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【恋愛小説】「住む女」第九話




第九話

「上海に行く」
 社長が言った。ああそうですか、と思ったので、
「ああそうですか」
と言う。
「十日間くらいになるだろう」
「ええ」
「オマエもういいよ」
「ええ」
 うなずいてから何が良いのかと、社長の顔を見た。社長はわたしから目をそらす。
「いいって?」
「もう好きにしていいから」
 何かまだよく分からず、首をかしげる。考えるけど、何をどう考えていいのかよく分からない。
「帰ってくるまでに、ここから出ていけ」
 社長はそう言って、立ち上がり、どすどすと廊下を歩き、出て行った。玄関で待っていたニッポリが社長に続いてレクサスに近づき長い手を伸ばしてドアを開ける。社長が乗り込む。ドアは静かに閉められ、駆け足のニッポリが運転席に乗り込む。流れるように二人の黒いスーツの男は去っていった。
 ここから出ていけ、と社長は言った。好きにしていいから、と言った。つまり、わたしはもうタンポドウサンではなくなっていて、ここに住む女ではなくなっている、そういうことなのだろう。世の中のいろんなことはいつもわたしの知らないところで決まっている。祖母が死んだときも施設に入ることが知らない間に決まっていた。施設を出るときも旅館で住み込みで働くことがいつのまにか決まっていた。旅館を出るときもクラブ〈花〉を出るときも、誰かの「ここよりもましなところ」という言葉に引っぱられて出て行った。今度みたいに誰かに出て行けと言われて出て行ったこともある。そう、だから、別に、いつものことだ。そのつど、何かしらどこかしらわたしの行く場所はそこにある。
 どこに行こうか。
 考える。
 考えるけれど、どう考えていいのかやっぱりよく分からない。それはつまり図書館で本を借りられなかったり、バスで一万円札出してみたり、回覧板の回し方を知らなかったりするわたしだから、そんな自分が考えても分かりっこないことだと最初から分かっているのだ。考えてもしようがない。なんとかなる。どうにでもなる。

 庭に出る。空気が澄んでいる。冬を乗り越えて新芽をぐいぐい伸ばし始めた木々たちはだらしなく生え乱れて、地面にはまだらに雑草がはびこっていた。名前の分からない庭木と庭木の間に座り込む。盛り上がる雑草の根っこがすねに当たる。指先で黒い土をひっかく。盛る。土の匂い。雑草をちぎる。草の匂い。見上げる。木の葉の裏を見る。枝の隙間の薄青色の空を見る。白い光が射す。目を細める。家がわたしを見てる。ふと思いついて立ち上がる。立ちくらみ。木の幹にもたれる。目の中の渦がゆっくりとほどけていく。すうっと重力が体の芯をまっすぐに貫くのを待って、家に向かって歩き出す。くつぬぎ石から縁側に上がり、玄関に向かう。板の間に座り、電話台から電話帳を取り出す。めくる。電話を掛ける。

 次の日の朝、彼らは早くにやってきた。そろいの作業ズボンにそろいのはっぴを着ている。はしごや枝切り鋏や竹箒やロープやいろいろな道具を持ってせわしなく庭の中を動き回る。
「おはようございやす。お世話になりやす。おさわがせしやすが昼前にはちゃっちゃっと終わりやすからどうかお気になさらず。ほっといてくれたら知らんうちにきれいさっぱりな庭になっておりやすんで。はいどうも」
 一番年配の男が縁側に立つわたしのところへやって来て、そう言い、また庭の男たちの中に戻っていった。祖母は一年に一度、たしか春になる直前に、庭師を家に呼んでいた。
 ほっといてくれと言うからにはほっとかなきゃいけないのかなと思ってしばらくぼんやりとながめる。彼らはよってたかって伸び呆けた木々の枝を切り落とす。切った枝や落ちた葉を落ちたそばから掃きよけていく。枝や葉の切り口からあふれ出る水分で庭中がむせ返るような湿気と青臭さに満ちていく。一生懸命働く人たちをながめるのは気持ちがいい。
 ふと庭先を見ると、シマモトさんとさっき話しかけてきた年配の庭師が並んで立っていた。「いい庭ですなぁ」「ははぁ」などと会話している。
 台所へ立つ。
 お湯を沸かし、お茶うけになるものを探す。あさみさんからもらったおしんこがあった。冷蔵庫の中を眺め回す。クラッカーにモッツァレラチーズを載せ上にトリュフを削ってふりかける、それを平たいお皿に並べる。ビールのおつまみみたいだと思ったけれど、でもまあいいか他にないし、とお茶とともにお盆に載せて縁側に運び出す。もちろんシマモトさんの分もちゃんとある。
「こいつぁすいませんねぇ。かまわねぇでくださいって言ったんですが。まぁでも、遠慮なくいただきやす。おい、奥さんがお茶入れてくださったよ。一服しろや」
 年配の庭師は庭で働いている他の庭師たちに声をかける。はい、おい、ほい、よい、と低い声で答えながら庭師たちがわらわらと集まってくる。わたしはちょっと後ずさる。「いただきやす」と男たちは一斉に声を揃えた。
「花の盛りの奴は切りませんぜ。花が終わったら奥さんの方でちょんちょんといいように切ってくだせぇね。入梅前にでもやればいいでしょう」
 庭師の大将は言った。
「分かりました。そうします」
 祖母が庭師としていた会話みたい。嬉しくなる。
「鋏は持ってますかい」
「いいえ」
「そうですかい。一本持っておくといいですよ。なるべくいいのをね。その方が木も痛くねぇ」
「痛くないですか」
「そう。切れ味のいいのがね、すぱん、といくのが木も気持ちがいいってもんでさ。安もんはぐずぐずになってだめだね。木がかわいそうだ」
「わかりました」
「ホームセンターにでも行ってみりゃ、いんがあるでしょう」
 庭師はさっぱりとそう言うと、ごちそうになりましたもう一仕事させてもらいやす、と立ち上がった。大将が立ち上がると他の庭師たちもまたわらわらと立ち上がり、また庭の中に散っていく。縁側にはわたしとシマモトさんが残される。シマモトさんがずずずと音を立ててお茶を飲む。目を細め、庭を見回す。わたしもまた働く庭師と、仕上がりつつある庭を眺める。シマモトさんが去っていく。

 仕上がった庭を眺めるのは気持ちがいい。さっぱりとして、まるで自分自身の全身をきれいに手入れしてもらったみたい。そこにある生きているものたちの疼きみたいなのが、思い出し笑いみたいにお腹の中をくすぐる。
 けれど、ふいにたまらない。
 何かを考えないといけない気がする。けど、考えてもしかたないとも思う。縁側から離れる。二階には行けない。
 バスに乗って駅へ行く。駅前のデパートに入る。化粧品売り場でべたべたと顔をいじられる。最新スキンケアセットと春の新色メイキャップセットを買って、フルメイクで最上階のレストランでお昼を食べる。催事場で伊万里焼の花瓶を買う。婦人服売り場でマネキンの着ていたスプリングコートを買う。つまらない。そうだ、花鋏を買う。わたしはお金を持っている。好きに使え、と社長がくれたお金はまだまだたくさん残っている。祖母は言った。働かない人間はお金を持っちゃいけない。心を持っていかれる。
 バスに乗って家に帰る。でもバス停からまっすぐ家には帰れない。あさみさんの美容室をのぞいてみる。あさみさんは忙しそうに知らない誰かの髪を切っていた。鏡越しにわたしに気付くとにっこりと笑ってくれた。わたしも笑い返して、そして諦めて家に帰る。シマモトさんでもいないかなと思うけれど、カーブミラーの下はがらんとしている。山茶花の垣根の前を歩く。紫色や茶色に変色したり縮れたりした花は庭師がみんな摘んでいった。鮮やかな赤色の花がまばらに緑の葉の中に浮いている。
 日が暮れ始めている。街灯が点る。斜め向かいの小林さんちにも明かりがついている。石油ストーブの匂い。かさこそと路肩のごみが風に舞う。垣根越しに家を見上げる。縁側に掛かる軒と二階が見える。明かりはもちろん点いていない。誰もいない。わたしもいない。よそよそしくて、寒々しい。まるで何年も何十年も誰も住んでいない空き家みたいだ。
 いつ見た車窓だろう。夜の流れる窓の景色。電車だったかバスだったか。音程を変えて通り過ぎる踏切があったから電車だったかもしれない。線路沿いの夜は寒々しかった。明かりの消えた建物はみんな廃墟に見えたし、明かりの点いた建物はわたしを指差して笑っているように見えた。どちらも流れる闇に軽々しく吹き飛ばされていった。その踏切の向こうにじっとたたずむ人がいた。その無表情な顔が一瞬はっきりと見えた気がした。女の人だった。ちょうどわたしと同じくらいの歳の。普通の会社に勤めているふうだった。普通の会社になど勤めたことないけど、その人の気持ちがはっきりと見えた。自分のものみたいに見えた。どこも同じだと思う。働くのは嫌いじゃない。男にからだをさわられるのはあまり好きじゃないけれど、綺麗な服を着たり、お酒を作ったりするのは嫌いじゃない。旅館の仕事だってほんとは嫌いじゃなかった。いつも住むところを探していた。一緒に暮らしてくれる人を探した。好きな人もいたし、嫌いな人もいた。大勢で住んだり、知らない人と住んだりもした。ねこばばされないようにお財布は枕に入れて寝た。男に貰った外国ものの美容液をこっそり使って殴られた。牛乳パックに名前を書いた。回覧板は一度もこなかった。誰も掃除なんかしなかった。かび臭くて、埃っぽくて、汗や垢や精液のにおいの混じった誰かと誰かと自分と誰かの体臭がたちこめてた。あそこにまた戻るのだろう。
 気がつくと頬がかゆい。あとからあとから頬を伝い、顎を伝い、ぽたぽたと涙が落ちていた。自分の涙の流れるのを他人事のように感じながら家を見上げる。家もわたしを見つめてる。思わず、あーあーと声を上げて泣いてしまった。自分で自分にびっくりする。けどなんか、気持ち良かったりもする。それで、ますます声を上げて泣いてみる。


(あらすじ~第八話)


(第十話~)

https://note.com/toshimakei/n/n8f95cd484e91










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