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「21世紀に生きる」~就職氷河期の就職活動から学んだこと

こんにちわ、OgAzです。

実家の両親から届いた宅急便の中に、1冊の本が入っていました。きっと父が入れてくれたのでしょう、大好きな司馬遼太郎さんの『二十一世紀に生きる君たちへ』。

宅急便に入っていた現物

―懐かしい。まずそれが第一印象。就職活動でポッキリ折れた私の心を励まし、背中を強く強く押してくれた話でした。つらかったあの頃、私の胸にはっきりと差し込んだ光明。本が人生を変えてくれることって、本当にあるんだなと感じたものです。

父からの贈り物を手に、就職活動の頃のことがまざまざとよみがえりました。でも同時に、「あれがあるから今の私があるんだよな・・・」とも実感します。そこで今日は、就職氷河期世代である私の就職活動について、つらつら書いてみようと思います。

司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」

大学で日本史を学んでいた私にとって、司馬遼太郎さんは神様のような人。本はほとんど持っていたし、講談集などで垣間見える人生観も尊敬しています。「自分は歴史の中に多くの友がいる」という司馬さんの口から語られる歴史上の人物たちは、生身の人間よりよほど人間らしいのです。「どんなわき役にだって、その人なりの人生があるんだ」という当たり前のことを、私は司馬作品から学びました。

そんな中でも特に大好きなのが、『二十一世紀に生きる君たちへ』という話です。日本の行く末を憂いた司馬さんが、小学校の国語の教科書のために書いたとされています。私が見たのは『十六の話』という短編集でした。

就職活動が上手くいかず、なりたかった仕事に就く道が断たれました。絶望感と、この先どうしようという不安のなか、父にもらったまま部屋の片隅に放置してあった『十六の話』を手に取りました。手持ちぶさたにパラパラめくり、ふと最後の小節が目に入ってきました。

君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足取りで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見つづけながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。

『二十一世紀に生きる君たちへ』より一部抜粋

1人暮らしの部屋で、声を出して泣いたのは初めてでした。いろんな感情が入り混じって、なんで泣いているのかもわからなかったけれど、とにかく1人で大泣きしました。こんなボロボロな私でも「真夏の太陽のようにかがや」くには、今、どうすべきだろう。そんなことを考えたのを覚えています。立ち上がろうと、強く思いました。

就職氷河期の就職活動

2002年に大学を卒業しました。一般的に1993年から2005年卒業の世代のことを「就職氷河期世代」と呼ぶそうで、私はその末期にあたります。「氷河期」がさらにひどくなって「超氷河期」と呼ばれていた、そんな時代。

大学3年生の春、学部ごとに講堂に集められました。リクルートの社員から就職活動について説明を受け、全員リクナビに登録するように言われます。3年生と言えば、ゼミの履修が終わってようやく自由な時間が増える頃。「さあ遊ぶぞ!と思っていた矢先に就職活動って・・・」と嫌な気分になったのを思い出します。

3年生から就職活動を始めて、秋からが本番、4年生の春には内定をもらっているのが私の周りでは一般的でした。大学の就職課担当の人からは「1人100通はエントリーシートを書くと思っておけ、そのくらい就職活動は厳しい」と言われました。実際に就職活動をしてみた感覚としては、1人100通エントリーシート、最終面接に行けるのが20社くらい。で内定を2~3個もらえればいい方かなと思います。今となっては信じられない話ですが。

報道記者になりたかった

私はマスコミ志望、報道記者になりたいと思っていました。同じく報道記者だった父の背中を見て、「自分もいつかああなるんだ」とずっと思っていたからです。

しかし就職氷河期のなか、マスコミの就職はさらに狭き門。試験も面接も一般企業より基準が厳しいというのはありつつ、まあ単に私の実力不足で、ぜーんぶ落ちました。そう全部。あんなに自分の価値観を否定されたことはないというくらい、跡形もなく全部ね。「あなたの考えているアイデアは、きっとほかの多くの人にも浮かんでいますよ」と意見をツブされたことも。きつい・・・。

大学は関西の有名私大、それまで割と挫折知らずで生きてきた私。実力もないくせに「自分はそこそこ出来る」と無駄に高くなっていた鼻っ柱は、就職活動でポッキリ見事なほどに真っ二つに折られたのでした。

就職氷河期とはいえ、同級生はみんな優秀なのも辛かったですね。4月の段階で、ほとんどの友達は有名企業の内定が出ていました。ゼミ生で私だけ内定がない4月・・・地獄のようでした・・・。

大学4年の4月段階で、都市部のテレビや新聞の会社は軒並みダメ。地方局の採用試験はこれからだけど、このまま続けても就職できる保証はどこにもない。そもそも、どんな理由だろうと採用試験に落ちているわけで、それってつまり業界に対する適性がないってことだよなと思い始めていました。ああ、ずっとあこがれ続けたそこに、私の居場所はないんだなと。無力感しかない。

そんなときに目にしたのが、『二十一世紀に生きる君たちへ』でした。

否定され続けた先に見えたもの

未来に向かって生きるんだ。社会に出なければ、スタートラインにも立てない。本を読んで、そう思いました。違う業界を当たって、ちゃんと自分で納得して就職しようと、心から思うことができたのです。あのときあの本を読まなければ、きっと私は就職浪人していたか、あるいは大学院に進学していたかも。マスコミの仕事にしがみついて、今のようになっていなかったかもしれません。

改めて自己分析をしてみて、私がやりたい仕事は「何かを作る」ことだと思いました。そこで巡り合ったのが現職、システムエンジニア。私調べでは「就職活動で第一志望に失敗した人たちがなる仕事」No.1でしたが。当時のIT業界は若い人材不足で(あれ?今もか)、だいたいどこも「文系・未経験でも、研修があるから大丈夫!」と言っていたので、就職を決めました。6月ごろのことです。

実際に仕事が始まってみたら超絶ブラック企業で、残業・終電・土日出勤に徹夜まで一通り経験。人生上手くいかないんだなと思ったものです。しんどいし、心も病むわ体もこわすわですったもんだでしたが、なんせ苦労して自分で選んだ仕事ですからね。一人前になるまで意地でも辞めるかクソが!と歯を食いしばり、4年続けてから転職しました。この4年が、今SEとして活動する私の下地になっていることは言うまでもありません。

結び

就職活動で挫折してエンジニアにならなければ、今みたいに家で悠々自適に働くこともできなかった。夫にも出会っていないし、子どもたちとも出会えなかった。そう考えると、あの挫折は私の人生のターニングポイントだったんだなと実感します。夫には「たいした挫折じゃないじゃん」と言われますが、志していた道が断たれるというのは、やっぱり挫折なんですよ。他人にとって大したことじゃなくてもね。でも今となっては、沈みゆくマスコミ業界に入らなくて本当に良かった。挫折も悪いことばかりではないということでしょうかね。

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