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【恋愛小説】「住む女」第十一話・終章




第十一話

 傷は浅かったらしい。血もすぐに止まったし、病院には行かず消毒してガーゼあてて包帯しておいたとニッポリは言った。翌日には社長が自分で引き剥がして捨てたと言った。傷跡もたいして残っていない、と。
 あれから社長はこの家には来ない。
 日本にいないのだと言う。上海に行って投資ファンドというのを始めて、にんにく倉庫やら宅配会社やらを買い占めて売り飛ばしているのだという。この土地でやっていた仕事のすべてをニッポリに任せ(ニッポリはそれを不動産業だけに整理するらしい)、おそらくもうほとんど帰ってこないのだと言う。
 別に住みたきゃ住んでいいよ、とニッポリは言った。
「今すぐどうこうするつもりはないから。適当に掃除とかしてくれれば維持管理費も払う」
 そうしてわたしはこの家の住み込みの管理人になった。
「お金は、でもいらないです」
と言ってみる。商店街のドラッグストアにパート募集の貼紙がしてあって、そこで働くことにしたからお金はいらないです、そう言ったらニッポリは黙ってお金をスーツの内ポケットにしまいこんだ。ドラッグストアで働き始めても店に乗り込んで暴れたりする人はもういない。
 ニッポリは時々この家にやってくる。
 わたしは食事を用意する。
 ニッポリは社長と違ってお酒に強い。縁側に座って長い時間発泡酒を飲む。となりに座り、つきあう。季節はすっかり春になり、名前の変わらなかった木にピンク色の花が咲き、それがアメリカハナズキだと知る。梅雨がきて、梅雨があけ、庭の奥の一本が薄紅色の小さな花をたわわに咲かせ、わたしは百日紅を知る。雑草が目立つ。明日は草むしりをしなくちゃ、と思う。虫が鳴く。わたしはニッポリと縁側でそれを聴いた。
 ニッポリがわたしの住民票を見つけてくれた。見つけた、と言っても、祖母と住んでいた住所がそのまま本籍地で、住民登録地で、単純な事務手続きひとつでわたしは近所の図書館で本を借りられるようになったのだった。
「してみる?」
とニッポリに訊く。
 ニッポリは発泡酒の缶を床板の上に置く。わたしの顎を見つめる。ゆっくりと近づく。くちづける。わたしたちはしばらく口先だけで繋がる。庭から風が吹く。空になった発泡酒の缶がはかなく倒れ、転がった。月が黒い雲に隠れていく。ニッポリの首元に指を滑らせる。喉にからませる。ニッポリがわたしの手首をつかむ。もう一方の手でわたしの髪をかきまぜる。わたしたちは絡み合ったままゆっくりと縁側に倒れこんだ。雲のかけらが流れ、ふたたび月の光が縁側を照らしていく。

 ニッポリはレクサスには乗っていない。中古のジムニに乗って朝の八時に家を出て行く。ニッポリはこの家に通わない。住み始めた。わたしは朝の八時にニッポリを見送り、九時半にドラッグストアのパートに出かける。玄関先を掃除する小林さんに挨拶する。カーブミラーの下にはシマモトさんが座っている。秋分が過ぎ、夜が長くなる。山茶花の垣根にいくつもの蕾が膨らみ始めた。どこかから石油ストーブの匂いがする。
 戯れ事、と社長は言った。
 こうしたニッポリとの時間もまた戯れ事で、いつか終わりが来るのかな。

 山茶花は咲き乱れ、やがて散る。庭師を呼び、春を迎える準備をした。シマモトさんが死んだ。ハンドル操作を誤ったトラックにカーブミラーと一緒につぶされたのだ。白木蓮が咲いていた。小林さんの奥さんや近所の奥さんたちと通夜と葬儀のお茶出しを手伝った。楽しかった。
 その夜は一足早く春が来たみたいに暖かだった。わたしたちは久しぶりにガラス戸を開け放した縁側で発泡酒を飲む。
 月のきれいな夜だった。わたしたちはそれを見上げる。時間はゆるりと過ぎていく。もう寝ようか、と立ち上がる。
 飲み散らかした発泡酒の缶を片付けて、座敷に布団を敷き、縁側に戻ると、水色のスウェットの上下を着たニッポリが居眠りをしていた。
 風邪引くよ、と声をかける。んん、とのどの奥でニッポリは答える。しかたなく奥から毛布を持ってきて掛ける。ニッポリの、折り曲げた腕に乗せたその横顔を見る。静かな寝息。
 寝ているニッポリに夜風を当てないよう、ガラス戸を閉める。
 判定スティックは陽性だった。ニッポリに似ていくだろうその児を、わたしは愛せるのだろうか。それともうっとうしくなるのだろうか。そんなわたしはその児に憎まれるのだろうか。憎まれたわたしはその児に見捨てられるのだろうか。そのときわたしはこの家を手に入れているだろうか。そうしたらあの女のように、いつか、その児の連れてくる女に昆布茶を頂戴と言ってみようかな。それまでにはニッポリも殺さなくちゃ。
 わたしは庭に出る。


終章

 妻はひとり庭に立つ。夫は安酒に酔って眠ってしまった。
 庭師が切った枝の先に、いくつもの新芽がついている。庭師はきちんと芽の出るところを残して切り揃えてくれたのだ。黄緑色の芽をつけた木々は淡く丸い毛糸飾りみたいに並んでいる。根元には雑草の若い芽が地面を割って伸び始めている。
 土に手を当てる。頬を載せる。固められた地面はうずうずとかすかにふるえる。腹の底に夫の種が着床したのを知った。やがて発芽し、妻のからだを割るだろう。
 まだ踏み固められていない柔らかな一角を見る。あそこには何を埋めたのだっけ。妻は考える。
 その大きな亡骸を埋めてしまうには、よほど深い穴を掘らなければならなかった。夫は一晩掛けて庭にその穴を穿った。針仕事のしくじりのような小さな傷に、ぐいと深く、さらに花鋏を突き刺したのは女だ。肉を貫き内蔵を破る。男の目は女を凝視する。声にならない声が吐息と漏れる。黙りなさい。もうすぐ終わるから。花鋏を握る女の手までが肉体にめりこむ。指先ではらわたを掻く。男はすでに息絶えた。体温はまだある。血は女を温める。恍惚とする。やがてすこしずつ冷え、硬くなる。埋めてしまいなさいな。この生臭い、醜い、無力なこれを。座敷の隅で驚愕している夫に向かって女はそれを蹴飛ばした。冬の深夜にもかかわらず夫は汗にまみれ、泥にまみれ穴を掘った。
 目を閉じ、地面に頬を寄せ、笑う。口の端に土がつく。唾液が流れる。男のからだのすべての穴からあらゆる体液は流れ、溶け込んだ。土は最後の一滴までを飲み込む。根はそれを吸い、枝を張り、葉を茂らせ、花を咲かせる。花弁はやがて縮み、散り、腐る。地の虫が食べる。女は笑う。家は見つめてる。

〈了〉

(あらすじ~第十話)


最後までお読みくださいましてありがとうございました。









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