があろうとなかろうと卓上の携帯はトクンと脈動する。東西線の鉄の隙間でこうして眠りに落ちそうになっている間にも、手元の携帯は人肌より僅かに温かく、熱を出しながら手の中で揺れていた。バナーに表示される無味乾燥な通知を無視して連絡先を開くと、今より2分ほど前に、君がプロフィールを更新したことを確認
2022年6月4日 04:43
昔住んでいた家に今どんな人が住んでいて、どんな生活を送っているのだろうと考えていたら深夜3時になってしまった。離れ際にあの公園の街灯の軒下に放った蛙は時節に喰われて骨になった頃だろうか。徒歩数分の関係性だった朋友とは今や電車で数時間の関係性へと落ちが着いている。仕事に慣れてきて嬉しいと思う反面 " 懐かしさ " は一層色を強くしていく。それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からないけれどそれ
2022年6月3日 01:14
めきめきと育っていくタクシーのメーターをぼやけた視界の隅に捉える頃には、四つ足のタイヤは京都の地を踏み始めていた。物珍しさ故のものなのか、始めこそ嬉々として話しかけて来ていた乗務員もいよいよ苛苛して来たと見えて、ルームミラー越しに映る眼の中は完全に光を失っていた。やんわりと断りを入れる乗務員に無理を言って東京から京都まで流して貰っているのだから無理もない。旧知の間柄であってもここまでの長距離運転は
2022年5月25日 21:20
電車の乗り換えひとつをこなすだけでもあたふたしながら、なんとか二回目の乗り換えを終えて三両目のシートに腰を掛けた。たった今道を外れてとんでもない方向へと向かっているというのに、不思議と胸の中は安堵で満ち満ちていた。小学校入学から大学卒業に至るまで、無遅刻無欠席無早退のまま全ての課程を終えた私にとって、何としてでも休まないという事実のみが最大のステータスだった。皆勤賞を貰うべく壇上に上がること、
2022年5月17日 00:45
マッチングアプリで出会った男に二時間前に捨てられてしまった私は、渋谷駅のガード下でひとり、発泡酒を飲んでいた。" トイレに行ってきますね " と言い残して消えていった男の、微かに振られた右腕の意味を理解する頃には時既に遅く、チャット欄に並べられた角丸ゴシックも根こそぎ消えていた。生まれてこの方、一度も都会に踏み入れたことのない私にとって、今回の来訪は一大決心と言えるものだった。二年間通った地元の