第十一話 傷は浅かったらしい。血もすぐに止まったし、病院には行かず消毒してガーゼあてて包帯しておいたとニッポリは言った。翌日には社長が自分で引き剥がして捨てた…
第十話 女は昆布茶をすする。 「ああおいし」 女は茶碗を座卓に下ろし、わたしの顔を見つめ、肩をすくめて微笑んだ。 「そんな顔しないでよ。大丈夫よ」 「どんな顔し…
第九話「上海に行く」 社長が言った。ああそうですか、と思ったので、 「ああそうですか」 と言う。 「十日間くらいになるだろう」 「ええ」 「オマエもういいよ」 「…
第八話 その女は言った。この家に住む女だと言った。座卓の前に膝を崩し、上半身を斜めにして、つっぱった片手でその細いからだを支えて、余った片手で煙草を吸いながら…
第七話 その夜、社長はめずらしくお酒を飲んでいた。 「遠慮するなよ」 玄関の引き戸を勢いよく開けた社長は、ニッポリの肩につかまりながらそう言う。玄関の土間から…
第六話 あさみさんというお友達ができた。 あさみさんの美容室で着物を着付けてもらっているとき、「どこのお店に出てるの?」と声を掛けられたのだ。 「いえ。どこの…
第五話 階段下にわたしの背丈よりも小さな扉があって、開けるとそこには掃除道具が入っていた。コブタ色のごつごつした掃除機と、竹の柄のハタキ、手ぬぐいで作った雑巾…
第四話 マニキュアの爪に息をかける。 日なたの縁側で太陽に指をかざしてみる。息よりも早く乾くかもしれない。伸びた爪にベリーレッドが良く似合う。 マニキュアは…
第三話 二年前ユリエちゃんと一緒に行った隣町のキャバクラは、たしかにお給料も良くて、来るお客さんもクラブ〈花〉よりも上品でお金持ちの人が多かった。その代わり着…
第二話 そして山茶花の垣根に囲われた庭を見る。 名前の知らない木々が日光を浴びて生えている。カラー写真の載った最新版の植物図鑑を買おうかな、と考える。縁側に…
あらすじ 唯一の身寄りの祖母が亡くなって以来、わたしはいつも住むところを探していた。 一緒に暮らしてくれる人なら誰でもよかった。 大勢で住んだり、知らない…
最終話(第十二話) あの男は決して雲の群れにはなじまないだろうと思う。 ひとりで立ち、ひとりで進み、あるいはひとりで停滞することのできる芯を持っている。立ち姿…
第十一話 従来の放熱性の一.三倍にはなるだろうと、開発担当者は得意そうに発言した。近い将来には一.七倍程度までは実現可能だという。 「さらなる軽量化、小型化をめ…
第十話 林田夫人との友人関係がこじれたわけではないようで、それから妻は予定通り陶芸教室に通い始めた。木曜の午後二時から四時までだったから基一が仕事に行っている…
第九話 それから、月日は穏やかに過ぎていった。 仕事は大まかな設計が仕上がりあとは実地に落とし込むための最終的なデータ収集と調整作業を繰り返すだけでほぼ毎日定…
第七話 それを見たとき、地表が揺らいだ気がした。 ビデオカメラだった。 ダイニングテーブルに乱雑に散らばったCDケースの間に無造作に置かれていた。その日も基…
慧
2024年6月30日 09:07
第十一話 傷は浅かったらしい。血もすぐに止まったし、病院には行かず消毒してガーゼあてて包帯しておいたとニッポリは言った。翌日には社長が自分で引き剥がして捨てたと言った。傷跡もたいして残っていない、と。 あれから社長はこの家には来ない。 日本にいないのだと言う。上海に行って投資ファンドというのを始めて、にんにく倉庫やら宅配会社やらを買い占めて売り飛ばしているのだという。この土地でやっていた仕
2024年6月30日 09:02
第十話 女は昆布茶をすする。「ああおいし」 女は茶碗を座卓に下ろし、わたしの顔を見つめ、肩をすくめて微笑んだ。「そんな顔しないでよ。大丈夫よ」「どんな顔しているか分からないし、何が大丈夫なのかも分かりません」 わたしはむっとして横を向く。「あなたも飲んだら。昆布茶」 女はわたしがいれた昆布茶の茶碗をまるで自分がもてなしているみたいに差し出す。わたしはますます苛立って、乱暴にその茶
2024年6月30日 08:59
第九話「上海に行く」 社長が言った。ああそうですか、と思ったので、「ああそうですか」と言う。「十日間くらいになるだろう」「ええ」「オマエもういいよ」「ええ」 うなずいてから何が良いのかと、社長の顔を見た。社長はわたしから目をそらす。「いいって?」「もう好きにしていいから」 何かまだよく分からず、首をかしげる。考えるけど、何をどう考えていいのかよく分からない。「帰ってくる
2024年6月28日 20:51
第八話 その女は言った。この家に住む女だと言った。座卓の前に膝を崩し、上半身を斜めにして、つっぱった片手でその細いからだを支えて、余った片手で煙草を吸いながらそこにいた。わたしは女の後ろでつっ立ったまま女のつむじを見つめていた。「ねぇ、昆布茶が飲みたいわ」 女が言った。からだをよじり、斜めにわたしを見上げる。「茶だんすにあるでしょう。昆布茶」 茶だんすか、と思い、わたしは茶だんすを開け
2024年6月28日 20:49
第七話 その夜、社長はめずらしくお酒を飲んでいた。「遠慮するなよ」 玄関の引き戸を勢いよく開けた社長は、ニッポリの肩につかまりながらそう言う。玄関の土間から廊下の床はニッポリの膝の高さくらいあって、だから廊下に立つわたしと土間に立つニッポリの目の高さは同じくらいにあった。ニッポリはちらとわたしを見て、そのなれない視線の高さに苛立つように横を向く。社長はニッポリを突き飛ばしながら框に上がり、
2024年6月28日 20:45
第六話 あさみさんというお友達ができた。 あさみさんの美容室で着物を着付けてもらっているとき、「どこのお店に出てるの?」と声を掛けられたのだ。「いえ。どこのお店にも出てないです」「えー。そうなの? てっきりホステスさんかと思ってたよ」 あさみさんの美容室はドラッグストアの向いにある。そのガラス窓に〈着付け〉と書かれているのを見つけたのだった。自分がどんなに工夫してもかたちにならなかった
2024年6月28日 20:41
第五話 階段下にわたしの背丈よりも小さな扉があって、開けるとそこには掃除道具が入っていた。コブタ色のごつごつした掃除機と、竹の柄のハタキ、手ぬぐいで作った雑巾、箒。 コンセントを差し込んでごつい四角のボタンスイッチを押すと、コブタ掃除機はボォっと音を立てて小刻みに震えだす。使える。洋室のカーペットに掃除機をかける。畳と廊下は箒で掃く。縁側から集めた塵を落とす。金属製のバケツに水を汲んで灰色の
2024年6月23日 09:23
第四話 マニキュアの爪に息をかける。 日なたの縁側で太陽に指をかざしてみる。息よりも早く乾くかもしれない。伸びた爪にベリーレッドが良く似合う。 マニキュアは洗剤よりも選びやすい。好きな色とビンのかたちで選べばいい。 片足を縁の下にぶら下げ、もう片方の足を縁側の敷居に立て、ペディキュアを塗る。床下からのひんやりした空気が裸のふくらはぎに当たる。太陽の光はただただ暖かくて、塗られていく足の爪
2024年6月23日 09:19
第三話 二年前ユリエちゃんと一緒に行った隣町のキャバクラは、たしかにお給料も良くて、来るお客さんもクラブ〈花〉よりも上品でお金持ちの人が多かった。その代わり着るドレスやアクセサリーもそれなりのものを身につけるように言われていたので、そしてそれらは同じオーナーが経営するショップで買うように言われていたので、お給料の大半はそれで消えてしまっていた。 あるとき、おろしたての赤いサテンのドレスにピン
2024年6月23日 09:03
第二話 そして山茶花の垣根に囲われた庭を見る。 名前の知らない木々が日光を浴びて生えている。カラー写真の載った最新版の植物図鑑を買おうかな、と考える。縁側に座ったわたしは体をひねり壁に引っ掛けたピンクファーのハーフコートを見る。社長の置いていった何枚かの一万円札はそのまま四つに折ってハーフコートの内ポケットにしまいこんだ。「好きなものを買え」と社長は言った。 暇つぶしに散歩に出て、近くに図
2024年6月23日 09:00
あらすじ 唯一の身寄りの祖母が亡くなって以来、わたしはいつも住むところを探していた。 一緒に暮らしてくれる人なら誰でもよかった。 大勢で住んだり、知らない人と住んだりもした。好きな人もいたし、嫌いな人もいた。 そしてわたしはこの古い家に連れてこられたのだった。 連れてきた男は時々来て、時々、する。するからちょっと納得する。 わたしは家を愛した。住むことができることに愉悦を覚えた。
2024年6月16日 18:07
最終話(第十二話) あの男は決して雲の群れにはなじまないだろうと思う。 ひとりで立ち、ひとりで進み、あるいはひとりで停滞することのできる芯を持っている。立ち姿を見ればわかる。背が高く、整った顔立ちは、まるで俳優のようだった。無造作に束ねた長い髪のその乱れ落ちたかたちさえもスタイリストに演出されたかのようにできすぎている。 陶芸家が作業台からひとつの陶器を手にとり、妻に向かって何かを言う。
2024年6月16日 18:03
第十一話 従来の放熱性の一.三倍にはなるだろうと、開発担当者は得意そうに発言した。近い将来には一.七倍程度までは実現可能だという。「さらなる軽量化、小型化をめざし、他社との差別化を図りたいと思っている。これは間違いなくわが社の主力となるだろう」 プロジェクトリーダーとなる部長が言った。計算上一.三倍だとしても実際には現実的なファクターによって一.二倍、一.一倍、下手したらほとんど変わらないと
2024年6月16日 18:00
第十話 林田夫人との友人関係がこじれたわけではないようで、それから妻は予定通り陶芸教室に通い始めた。木曜の午後二時から四時までだったから基一が仕事に行っている間だったが、帰ってくると土の成形や色付けの楽しさなどをはしゃいで話して聞かせ、楽しく通っていることを知る。ロックを聴かなくなった。かわりに中世のバロック音楽やピアノ独奏を流す。「土をいじってると世界を作っているような気がする」 妻は言っ
2024年6月12日 21:42
第九話 それから、月日は穏やかに過ぎていった。 仕事は大まかな設計が仕上がりあとは実地に落とし込むための最終的なデータ収集と調整作業を繰り返すだけでほぼ毎日定時に帰宅することができ、季節は、地球の公転と自転による順当な変化を見せていった。梅雨に入ると陰鬱で肌寒い日が続き、いったんしまった石油ストーブを引っ張り出して火を入れた。基一と妻は並んでソファに座り、小さくした炎を見つめた。雨の音を聞く。
2024年6月12日 21:36
第七話 それを見たとき、地表が揺らいだ気がした。 ビデオカメラだった。 ダイニングテーブルに乱雑に散らばったCDケースの間に無造作に置かれていた。その日も基一はBと大宮のホテルで会っていた。日付けが変わる前に部屋を出て、Bを駅に送り、高速道路を飛ばして帰ってきたのだ。残業で遅くなるとあらかじめ伝えていた。妻は珍しく二階で眠っていた。 液晶モニターが開きっぱなしになっている。ACアダプターも