【映画評】『シド・バレット 独りぼっちの狂気』(2023) 孤独な口笛吹き

『シド・バレット 独りぼっちの狂気』(ロディ・ボグワナ&ストーム・トーガソン、2023)

評価:☆☆☆★★

 近況報告――
 最近は、すっかり映画館に行く習慣から遠ざかってしまった。それどころか家から出ることもほとんどせず、「引きこもり」然として隠遁&思索の日々を送っている。
 先月(5月)は、2本だけ映画を観に行った。『ボブ・マーリー:ONE LOVE』と『シド・バレット 独りぼっちの狂気』だ。同じ日に、映画館をはしごして2本立て続けに鑑賞した。かたや黒人解放を訴えたラスタファリアンの伝記映画、かたや精神障害でドロップアウトしたカルト・ミュージシャンのドキュメンタリー映画、と、一応、2本とも「マイノリティの音楽についての映画」と分類することもできなくはない。まあ、ファン層はあまりかぶらないと思うが。
 まあボブ・マーリーも好きではあるが、私にとってより思い入れが深いのは、「引きこもり」の大先輩であるシド・バレットの方である。ピンク・フロイド在籍時の2枚のアルバム『夜明けの口笛吹き』『神秘』と3枚のソロ・アルバム『気違い帽子が笑う』(意訳)、『バレット』、『オペル』(アウトテイク集)は、これまで何度聴いたことか分からない。
 『ボブ・マーリー:ONE LOVE』は、ボブの生涯から「平和の闘士」というイメージに都合の良い部分だけを切り抜いてつなぎ合わせたような、観る価値のないクズ映画だった。一方、『シド・バレット 独りぼっちの狂気』は、まあドキュメンタリーとしてはそれほど完成度は高くなかったが、シド・バレットに思い入れのある者としては面白く鑑賞することのできた作品だ。
 ただ、予備知識のない者がこの映画だけを観ても、シド・バレットというのが要するにどういう人物だったのか、今ひとつ理解できないだろうとは思う。「才能あるミュージシャンが、精神に不調をきたして消息を絶ち、引きこもり化した」という大まかなストーリーはなぞられているし、「幼い頃、野菜を顔につけて家族を笑わせた」「歩き方が独特だった」といった細かいエピソードも語られるのだが、大まかなストーリーと個別のエピソードを結びつける中間部分、シドが何を考えていたのか、どういう人格の持ち主だったのか、といったことについては、結局、映画を観てもさっぱり分からないのである。シドの家族やピンク・フロイドのメンバーなど、映画に登場する豪華インタヴュイーたちにとっても、シドは理解し難い人物だった――ということでもあるのかもしれないが、それだけではなく、やはりドキュメンタリー映画として編集が悪かったのだろう。
 そして、どうでも良いことだが、「独りぼっちの狂気」という邦題はいかがなものだろう? どうも、ビートルズ感のある邦題だ(ザ・ビートルズ"Nowhere Man"の邦題は「ひとりぼっちのあいつ」)。
 ピンク・フロイドのファースト・アルバムの旧邦題が『サイケデリックの新鋭』(そりゃ「新鋭」ではあろうが……)、"See Emily Play"が「エミリーはプレイ・ガール」(絶句)、"The Madcap Laughs"が『帽子が笑う…不気味に』(Madcapの意味は「向こう見ず」だよ!)、"Opel"が『オペル〜ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット』(「ベスト」どころかアウトテイク集だよ!)、と、おかしな邦題をつけられるのはシド・バレットの業なのだろうか。

 映画を鑑賞してからだいぶ時間がたってしまったが、シド・バレットについて――というより、現代社会にとっての「シド・バレット的なるもの」について論じる文章を書いたので、下に載せよう。
 文章の後半は、少しテーマが変わり、「心の病」論、そしてファシズム論となる。

 イギリスを代表するサイケデリック/プログレッシヴ・ロック・バンド、ピンク・フロイドの狂気の初代リーダー、シド・バレット――本名ロジャー・キース・バレット。若くして絵画と音楽で卓越した才能を示し、1960年代後半、サイケデリック文化の最先端で華々しく活動した美貌の青年シドは、LSDの過剰摂取のせいか、有名ミュージシャンとしてのプレッシャーのせいか、はたまた統合失調症を発症したのか、徐々に精神に異常をきたしていく。所属していたバンドから追放され、陰鬱なソロ・アルバム2枚だけを残して表舞台から姿を消したシドが、その後、かつてのバンド仲間の前にひょっこり現れたのは、年月のたった1975年のことだった。だが、意思疎通もままならず、昔の美貌の面影もない太ったその男がシド・バレットと同一人物であることに、最初、バンドのメンバーは誰一人気づくことができなかった――。
 ロック・ファンならば誰もが知る、シド・バレットの転落物語である。
 ドラッグ絡みの悲惨な死を遂げたロック・ミュージシャンは多いが、シド・バレットの伝説が今なおファンをひきつけるのは、他のミュージシャンたちの死とは一味違う、「神話的」とも言える魅力によるのだろう。世俗社会を捨て精神世界へと旅立つため、美しい肉体を捨て去り、デブでよろよろの引きこもり中年男へと変身しなければならなかった狂人シド・バレット。精神の至高点めがけて「上昇」するためには、社会的な最底辺へと叩き落とされ、更に「下降」し続けなければならない――と、そんな逆説を、シドは自らの身体をもって生き抜いたとも言える。さながら、太古から世界に伝わる怪物への変身譚の、現代的な再現だ。
 皮肉な見方をすれば、それは、現代的な「神話」を求める大衆の欲望に対して、あまりに誠実な生き方ということでもあった。大衆は、発狂するまで精神世界を生き抜くことなど自分では到底できないが、だからこそ、自分の代わりに「あちら側」に行くことのできるスーパースターを絶え間なく追い求め、消費し、スターを通じて「あちら側」を垣間見ようと欲望する。ロック産業は、「あちら側」の幻影を供給し続ける壮大な装置である。
 しかし、当然、そうそう本当に「あちら側」に行ってしまうスターが現れるわけでもない。大抵の場合、「あちら側」の幻影はあくまで幻影、空振り、まがい物だ。シド・バレットは、ロックが本当は実現しなければいけないのに大抵の場合実現してくれないものを、自らの生を通じて突き詰めてみせたのだとも言える。ただし、シド自身の意思は、そこにはほとんど関わりがなかったかもしれないが。
 映画によれば、ケンブリッジの実家で長い隠遁(引きこもり)生活に入ったシドは、絵を描いてはすぐに破棄するということを繰り返していたらしい(ただし、写真には残していたという)。観客を拒否するアウトサイダー・アーティストとして、あまりに完璧な行動だ。そして、それはまた、公衆の面前で自分の作品を破棄して「観客の拒否」を演じてみせる前衛芸術家をも想起させるだろう(それとも、新作の発売記念ギグで、発売予定だったレコードをすべて燃やしてしまうパンク・バンド?)。当然、観客たちに向けて公の場で演じられる「観客の拒否」よりも、誰も知らない密室で行われたシドによる自作の破棄のほうが、遥かに「本物」だと言うことはできる。まるで、アウトサイダーは、アウトサイダーであることによって、「アヴァンギャルド」以上にアヴァンギャルドな存在であるかのようである。それとも、「アヴァンギャルド」は「アウトサイダー」のパロディであることを課せられているのだろうか?
 もちろん、シドのように精神を病み、「あちら」と「こちら」の境界線上で地獄の日々を送る者はシド以外にも大勢いただろうし、その中には、シドのように「芸術的」才能に恵まれた者も少なくなかったかもしれない。彼らとシドとを隔てるものは、ただ、若い頃にロックスターだったという特殊なエピソード以外に何もない。シド・バレットのような(そしてもちろんブライアン・ジョーンズやシド・ヴィシャスやカート・コベインのような)「本物」たちを輩出しうることこそが、ロック産業にとっては、自らが本当に「ロック」なのだと証明する根拠である。逆に言えば、シドのようなアウトサイダーが「あちら」を「こちら」につなげる触媒として「ロック」や「芸術」を選びうるということこそが、結果として、ロック産業やアート産業に、それらが「本物」なのだというお墨付きを与える、ということだ。
 そして、「あちら」と「こちら」をつなぐ触媒として選ばれうるのは、ロックや芸術だけではない。シャーマンの狂気。思想家の発狂。現実社会とあまりに密接なせいで「あちら側」と縁遠いと思われがちな政治の領域においてすら、ユートピア思想家やテロリストの狂気が、突如として顕現することがあるだろう(アウトサイダー・アートならぬ「アウトサイダー政治」だ)。「狂気の天才が出現し、勢力図を刷新する」という神話的な物語こそ、宗教や哲学や政治がその根底で実現しようとしているものであり、それと同時に、宗教や哲学や政治によって、自らが正統な「本物」なのだと証明するために絶えず利用される潤滑剤でもある。
 「聖」は「俗」の潤滑剤である。そして、そのように「俗」にまみれた「聖」を不断に否定することこそ、「聖」が「聖」であるために欠かせない営みなのだろう。まるで、閉ざされた部屋で自作を破壊し続けたシド・バレットのように、だ。もちろん、「聖」をアウトサイダー、「俗」をアヴァンギャルドと読み替えても良い。「アウトサイダー」がアウトサイダーであるというだけで「アヴァンギャルド」たりうるという俗な幻想をラディカルに否定すること(言い換えれば、社会的承認を拒絶すること)こそが、アウトサイダーを、「アヴァンギャルド」よりも更にアヴァンギャルドな、真のアウトサイダーとしうるのだ。
 シド在籍時のピンク・フロイドのファースト・アルバム、『夜明けの口笛吹き』(The Piper at the Gates of Dawn)の題名は示唆的だ(なお、この題名の引用元であるケネス・グレアム『たのしい川べ』ではThe Piperはパンパイプを吹く牧神パーンのことなので、この邦題も誤訳である)。「ハーメルンの笛吹き男」の昔から、大衆の中に繰り返し呼び起こされる「笛吹き男」=アウトサイダーの物語。「笛吹き男」はどこからともなく現れ、突如として消え去り、「どこにもいない」こと――つまり、大衆から徹底して孤立することでこそ、大衆の欲望を刺激する。

 ところで、大衆扇動者としてのヒトラーは、笛の力で子どもたちを意のままに操った「笛吹き男」と重ねられることがある。シドの大ファンであるデヴィッド・ボウイが、かつてヒトラーからの影響を公言していたのも故無きことではない。数多の「笛吹き男」たちを演じながら、自らはあくまでアウトサイダーの「まがい物」に徹することこそ、ボウイの活動のコンセプトだっただろうからだ。
 ファシズム自体がそもそも、明らかに一種の「アウトサイダー政治」でもあっただろうが、そうでありながら、なおかつ、その力の根源を自らの「まがい物」性に負っていた運動でもあった。「本物」が本物であるからこそ「まがい物」と矛盾なく同居できる地平、「まがい物」がまがい物であるからこそ「本物」を呼び起こすことのできる地平――ファシズムが切り開いていたかもしれない魔術的地平は、そうしたものだったのだろう。
 ファシズムと「笛吹き男」の関係、というテーマも興味深いものではあるが、論じ始めると長くなりそうなので、別の機会に譲ろう。ただ、ここでは、「本物」と「まがい物」ということについて、シド・バレット論からは逸脱するが、次のことを指摘しておこう。
 「メンヘラ」や「引きこもり」といった概念がカジュアル化した現代、「精神を病んで表舞台から姿を消し、長く引きこもりとして暮らした」というシド・バレットの伝説は、かつて程のインパクトをすでに失っているだろう。サイケデリック革命のさなか、LSDの伝道師ティモシー・リアリーは「君もジョンとヨーコになれる」とアジテーションしたが、現代社会を覆う憂鬱が創出するのは、いわば、「君もシド・バレットになれる(なってしまうかもしれない)」という事態である。もちろんそれは、憧れのスターと同一化できる喜びよりも、「負け組」に転落する恐怖と結びついた現象だ。そして、「心の病」のカジュアル化は、そうした恐怖を掻き立てるものでありながら、なおかつ、恐怖を緩和するものとしても働くはずである。問題が「病」だと名指しされれば、治療方針もたてられるからだ。
 かつては現実社会からの深刻なドロップアウトを意味したかもしれない「狂気」は、現在では、治療対象としうるカジュアルな「心の病」として、すっかり社会の内部へと回収されているわけである。そのように陳腐化した「心の病」を否定しうる「狂気」があり得たとしても、さしあたってそれは、「心の病」として発露する他ないのだろう。そして、そのことこそ、「心の病」をめぐる言説が、さも「真性」の「狂気」を扱いうるかのような幻想へと正当性を与えるのだ。シド・バレットの生き様が、結果的に、ロック産業が本当に「ロック」であるかのような証拠を与えたことと同じ構図である。
 「メンヘラ」や「引きこもり」は、心の病を治療して社会復帰するまでの準備期間として、あるいは服薬や在宅ワークなどで対処しながら付き合っていくべき個性として、肯定的に語られることも多い。心を病んで「脱落」した者たちにとって、そのようなイメージは、社会参加できない焦りや無力感を和らげ、自己肯定感を与えてくれるものだろう。自分は心の病を抱えているのだ、という自己規定は、それ自体が、自らの社会的立場を確認し、社会とのつながりを得るためのツールとして機能する。場合によっては、社会的立場のため、積極的にそのような自己規定にすがることもあるだろう。精神科での自分の診断名をSNSでアピールする、というのは分かりやすい一例だ。
 このような文脈に即せば、「君もシド・バレットになれる」というアジテーションは魅力的に違いない。もちろん、「シド・バレット」は、適当な「メンヘラ」のインフルエンサーなりアイドルなりに置き換えていただいて構わない。かつてはLSDを飲んでジョン・レノンと一体化することが社会変革の夢を見せてくれたが、現在では、処方された薬を一気飲みしてSNSで注目を集めることが、絶対に変わらない社会をやり過ごすための儀式と化している――という対比には、まあ、あまり意味がないかもしれないが。
 孤立を求めること自体が、社会的承認を得るための手段と化した現代社会。「狂気」が、ありふれた「心の病」としてキッチュ化した社会では、単なる「狂気」が狂気であるというだけで力を持つことはもはやあり得ない。そのことを認識した上で、あえて「狂気」が力を持ちうるかのような前提のもとで社会と対峙することは、ベンヤミンの言う「アウラの捏造」による「政治の美学化」ということにはなるだろう。すなわち、ファシズムである。
 言うまでもなく、重要なのは、「ファシズム」をファシズムであるという理由で否定することではなく、それがどのような「ファシズム」なのかを問題化することだ。つまり、社会的承認ではなく「革命」を問題化することであり、「アウトサイダー」のヘゲモニーのあり方を問うことである。「アウトサイダー」は、「アヴァンギャルド」を否定することで「アヴァンギャルド」以上にアヴァンギャルドであり、そして、言うなれば、最もラディカルな「ファシズム」(政治の美学化)を実現することによってこそ、最もラディカルな「反ファシズム」(芸術の政治化)を実行するだろう。
 社会から取り残された焦りと無力感、そして「自己実現」への強迫観念を抱えた中産階級の増大という、教科書的ですらある「ファシズム前夜」的状況の現れとして、「心の病」の蔓延を読み解くことは可能である(もちろん、単純な同一視は禁物だが)。「心の病」というレッテルのもとで社会に包摂されることを拒むアウトサイダーが、自らの「狂気」を社会のどこにも存在させることができないからこそ、あえて、客観的には自らと似た人々である「心の病」の患者たちを量的な同盟軍とする――可能な「ファシズム」の方向性の一つは、こうしたものだろう。
 そして、ファシストの倫理は、自らと、自らの「同盟軍」たちとの間にある敵対的断絶を引き受けるということに他ならない。単純化して言い換えれば、要するに、「安易に一体化しない」ということである。

 シド・バレットに始まりファシズムに終わる、おかしな文章になってしまった。シド・バレット論として読み始められた方には呆れられてしまったかもしれない。私にとっては、「芸術」「政治」「アウトサイダー」は地続きに論じるべき事柄である。テーマを逸脱させることこそ批評対象への礼儀、と開き直らせていただく。

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