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失われゆくエクリチュール

言語学なんかでは話し言葉をパロール、書き言葉をエクリチュールと呼ぶが、社会人歴が長くなるなかで、私より若い人の書く文章に触れる機会が増えている。

その中で度々「お?」と感じることがある。
すなわち、「書き言葉であるにもかかわらず、話し言葉のように文章が紡がれている」のだ。

たとえば「~っていうか」「~あるかもだし」といった言葉はいずれも話し言葉である。
SNSや普段のチャットやブログなんかであれば何も問題はないのだが、結構真面目にやらなきゃいけないとき(履歴書とか)にこういう文章を書いてくる人たちがいる。

そしてこれは、新聞の世界でもある。
私がそういった文章を書いたことがないというわけではもちろんないし反省することは多いのだが、人の原稿を見るようになって「新聞でこの文章は…」と目を疑うものもちょこちょこある。
記事の原稿に「わくわく」という擬態語を使っていた人がいたときには、さすがに衝撃を受けた(もちろんその原稿は日の目を見ることはなかった)。

こうした現象を「まあしょうがないよ、時代の流れだし」と切り捨てるのは簡単なのだが、個人的には書き言葉が廃れていくことはなんとも受け入れがたい。
たとえば、「筆舌に尽くしがたい」とか、「人口に膾炙している」とか、「幸甚の極み」とか、いずれも話し言葉で使っていたら「は?」となるわけで、書き言葉でないと伝わりづらい・伝わらない言葉もある。
こういう言葉が、テキストの世界でも話し言葉に侵食されて失われてしまうのが、どうにも惜しいのだ。

書き言葉が死んでいくのは他でもなくわたしたちが書き言葉を目にしなくなっているから=本を読んでいないから、にほかならないと思う。
SNSやブログなどの「書いてある話し言葉」に触れることこそあれ、純然たる書き言葉に触れていないのである。
本を通じて見ていないものを自分で使えるようになるはずもなく、結局わたしたちは話すというコミュニケーションはとるので、話し言葉がそのまま文章になっていく。

「読書離れ」という話があるけれど、「いやいや、SNSとかで文章は読んでいますよ、活字に若者が触れていないということではありませんよ」という主張をする人がまあまあいた。
確かにそれはそうなのだが、私としては「活字には触れていても、書き言葉には触れていない」ことのほうがむしろ問題じゃないのかという気がしている。

本も売れない、新聞も売れない、といった書き言葉の喪失の時代にあって、わたしたちの書き言葉はなくなってしまうのか。
古文よろしく書き言葉が少しずつ「古典」と化しつつあるいま、エクリチュールにしか表現しえぬ世界の消失を嘆き、変わりゆく時代の残酷さを思う。

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