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宝塚歌劇のときめきの先にあるもの

題名に「宝塚歌劇のときめき」と出しておきながら、あまりにも現実的で希望の無いようなことを書くのはナンセンスだが、それを承知で書く。
日本のジェンダーギャップ指数は、146か国中125位である。
これは昨年(2023年)のデータなので、もしかしたら今年(2024年)の順位は良い方向に変わったものになるかもしれない。
しかしながら、一昨年(2022年)の順位が146か国中116位であり、その翌年の2023年の順位は9ランクも下がった125位であったことを踏まえると、今年(2024年)の順位が劇的に良い方向に変わる、とはあまりにも言い難いだろう。
ジェンダーギャップ、とは何を示すものだろうか?
ジェンダーギャップとは、”男らしさ”や”女らしさ”など、社会的・文化的に作り出された性差によって生まれる、男女間の不平等のことである。
2023年度のジェンダーギャップ指数が146か国中125位の日本では、社会の多くの場面(特に政治と経済)において大きな男女格差が存在し、男性中心となって物事が進められている。
”社会の多くの場面で、男性が中心となって物事が進められている”
この言葉だけを目にすると、日本は男性ばかりが優遇されて得をしているような社会だと思いがちであるが、本当にそうだろうか?
男性ばかりが社会の中心に立つ、ということは、本当に男性にとって得なことばかりだろうか?
社会の中心に立つということは、この日本という国を動かすための重要な役割を担うことであり、それに伴って非常に大きな責任を負わなければならなくなるからである。
日本のジェンダーギャップ指数の順位を見ると、男性が優遇されて女性は陰へ追いやられているような印象を受けるが、もう少しそのギャップについて深く考えてみると
”社会の多くの場面で発生する責任を、男性が中心となって請け負っている”
という面が浮き彫りになってくる。
ジェンダーギャップを考える際、どうしても中心から外されがちな女性の方ばかりに論点が傾きがちである。
しかし中心に立ちやすい男性にとっても、この格差が個人の差はあれども”責任”というかたちで負担になっていることを忘れてはならない。
ジェンダーギャップ125位の日本では、男も女もその格差に苦しめられているのである。
今の日本では、自分では全く意図していないところで勝手に決められていた生まれながらの性別に当てはめられている、”らしさ”や役割分担という規範に多かれ少なかれ縛られながら生きていかなくてはならないのである。
女は家庭、男は外、というような”男らしさ”と”女らしさ”は表裏一体である。”女らしさ”を押し付ける社会であるなら、男性には”男らしさ”が必ず求められ、”男らしさ”を押し付ける社会であるなら、女性には”女らしさ”が必ず求められる。
”男らしさ”の解放なくして”女らしさ”の解放は無く、”女らしさ”の解放なくして”男らしさ”の解放はないのである。
どちらかの”らしさ”の解放だけが行われることはなく、解放が行われるのなら、それは両性同時の”らしさ”からの解放である。
ここまでは性別に限定した内容だったが、これは性別に限った話ではない。
生まれた場所(出身)に自分を生んだ親、自分の容姿…。ひとりひとりが違う人間として生きる世界に生まれる限り、私たちは自分ではどうにもならないものが生み出す格差、その不自由さに直面せざるおえない。自分で望んだものでもないのに、その属性に居るからといって時に優位に立つこともあれば、劣位の側になってしまうこともある。
その理不尽さに苦しめられたとしても、ひとりひとり違う人間として私たちが生まれてくる限り、そこから逃れることはできない。
それがあまりにも苦しく、逃れたくて逃れたくて堪らない理不尽さだったとしても、である。
その格差と不自由さ、理不尽さの中に強制的に組み込まれてしまう。

宝塚歌劇が生み出す”ときめき”の先にあるもの

私は宝塚歌劇が大好きだ。
ただ、宝塚歌劇に対して私が抱く感情はかなり特殊というか…。他のヅカファンで私のようなファン感情を抱いている人を、少なくとも私の周りのヅカファン(SNS含め)では見たことがない。
もちろん、男役がかっこいいから、娘役が可愛いから、宝塚歌劇が素敵だから、という理由でときめいて、熱狂することだって好きだ。
しかし、ジェンダーギャップ指数125位の現在の日本で、男も女もそれぞれ多少なりとも縛られてしまう現在の日本で、男と女の超えられない壁が明らかに存在している現在の日本で、宝塚歌劇が1914年から110年に渡って存在し続けてきた意味を考えるのは、単純にときめいたり、熱狂することの何千倍も楽しい。
何千倍どころの騒ぎではないかもしれない。何万倍、何億倍も、私はそのようなことに思考を巡らせるのが好きだ。
他人と違いのある人間として生まれる限り、すべての人間が性別や出身、親や容姿という自分では変えられないものに縛られている。
そこから逃れることのできないこの世界で、自分では変えられないものの中において最も多くの人が縛られやすいであろう”性別”というものに、宝塚歌劇は恐れることもなく、ひるむこともなく、挑み続けている。
宝塚歌劇は、人々がどうにもできずに縛られがちな”性別”というものに常に挑戦状を出し続けながら、この110年間走り続けてきた、と私は思う。
”男役””娘役”という、この現実世界での性別である”男””女”とは引き離された異次元の存在を創りだしたうえ、女性として生まれた人たちが厳しい鍛錬を重ねて徐々にその次元を生きるようになり、舞台という世界だけではあるけれど、その中を全力で生きる。
”男役””娘役”という、現実には絶対存在しない性を、女性として生まれた人たちがなぞる。特に”娘役”は”女”役ではなく”娘”役として生きるということ…。女性を演じる身でありながらも、自分が現実でも属する女性という性別をそのまま反映させることはなく、役を創りあげていくということが含むその自由さ、独創性が、私はとても好きだ。
女性が女性を演じる役割ではあるものの、あくまでもその存在は現実から離されたものであり、役者自身の女性という現実においても通用する性をそのまま役に反映させている訳ではないということを強調する記号のようなものとして、”女”ではなく”娘”を使っていると気付いた時は、宝塚歌劇という創作の奥深さに本当に引き込まれていった。
生まれながらの性によることなく、鍛錬をつんだ人間が”男役””娘役”という次元で生きることができるのだということを感じると、そんな創作の自由さに心が解放されていくような気がする。
宝塚歌劇が生み出す”ときめき”の先にある、”男役””娘役”という創作の中にあるそんな自由さ。それこそが、私が宝塚歌劇が大好きな真の理由、1番の理由…10年間他のものには目もくれずに、ひとときも醒めることなく、宝塚歌劇を愛し続けてきた理由である。
他のヅカファンに、私のようなファン感情を持つ人は誰ひとり居なかったとしても、幸いなことに、私と同じようなファン感情を持つ人が居たとしても、どちらにせよ、宝塚歌劇にそんな自由さを私が感じる限り、私は宝塚歌劇を愛し続けるのだろう…と思う。

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