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エッセイ・コラム

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#文章

「好き」の原体験を探る

「好き」の原体験を探る

そういえば、ことあるごとに文章を書くのが好きだ好きだと言って憚らない私だが、そもそも文章を書くのが好きになったきっかけはなんだったのだろうか。

仕事をする前、大学の時分には暇を持て余してつたない小説を書いたことがあった。どれも陰鬱な作品ばかりで小説とは人間性がよく出るものだと我ながら感心したものだが、同時に小説を書く作業というのは苦難以外の何物でもなく、おそらく私には向いていないのだろうと半ばあ

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文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

以前取材先の人から「文章を書いて世に発信するって僕にはできないです、自分の書いている文章を自分で読むのがなんだか恥ずかしいので」と言われたことがあった。なるほどなあと思いつつ、私は自分の文章を誰かの前に晒すことに何ら抵抗がないという事実に気づいた。

厳密にいうと、文章を晒すことが恥ずかしいとか恥ずかしくないというより、文章を書くことの快感がある状態なのだろうと思う。
そんな気持ちの良い状態を経験

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ネットで人の文章を読める時代になって

ネットで人の文章を読める時代になって

私がはじめてパソコンに触ったのは小学生5~6年生くらいのときだった。
家に「Windows XP」というOSのパソコンが届いたのを覚えている。パソコンの性能も通信環境も悪く、今のようにサクサク動画を見ることは難しい時代だった。
SNSもInstagramなどはなく、パソコンでやることと言えば当時流行していた「Flashアニメ」を見るかヤフーニュースを漁ることくらいしかなかった。

インターネットと

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 「やめる」決断をしたとき㊦

「やめる」決断をしたとき㊦

あのときの、急に胸を殴られたかのようなドキッとした感覚はいまでもこびりついている。自分の口からいつの日か伝えるものと思っていた話がコーチから突然口外されたのである。

ミーティングのあと、同じコースで練習していた友人から「なんでやめちゃうんだよ」と聞かれた。「いやあ…」と、うやむやに答えた気がする。
表向きは「受験だから…」とか「全国に出たから…」という理由だったが、実際は「練習はきついし、これ以

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言葉を捨てられる成長を

言葉を捨てられる成長を

大学の時分、「本を読まない文系は死んだ方が良い」という言葉を残した中国文学の先生がいた話を以前したことがあった。
個人的にその先生は結構好きでちゃんと講義にも通っていたのだが、講義中にある漢詩を紹介してくれた。

作者もタイトルも忘れてしまったのだが、内容としては「若い頃に書いた文章は年を重ねるとその未熟さを感じ、全て捨ててしまう。だから手元には何の文章も残ってはいないのだ」みたいな内容だった。

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「ありのままに描く」って意外と難しい

「ありのままに描く」って意外と難しい

「なんか上手に文章を書けなくて…」というひとは少なくない。
曲がりなりにも文章を書く仕事をしているわたしも「どうやったら文章を書けるようになるか」と聞かれることもある。

別に私もリルケよろしく流麗な言葉を紡げるわけではなく、文章がうまいと自負しているわけでもない。でもそんな問いを投げられたら「知らねえよ」というわけにもいかず、「うーん、こんな風にやったらいいんじゃないんですかねえ」などと自分でも

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己に不足している「神は細部に宿る」のこころ

己に不足している「神は細部に宿る」のこころ

仕事においては、スピードと質の両方を高めることが重要だ。

かつて勤めていた銀行は「ミスをしたらいけない」という仕事であるので、仕事(特に紙の事務作業)の質は100%であることが最低条件である。
スピードはもちろんだが、それ以上にミスをしないことのほうが重要だった。

記者となると日々時間に追われ続ける仕事の特性もあり、ミスをしないのはもちろんだがスピードのほうが重要になる。ミスをしそうであれば、

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言葉という「記号」の組み合わせで人は美しさに酔える

言葉という「記号」の組み合わせで人は美しさに酔える

高校生のころ、現代文の先生が突如、ソシュールという言語学者の話を始めたことがあった。

その際に「言葉とは記号である」という話をしてくれたのを今でも覚えている。
簡単に言うと、日本語でいう「リンゴ」が「リンゴ」という3文字によって表現される必然性などどこにもなく、”apple”でも"alma"でも、なんなら「めきぁてっふぴぴょ」みたいな名前だっていいじゃん、という話である。

要はある事象に対して

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失われゆくエクリチュール

失われゆくエクリチュール

言語学なんかでは話し言葉をパロール、書き言葉をエクリチュールと呼ぶが、社会人歴が長くなるなかで、私より若い人の書く文章に触れる機会が増えている。

その中で度々「お?」と感じることがある。
すなわち、「書き言葉であるにもかかわらず、話し言葉のように文章が紡がれている」のだ。

たとえば「~っていうか」「~あるかもだし」といった言葉はいずれも話し言葉である。
SNSや普段のチャットやブログなんかであ

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書くこと #とは

書くこと #とは

書くこととは自分にとって、何なのだろう。そんな疑問に向き合うきっかけになる文章に出会った。
講談社の「野間文芸新人賞」を受賞した町屋良平さんが、同賞の受賞を受けてしたためた文章だ。(……は中略)

そもそも新聞記事など、小説とは世界は異なるし、文量と質ともに比肩しうるところなどまずない。
ただ、曲がりなりにも「文章を書く」ということを仕事にしている身として、非常に考えさせられることばたちである。

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