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書くこと #とは

書くこととは自分にとって、何なのだろう。そんな疑問に向き合うきっかけになる文章に出会った。
講談社の「野間文芸新人賞」を受賞した町屋良平さんが、同賞の受賞を受けてしたためた文章だ。(……は中略)

もっと若いころは無邪気に言えた「書くことは生きること」。いつからか胸を張ってそう言えなくなった。……では書くこととはなんなのか。今の私にとってそれは依存である。……もう書けないと思ったのに書いている、まるで書くことの方が自我のように、書くことのほうが「私」のように。……だれかの役に立ちそうな実用性に語りや小説が近づくたび弾かれる。「私」は人の役に立たない。突きつけられる「私」の空虚さに、書くこと読むことを通じて向き合えばもっと奥へと進み、過去や未来にもあるなにか大きなものへ繫がれるのではないかと信じた。……では書くことは信じることなのだろうか?「ほんのこども」を書き終えたときに私はそう思いたかった。だが実際にはそう言い切ること、思い切ることはできなかった。いまは依存としてか言えない、書くこととはなにか?そう問い続ける私の主体すら、怪しいままだというのに。

そもそも新聞記事など、小説とは世界は異なるし、文量と質ともに比肩しうるところなどまずない。
ただ、曲がりなりにも「文章を書く」ということを仕事にしている身として、非常に考えさせられることばたちである。

はて、町屋氏のように、「書くこと」に「依存」したことがあったろうか。
これは私見だが、大体小説を書くひとには精神的に「何か」あると思っている。そうでもないとあの量の言葉を紡ぎあげることはできない。
私も遊びで小説を書いたことがあるけれど、当時精神的に不安定だったり、現実との軋轢のなかで苦しんでいたときだった。それだけに、たくさんの暗い文章が自分の筆を通して生まれていったものだ。

大作家をみても、小説はやけに長い。
プルーストの「失われた時を求めて」など狂ったように長い。「失われた時を求めて」を読むことによって失われた時を求めてしまうくらいだ。あの量の文章をひとりの人生で、かつ一人の作品の中に完結させて紡ぎ上げることなど、およそ普通に暮らしていたらできない。
ほかにも、ドストエフスキーの「罪と罰」もまあまあ長い。しかしあらすじを言ってしまえば「老婆を殺した主人公が娼婦に罪を告白するよう促され自白してシベリア送りになる」というだけの話である。たったこれだけの話なのに、上下巻に分かれてあれやこれやとストーリーが展開される。
書くことへの「狂気」ともいえる固執であり、よりウェットで柔らかな言い方をすれば「依存」が根底にはあるのだろう。

確かに私は文章を書くことが好きだけれども、究極的に表現手法とは書くこと以外にも、話すこともあるし、顔でそれとなく伝えることもある。
「書くこととは…依存」となれば、大げさなようだが生きるために必要なものとして見なされているわけだ。
極端な話だが「書くこと」がこの世界から失われたなら、私は書けないからといって死ぬのかと言われると、別にそんなことはない。
書けないなら書けないでしょうがないか…と、良くも悪くも現実を受け入れて普通の生活をするのだろうと思う。

一介の新聞記者としてそれらしきことばをただ並べて入れ替える作業を繰り返している私とは、文章をしたためることが持つ人生への深さが、明らかに違う。
文章を書くという一つの物事に依存し、そして自らの肉体が文章とともに深い沼のような所に沈潜していく――この恐ろしさに耐えられない人間は、小説をしたためることはできない。
冷たいその沼に手のひらが浸ったくらいで「ひぃっ」と手を引っ込めてしまうようではいけないのだろう。そしてその沼に入ってまで文章を書きたいという意志も依存も、己の人生からは欠落しているのである。

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