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己に不足している「神は細部に宿る」のこころ

仕事においては、スピードと質の両方を高めることが重要だ。

かつて勤めていた銀行は「ミスをしたらいけない」という仕事であるので、仕事(特に紙の事務作業)の質は100%であることが最低条件である。
スピードはもちろんだが、それ以上にミスをしないことのほうが重要だった。

記者となると日々時間に追われ続ける仕事の特性もあり、ミスをしないのはもちろんだがスピードのほうが重要になる。ミスをしそうであれば、ぼかした表現や幾分穏当な表現にすることもある。
そしてひどい場合は、質を十分に高めることもできずに記事が世に出てしまうということもある(そして時に訂正の憂き目を喰らったり、神がかり的なムーブで訂正を回避できることもある)。

私はわりあい大雑把な性格であることもあって、仕事のスピードはまあまあ早いほうだと自負している。一方で仕事の質は必ずしも担保されていない。
一言でいえば、60~75点くらいの仕事をボコボコ作り上げるのが性に合っているのである。

そんな日々のなかでだいぶ前に、深夜にデスクから電話で起こされて一本の記事を書いたことがあった。
こちらが書いていない情報について、他紙に先んじて記事化されてしまった。いわゆる「抜かれ」が起きたのである。そのデスクからの電話は、抜かれたニュースについて後追いせよという連絡だった。

確か深夜1時くらいだったので「面倒くせえな」と思いながら対応し、60点くらいの記事を15分程度で出した記憶がある。
さすがに適当すぎたのかデスクからちゃんとしたフィードバックがあったのだが、その際に「神は細部に宿るんだ」という話をされたことがあった。

この言葉がやけに耳に残った。

それは、それまでこだわった原稿ほどデスクに直され、「神は細部に宿るというけどこだわった細部をめっちゃデスクは直してるじゃねーか、ニーチェが言うようにもう神は死んだのか」などと思いながら私は記事を書いてきたからである。
もう細部などこだわったところで――と、半ばあきらめたように記事を出したその時に「神は細部に宿る」などと言われたものだからなおさら腹が立ったのである。

しかし改めて考えてみると、そもそも原稿を直されるのは私の原稿がへたくそだからである。こだわっていようがこだわっていまいが、そもそも原稿が下手であればそんなところに神がいるわけもない。
神は死んだのではなく、そもそも生成されてもいない段階である。

己の実力不足を棚に上げて一方的な怒りを抱くのは、我が事で恥ずかしながら極めて未熟である。

文章を書くのは誰にでもできることなのだが、こだわりはじめるとどこまでも追及できてしまう。諦めれば「ほどほど」で文章を書いておしまい、とすることはできるのだろうが、高みを目指すには自分なりに「細部」にこだわっては直され…という日々のなかで少しずつ力をつけていく必要があるのだろう。

誰にでもできる同じことを、途方もないほど繰り返すことでしか、細部に「神さま」を宿らせることはできない。

日々に忙殺されて時間に追われたとき、怠惰は頭をもたげる。
そこで「そうそう、神は細部に宿る…」と心に留めて真摯に文章に向き合うことが、次のステップに向かうために必要なのだろう。

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