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言葉を捨てられる成長を

大学の時分、「本を読まない文系は死んだ方が良い」という言葉を残した中国文学の先生がいた話を以前したことがあった。
個人的にその先生は結構好きでちゃんと講義にも通っていたのだが、講義中にある漢詩を紹介してくれた。

作者もタイトルも忘れてしまったのだが、内容としては「若い頃に書いた文章は年を重ねるとその未熟さを感じ、全て捨ててしまう。だから手元には何の文章も残ってはいないのだ」みたいな内容だった。
潔いなと思いながら、かたや当時の私には言葉を捨てるなどとてもできないことだった。自分の中からあふれ出た言葉のどれも、ウソではない以上は価値があると思っていたからである。

私は大学生の頃から、思いついたことをただノートに書くという習慣を続けている。
別に毎日やらねばならないわけでもないので気が向いた時にタラタラやっているが、かれこれ10年くらい書いていることもあってノートが10冊以上にまで増えてしまった。
さすがにかさばるなと思い、あるとき思い立って整理をすることにした。

見返してみると、字が汚くて何が書いてあるのかわからなかったものがほとんどだったわけだが、将来に向けて残しておくほど価値があると思えない言葉が多かった。
何より、その思想の浅薄さになんとも恥ずかしい思いがしたのだ。「世の中のことを何もわかっていない」と、言葉の青さを感じた自分が確かにいたのである。そんなこんなで整理した結果、2冊くらいまで圧縮できた。

文章を好き勝手書き散らすというのはそれほど難しいことではない。
たくさんの文章を書いて、とりあえず「空白を埋める」というのは、根性があればできる。
逆に言葉を捨てるのは難しい。捨てるべき言葉なのかどうか、判断がつかないからである。
事実、私も当時は価値があると思って10冊分のノートに言葉を書きためていたわけだが、10年もすればうち8冊分には「価値がない」として捨てられてしまう。

言葉を捨てるためには自分自身の成長が必要なのである。それも、何年かしたら過去が恥ずかしくなるくらいの成長が必要なのだ。知識も感性も成長するから、文章は知的になり、そして情感がこもった形で洗練されていく。それが言葉を捨てるということである。

年を重ねても文章が異様に長い人がこの世の中にはいる。もちろん美文を連ね続ける人もいるが、大概の場合、あまり大した内容がないものだ。
洗練された文章は短く、それであって人の心を打つ。それ以上の言葉を必要としないほど説得力ある短い言葉を、書く人間としては求めていかねばならない。それはすなわち詩人のこころである。

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