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「愛の道」は僕らを試す。

 ゲストハウスに猫が来た。名前はVi(ヴィ)。生後2ヶ月半の男の子だ。

「保護猫の話が来たんだけど、由宇くん猫いらん?」

 8月半ばに友人からLINEがあった。話を聞くと、産まれて間もない状態で5匹兄妹で川辺に捨てられていたところを保護されたそうだ。うち3匹は既に里親が見つかっているものの、残りの2匹は里親募集中とのことだった。興味があったので早速拾い主のご自宅に伺った。元気いっぱいに遊びまくる手のひらサイズの仔猫たち。その中に、僕の膝に乗ったままなぜかずっと離れないブルーのリボンをつけた仔猫がいた。「この子の面倒は僕が見ます」と、僕はその場で腹を決めた。

 当時はまだゲストハウスの床の補修が完了しておらず、安全のために1ヶ月間拾い主のご自宅で預かってもらった。そして9月21日の満月に、満を持して彼はやって来た。

 それからと言うもの、まったく予想もしていなかった怒涛の育児生活が始まった。

 やることがいきなり増えてDIYリノベーションは滞り、予定していた計画を延期せざるを得なくなった。心配事が急に増え、精神的にくたくたになり、それまで必要なかったものにお金(それも結構な額…)がかかっている。キッチンで僕が料理を始めると、人間のご飯を食べたがってしつこく鳴きわめき(塩分が多いから安易にあげてはだめ!)、ダイニングテーブルに乗ろうとするので以前のように落ち着いて食事ができない。仕方がないので飼い主はお皿を持って立ったまま食べたり、少し離れたところで食べたりしている。この小さな黒い怪物はとにかく食いしん坊で、早食いしすぎる習癖があり、たまに盛大に吐いてしまって最初はほとほと困った(いまはごはんを少しずつあげることで対策している)。吐いた床のお掃除や臭い対策も必要だ。1日何回かするうんちの臭いはまあワンダフルで、ガサゴソとおトイレの音がするたびに飼い主はピューンと片付けをしに飛んでいく。最初の一週間は慣れない生活で胃がキリキリーッと痛くなった。

「それでも」と僕は思う。それでも僕はこの子が可愛いと思う。愛おしいと思う。この家に来てくれてありがとうと思う。寝ている時に体をピトッとくっつけてきたり、まるい眼でじっと見つめられたりするとなんだか胸がたまらなくなる。この子が生きる全生涯、僕が最期まで面倒を見ようと思う。

 かまってほしくて暴れまわっている時はほとほと困り果てるのに、やがて彼が疲れきってベッドにごろんと横になると今度は飼い主がちょっかいをかけたくなる。耳の後ろをこちょこちょこちょ。顎の下をもふもふもふ。ごろごろごろ、と気持ち良さそうな音を出しながらも「いまは眠いの…」と彼はぷいっと後ろを向く。そんなパラドックスを抱えながら僕らは共生しています。

「それでも愛せる? それでも愛せる?」と、愛した相手は必ず僕らに問いかけてくる。

「好きの道」は楽しい。好きなものを選んで、嫌いなものは遠ざければいいからだ。「好き」という感覚は引力に近い。「好き」は否応なしに僕らに引き寄せられ、太陽の周りをぐるぐる回る惑星のように、いつしか自分自身の一部のようになる。「好き」は自分の鏡であり、それを好きだと思うことこそが「わたし」なのだと思う。

 ところが「愛の道」は、「好きの道」とはまったく次元が異なるものだ。対象の好きなところも嫌いなところも、全部ひっくるめて抱き留めてしまうのが愛の道だ。好きの道が楽しい道なら、愛の道は苦難の連続だ。嫌なことや辛いことをそれまでよりたくさん経験することになる。それでもしっかり抱き留められるように、僕らは自分の中の愛をより深く、大きくせざるを得なくなる。

 愛が宇宙のように大きい人、というのが世の中には本当にいる。そういう人の口からこぼれる言葉や声色は、聞く人をほんわりと包み込むような安らぎを与えてくれる。

 夏の最中にエアコンがなくて毎日死にかけていた時、知り合ったばかりのKさんという方がなぜか頭にピンと浮かび、「涼みに行ってもいいですか?」と連絡を入れたところ保冷枕とアイスノンと大量のお菓子を頂き、最終的に合鍵を渡されて「いつでも涼みたい時にこの家を使っていいからね」と言われた。衝撃的だった。Kさんとはまさに以前一回会っただけの面識で、まさかそこまでしてくれるとは思っていなかった。お陰さまでVIVIDにエアコンが入るまでの1ヶ月ほど、本当に暑くて暑くてしんどい時の避難所としてKさんの家にありがたく出入りさせて頂いた。

 どうやったらそこまで大きな愛を自分の中に宿せるのか、僕があなたのようになるには一体どうしたらいいのかと、そういう先輩方に出会うたびに思わず頭が低くなる。勝手に推察するに、きっと過去に「愛をものすごく試された経験」があるのではないだろうか。愛を与える対象がいて、これでもかというくらいにその愛を試されてきた。どんなに嫌な部分を見せられても、どんなに苦しい思いをさせられても、そのすべての問いかけに「はい、愛せます!」と力強く答えてきた。これは場合によっては想像を絶する苦しみだ。悩み、苦しみ、葛藤し、"それでも愛せた"。その道のりで風船のように大きく膨らんだ愛は、やがて魂の記憶として自己と同化して、他の物事も大きな愛のクッションで抱き留められるようになったのだろうと(勝手に)思っている。

 人間が生きる道には大きく分けて2つあると僕は考えている。ひとつは「智恵」を身に付ける道。今目の前で起こっている諸問題に向き合い、解決に導いていく道だ。「問題発生→解決」のプロセスを何度も何度も繰り返すうち、やがてその問題が起こる原因を悟り、予め回避できるようになる。いわば仏陀的な道。さまざまな仕組みを解明し、システムを構築し、困っている人々を助けてきた。水道を引き、電気を通し、人々の生活を助けてきた。直線的で、利便的で、理知的なエネルギーだ。

 もうひとつは「愛」を育む道。自分を愛し、他を愛する道。親子、兄妹、夫婦、友人など、最初は個人的な関係から愛を育て、やがて身内のみならず世界や他者を無条件に抱擁するようになる道。同じ痛みを抱えている人を理解し、寄り添い、励まし、慈しむ道。「汝の隣人を愛せ」とイエスは説いた。それはまるくてやわらかくて、あたたかいエネルギーだ。

 この2つの道にはタイミングがあって、いまどちらの道をメインに歩んでいるかが人によって結構はっきりと分かれているように思う。「智恵の道」を歩む人は、具体的な諸問題を次から次へと課題のように与えられ、戦い、解法を得ることにエネルギーを使う。「愛の道」を歩む人は、家族や異性など、多くの場合かなり限定的な対象がテーマとなっていて、それへの愛がどれだけあるかを試される課題を与えられるように見える。

 誤解のないように付け加えておくと、度重なる「それでも愛せる?」という問いかけに対して最終的にどうしても「はい、愛せます!」とは答えられなかった場合、辛くて辛くてどう頑張っても「もう無理、愛せません」となった場合、それは決して悪いことではないと僕には思える。それはきっと「そこまで愛していなかったことがわかった」という発見だ。自分の中の対象への愛がそこまででもないことに気付いたならば、一緒にいても愛よりも苦しみばかりが大きくなってしまうだけの関係ならば、思いきってサヨナラするのもまた道だ。そして今度はもっと深く愛を与えられる対象を見つければいい。愛の道はいくらでもリトライできる。

 Viはまだ目も開くか開かないかの頃に川辺に捨てられていた。生まれつきなのか怪我をしたのか、尻尾が短く鍵のようにカクッと直角に折れていて、うちに来た時は顔じゅうにかさぶたが付いていた。この世に生を受けて間もないうちに大変な状況を経験した勇敢な魂だ。あと一日二日見つけてもらえていなかったらまず命はなかった。よく生きていたね、えらいね、と僕は思う。

 そして彼は間違いなく、ここに来るべくして来た子だ。なぜなら拾い猫の話が来るずっと前から、僕はこの子の気配を"視て"しまっていたからだ。

(↑今年5/31にinstagramに投稿した画像

 今日のお話はここまで。

 その辺りの摩訶不思議なお話が聞きたい方はぜひ、VIVIDに直接遊びに来てください。タロット占いも予約受付中です。今後は一人と一匹でお待ちしています。

「愛の道」は僕らを試す。

日向神話ゲストハウスVIVIDのInstagram

不思議な声に導かれて家を見つけた話

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