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夏の遺骸 / 創作

「泡沫」という字の並びを、" うたかた " と読ませようか、また " ほうまつ " と読ませようか、書き掛けの小説を前にして部屋の片隅でひとり、迷っていた。漢字に変換してしまえばそんな読み方などどうでも良いように思えるし、またこれを読む者もそこまで意識を投げうらないことには違いない。しかしながら、どちらを取るかで意味の奥深さたるものが変わってくるものだから、この頃はどうも勿体ぶってしまうようになった。

コンタクトを付けていない視界がみるみるうちに不明瞭な形に変わっていくのを、近年やっと意識するようになった。コンタクトを付け始めてから早くも九年目に突入している。視力を矯正するためのプラスチックフィルムの存在によって、ますますピントが合わなくなっていく様を、私は永らくこの目で見届けている。
取り替えが面倒だからという理由で思い付きからワンデーに終止符を打ち、ツーウィークに変えてみたもののこれまた面倒になってしまった。手元に転がったコンタクトケースの中に含まれた洗浄液は基本的に使い回し、毎朝バタバタとしながら液中からそれを取り出すといった具合で、明朝のざわめきでもって少しずつ量を減らしている。二週間の契約期間もとうの昔に終えてしまい、付け始めてからひと月が経とうとしている。視力低下においても、電気を付けないという不精な性格が招いたものであるというのに、これまで以上に面倒な方向へと傾いてしまった。九年間の経験を経て学んだことは、コンタクトを付けるような人間の大半は、型に嵌めたような生活は似合わないということである。

起き抜けにカレンダーを確認すると、今日は水曜だった。夏の中にひとたび放り込まれてしまうと、曜日感覚はおろか、時間の感覚まで不明瞭なものになる。不思議とそこに不安も覚えることはなく、寧ろ心地良いくらいだ。曜日、時間、という数字から放牧されている時ばかりは現実もまた現実ではないようで、変幻の中を這い回っている私は現実という束縛から逃げることができる。無理やりに逃げなければならないほど、私自身困窮している訳では無い筈なのに、今日ばかりはカレンダーにぐっと近づいたことを軽く後悔して、壁掛けのカレンダーを外して隣の部屋へと投げ込んだ。

ほんの気まぐれで、コンタクトを付けない日がある。当然、目に飛び込む光は全てピントが甘く、また暗く、絞りを弄っていないカメラのファインダーを覗いている時と同じような気分になる。脳裏に座する今にも消えそうな記憶の淡さと写る色はこれまたよく似ていて、二度と戻れない場所へ自ずと戻れるような気がしている。聴覚優位になった耳には環境音が流れ込んで、視覚の欠乏した分を取り戻そうとしているようだ。真夏の真ん中であれば、十秒と待たずとも取り戻しが効いたのかもしれないが、秋という枕にて眠りに着こうとする夏を前にすると、十分、十時間と時を刻んでも取り戻せる気がしなかった。

「スィーーーッ」というさえずりから始まる8月後半のつくつくほうしの鳴き声は、ワンターン刻む毎に闇雲に夏を破壊しているようで、忙しなく冷たかった。ドラマなどで真夏の表現として使われるその鳴き声も、厳密に言ってしまえば夏の風物詩ではなくて、最盛期もとうに過ぎてしまった秋口の風物詩でしかないと感じている。神社の枝葉を蹴り落とすように鳴き散らす宛先を探すその瞬間も、尚も視力は不明瞭なままだった。神木の麓で忙しなく腹を動かす蝉を指先で摘んで、無理矢理樹皮から引き剥がす。罰当たりの骨頂のような行為も、耳伝いの情報を鯨飲していると感覚すらもすっかり泥酔してしまって、どうでも良いことのように思えた。酷く曇った視界を携えて、酷く冷静になった私はばつの悪い顔をしながら掌握された蝉を外へ放す。形容し難い鳴き声を残して飛んでいく蝉の寿命もあと僅か、涼しい空気の流れに踊る絵馬がぶつかりあって、ことことと音を立てる。コンタクトを変えよう、と意気込みながら家路に向かいながらも尚、夏が終わろうとしていた。



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