言葉という「記号」の組み合わせで人は美しさに酔える
高校生のころ、現代文の先生が突如、ソシュールという言語学者の話を始めたことがあった。
その際に「言葉とは記号である」という話をしてくれたのを今でも覚えている。
簡単に言うと、日本語でいう「リンゴ」が「リンゴ」という3文字によって表現される必然性などどこにもなく、”apple”でも"alma"でも、なんなら「めきぁてっふぴぴょ」みたいな名前だっていいじゃん、という話である。
要はある事象に対してついている名前というのはあらかじめついているものではなく、どこかのだれかさんが突然つけた(ラベルをはりつけた、といってもいい)ものにすぎないのであり、その名前にはなんら必然性もなく単に物事を区別するための「記号」にすぎないのだ、ということである。
私は先生からこの話を聞いたときにいたく感動し、文章とは、有限の言葉という「記号」の組み合わせにすぎないという事実を認識することができたのである。
文章が所詮記号の組み合わせにすぎないのであれば、そうそうすごい文章を生むことってできないのではないか――と思ったのだが、才能が強烈に発露する小説の世界においては、誰も真似ができないほど美しい言葉たちにあふれている。
元東京都知事の石原慎太郎氏は、もともと作家として仕事のキャリアをスタートさせた人である。政治家としては「むっちゃタカ派のおじさん」くらいのイメージしかなかったが、小説『太陽の季節』にはこんな一文がある。
普段の言動からは想像もつかないほど美しい文章である。「これ石原慎太郎が書いたのか?」と学生のころに思ったのをよく覚えている。この文章を自らの才能を以て書くというのはほぼ間違いなく至難の業である。
同様の文章はほかにもある。
開高健氏の『夜と陽炎』では、こんな文章がある。
グロテスクではあるのだが、人が死ぬ瞬間を克明に描いたという意味で私は美しい文章だなと思う。
言葉を通じてありありと映像が浮かび上がるようなことが時にあるけれども、読者でもこれほど色鮮やかに浮かぶのだから書いている当の本人は極めてビビッドな色合いで世界が見えているのだろう。
私自身も記者として、冷めた言葉を世に発し続けている。それはそれで大事なのだが、だからこそ己の感性が乾いてしまわぬうちに、コラムなりエッセイなりで美しい言葉を紡ぎたいものである。
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