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【恋愛小説】「住む女」第一話




あらすじ

 唯一の身寄りの祖母が亡くなって以来、わたしはいつも住むところを探していた。
 一緒に暮らしてくれる人なら誰でもよかった。いろんな人と暮らした。
 好きな人もいたし、嫌いな人もいた。
 大勢で住んだり、知らない人と住んだりもした。ねこばばされないようにお財布は枕に入れて寝た。誰かが男にもらった外国物の美容液をこっそり使って殴られた。牛乳パックに名前を書いた。回覧板は一度もこなかった。誰も掃除なんかしなかった。かび臭くて、埃っぽくて、汗や垢や精液のにおいの混じった誰かと誰かと自分と誰かの体臭がたちこめてた。

 そしてわたしはこの古い家に連れてこられたのだった。
 連れてきた男は時々来て、時々、する。するからちょっと納得する。
 わたしは家を愛した。住むことができることに愉悦を覚えた。

 この家には住む女がいる。女の幽霊。日の射さない二階の部屋。
 女のことを話したら、男が狂った。
 狂って、わたしを追い出そうとする。わたしは必死にそれに抵抗する。抵抗し、彼を殺した。彼を愛した若い男と共に。

*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。


序章

 朝、仕事へ出かけていく夫を見送った妻は、ふと足を止める。垣根に茂る葉の合間から先の赤い蕾がいくつものぞいているのを見つけたのだ。
 今年も山茶花が咲く。去年よりもたくさん咲くだろうか。
 玄関先を掃いている斜向かいの主婦に挨拶し、カーブミラーの下に立つ老人に会釈をして、家の中へと戻っていく。すぐにパートタイムの仕事に出かけていくだろう。
 庇の下で、玄関の引き戸が閉められる。
 女は二階の窓枠に座り、木の低い手すりにもたれかかって晩秋の庭を見下ろした。多くの庭木は葉を落とし、とげとげしい裸の枝を晒すが、ただ敷地を囲む垣根の山茶花だけは常緑で、色鮮やかな葉を茂らせている。咥えた煙草を赤く塗った唇から外し、朝の冷たい上空へと紫煙を吐く。その濁りはどこにも届かず、すぐに霧散する。


第一話

 サザンカは漢字で山茶花と書く。サルスベリは百日紅。
 この家に来て、知った。
 玄関の電話台に昭和五十八年度版職業別電話帳と並べて置いてあった〈趣味の園芸昭和四十四年度版〉を片手に、生えている木々を眺める。庭にはたくさんの木があって、十一歳まで祖母と住んでいたあの家みたいだった。庭仕事の好きだった祖母の後をついて木々の間を歩き回っていた子どもの頃のように歩き回ってみる。「サルスベリ(百日紅)は夏に薄紅色の小さな花をたわわに咲かせます。」とある。この庭に百日紅はあるのかな。白黒の写真はさらに色あせて不鮮明で、どれがなんの木なのかさっぱり分からない。冬の今、ほとんどの木が花を咲かせるどころか葉もないのだ。夏になれば分かるかな。そのときわたしはここにいるのかな。とにかく今分かるのは山茶花だけだ。「サザンカ(山茶花)は主に垣根として利用されます。」とあり「冬に花を咲かせます。」とあって、まさにこの庭を取り囲む垣根は、赤い花をたくさんつけている。
 だけど。ああ、だけど。
 おなかが空いた。
 気を紛らわすために庭を歩いていたのだけれど、それも限界。くつぬぎ石につまずいて縁側に倒れる。陽に温められた板の間に頬を押しつける。乾いた木の匂いにひとつ咳。
 社長がもう五日も来ていない。
 最後に来たとき、すごく上等な牛肉を四キロも持ってきたので、すきやきにして二人で食べた。もちろん四キロ全部は使い切らなくて、次の日残りを焼肉にしてひとりで食べた。それでも残って佃煮を作った。牛乳臭いげっぷが胃からあとからあとからこみあげて、作っただけでろくに食べなかったら、やがて腐った。庭に埋めた。しばらく胸が焼けて食欲もなかったのだけれど、それでも、さすがにおなかがすいた。もうかれこれ二日も食べていない。
 胸が苦しいのは空腹のせいじゃなくて、うつぶせだからだ。おっぱいがつぶれてる。
 ごろりと体を仰向けにする。
 ボインだとたまに言われる。年配の人に主に。ボインというのは巨乳のことだ。でもわたしは巨乳じゃない。だからボインと巨乳は微妙に違うのかもしれない。「ボインで首が長くて細いのがいい」と言われるとそうなのかな、と思う。胸は大切にしようと思う。社長は何も言わないけど。
 よい天気。
 おなかと腿のおもてと足の甲が温められていく。光を照り返す垣根の葉々はけらけらと笑っているみたいで、見上げる空は透明で間抜けだ。
 働かざるもの食うべからず。祖母はよく言っていた。
 ごめんね、おばあちゃん。わたし、働きもせずこうして空を見上げてる。ひたすらおなかをすかせてる。そのうち死ぬかもしれない。
 おなかが鳴った。長くだらしない音がいつまでも続いて焦る。胃が縮み、しびれる。気が遠くなる。
 空は青い。小さな雲がかたちを変えながらいくつも通っていく。こういうとき子ども向けの絵本なんかでは雲がソフトクリームに見えたりあんぱんに見えたりするんだろうけど、子どもじゃないわたしにはいくらおなかがすいていてもそんなものには見えない。雲は雲で白く薄い筋になって、または固まりになって、浮かんでいる。……。シマモトさんの禿頭に残った白髪のようだ。シマモトさんはシマモトマツジと書かれた名札が縫いつけてあるアディダスのジャージを着てこの家の向かいのカーブミラーの下にいつも座ってる。よく見るとアディダスはアディドスで、袖とズボンの三本線の真ん中がピンク色だったりする。シマモトさんはここの三軒隣りから朝七時から出てきてこの庭の前を通り、向かいのカーブミラーの下に座る。時々立つ。立ち上がって歩き出したり、歩き出さずにそのまままた座ったりする。今日もシマモトさんは座っているのかな。ああ、あの雲はもしかしたらシマモトさんの腋毛かな。耳毛かな。陰毛かな。やっぱりわたしはいたいけな子どもと違うので、大したたとえも出来ないし、してもじいさんの陰毛の想像などしてしまう薄汚れた大人なのだ。白髪の人って全身白い毛なのかな。もうやめよう。
 ヘリコプターが横切っていく。たっ、たっ、たっ、という低音がおなかに響く。やけに低く飛んでいる。縁側に貼り付いたわたしはその白い腹を見る。屋根の陰に消えていく。
 目が乾いた。まばたきが痛い。目じりから一筋涙が流れた。
 上半身を起こす。働きたい、と思った。やっぱり人間働かないと。けど、おなかがすきすぎて立ち上がれない。めまい。鈍く重いこめかみをぐりぐりと揉んで、目を閉じ、ぎらついた空の光が消えるまでじっと待つ。それでも足腰には力が入らなくて、結局また縁側に倒れこんでしまった。ああ、やっぱりわたしはこのまま死ぬのかも、と倒れて後頭部を思い切り打ち付けたとき思った。思った瞬間気を失った。

 その夜、社長がやってきた。縁側で倒れているわたしを見つけ「死んでる」と思ったらしい。念のため体をゆすってみたら目を開けたので「死んでない」と思ったらしい。
「そう簡単に死なれちゃ困る」
と社長は言った。そして死にかけたわたしの事情を知って、上寿司の出前を五人前とってくれた。社長が二人前、わたしが三人前食べた。ようやく落ち着いたわたしの前に、社長は一万円札を何枚か置いた。
「足りなかったら言え」
 働こうと思うのでお金はいらないです、と言おうと思ったのだけれど言えなかった。
 二回した。

(第二話~)

https://note.com/toshimakei/n/na8a2357ffe3f
https://note.com/toshimakei/n/nf96eee2b77bb
https://note.com/toshimakei/n/n490df53702b2

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