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【恋愛小説】「住む女」第八話




第八話

 その女は言った。この家に住む女だと言った。座卓の前に膝を崩し、上半身を斜めにして、つっぱった片手でその細いからだを支えて、余った片手で煙草を吸いながらそこにいた。わたしは女の後ろでつっ立ったまま女のつむじを見つめていた。
「ねぇ、昆布茶が飲みたいわ」
 女が言った。からだをよじり、斜めにわたしを見上げる。
「茶だんすにあるでしょう。昆布茶」
 茶だんすか、と思い、わたしは茶だんすを開けてみる。茶碗や急須と一緒に茶筒が三つある。ひとつずつふたを開けて確かめてみたけれど、どれも空だった。
「ありませんけど」
「あらまぁほんと。しょうがないわね。買っておいて頂戴」
「すみません」
「座ったら」
 女が座卓の向こうを顎で指しながら言う。たしかにこのまま女の後ろにぼんやり立っていてもしかたないと思って、言われたとおりに女の向かいに座る。女は水色のガラスの灰皿に灰を落とす。
「まぁね。いつかはあんたみたいな女が来るんじゃないかと思っていたわ」
 女はまぶしそうにまばたきをしながら微笑む。
「どんな女が来るのかなっていろいろ想像してたんだけど……」
 女はそこで言葉を切ってわたしの顔をしばらく見つめていて、そして笑った。
「なんですか」
「いいの。ごめんなさい」
 それきり女はわたしから目をそらしてぷかぷかと煙草をふかしている。わたしはなんとなく居心地の悪さを感じて、でも女みたいに煙草も持ってないから、同じ様に横を向いて座敷の向こうの縁側の向こうの冬の庭を見つめた。
「あの子牛乳が好きだったでしょ」
 女の赤い口紅が話し始める。
「そうなの。牛乳が好きだったの。牛乳ばっかり飲んでた。コップ持ったその手がね、でも、ある日あの人そっくりだった。今までかわいらしいえくぼが並んだ正真正銘子どもの手だったのに、でも、違ったの。筋張って、わたしの手より大きくて、男の手。あの人と同じ。ぞっとした。あの人があの子を連れて行ってくれてほっとしたわ」
 赤い口紅がうねる。
「そうなの。せいせいしたわ。でもね、この家は渡さないわ。絶対に渡さない。わたしのもの。ねぇ昆布茶ほんとに買っておいてちょうだいね。お願いよ。わたしは牛乳嫌いなの。飲めないの。四本に増やしてもらったけど、もうあの子もいないし、だから配達も断っておいて頂戴」
 女は短くなった煙草を深い灰皿の底で消す。
 山茶花は咲き乱れる。

 近ごろ、社長はよくお酒を飲む。この家に来る前に飲んでくる。だからたいてい来るとすぐに眠ってしまう。真夜中に寝ぼけたように隣にいるわたしのからだをまさぐって、そのままだらだらとする。ときどきしない。眠ってしまうから。近ごろだから、あまりまともに顔を見ない。見るのは寝顔ばかり。とんがった視線を放つ小さいあの目を見てない。なんだか気の抜けた炭酸のような社長ばかり。

 その夜、わたしは二階の窓枠に座って、木の低い手すりにもたれかかって月を見ていた。藍色の空にオレンジ色の満月が貼りついて、鮮やかな光を当たり一面に降り注いでいた。見下ろした庭の木の葉の一枚一枚までくっきり見えるほどだった。
 レクサスの静かなエンジン音がして、光る黒い背中がガレージに滑り込んできた。エンジン音が止まる。運転席からニッポリが降りた。ニッポリの立ち上げさせた短い髪の先や、無骨な四角い指先や、後部ドアを開けるときスーツの袖先からのぞいた金色の腕時計までがよく見えた。
 開けられたドアの影から、投げ出された社長の足が見える。ニッポリの細いからだが屈みこむ。社長のからだを丁寧にゆすっているのがその背中のごりごりした動きで分かる。動いて、止まる。そしてまた動く。止まる。かがめたからだがさらに沈み込んだ。寝返りを打ったのか社長のからだがニッポリの腕の中に投げ出される。ニッポリはしばらく石みたいに固まっていた。突然掛かった重みを自分の重心に納めようとしているみたいで、もじもじとまた動く。落ち着く。そして社長の肩に手を載せ、揺らす。ゆっくりと、丁寧に。
 いったい何をしているのだろう、と思う。
 月の光が作る影が、深くて、濃い。
 社長の肩をゆすっていたニッポリの指先がすべっていく。首元に伸び、喉に絡む。中指が首を巻き込んだとき、その痩せた背中でニッポリの手元が隠されてしまった。
 わたしははじき飛ぶように手すりからはなれ、急な階段を落ちるように駆け下りた。足がもつれる。玄関の土間に飛び降り、ハイヒールを引っ掛け、もどかしい思いでねじ式の鍵を開けて、思い切り良く引き戸を開けた。
 ぐったりとした社長を肩に担いだニッポリがいた。
 背の高いニッポリを見上げるわたしは息が荒い。表情のない顔でニッポリは見下ろす。わたしはにやりと笑って見せる。共犯者みたいないやらしい笑い方だったと思う。社長はニッポリの肩で深く息をついた。ニッポリはむっつりと黙ったままだ。
「お布団敷きます」
 そう言って、わたしは家の奥に入った。

 あさみさんは紅茶に浮かべたレモンの輪切りをスプーンの先でカップの底にぐいぐい押し付ける。種が浮く。
「ダンナさんとうまくいってる?」
「うん。まぁ」
 うまくいってるというのがどういう状態なのか、よくは分からないけれど。
「まぁね、一緒にいて居心地いいのが一番よね」
 あさみさんは微笑む。そしてレモン汁たっぷりの紅茶を飲む。そして黙り込んだわたしを見てまたにっこりと笑った。実はわたしはタンポドウサンだからあの家に住んでいるの、と言おうかと思ったけど、あさみさんならタンポドウサンがなんなのか知ってるかもしれないとも思ったけど、でもそれを言ったら軽蔑されてしまうかもしれないと思ってやめた。そっち側で生きてきたんだなこの女は、とも思ったし。
 
 春が近いのかな、日なたの縁側の板が熱いくらいに温かい。からだを横たえ、目を閉じる。そのまま眠ってしまう。眠りの底に爪先をついてふっと浮き上がるように目をさましたとき、隣にシマモトさんが座っていた。少しびっくりしたけれど、シマモトさんは目を細めて穏やかな顔で庭を眺めていたので、わたしもからだを起こして一緒に庭を眺めた。
「ジンチョウゲにつぼみがついてますなぁ」
 シマモトさんの声を聞いたのは初めてで、それが思ったよりずっと澄んだきれいな声だったので、なんとなく嬉しくなる。シマモトさんの視線の先にある背の低い木を見てみると、確かに丸く並ぶ葉の真ん中に薄桃色のロケットのような形のつぼみがいくつもついている。これがジンチョウゲなのね。
 玄関から趣味の園芸昭和四十四年度版を持ってくる。
「ほんとだ」
「この花の匂いはいい。どこか色っぽいのです」
 沈丁花。
 どんな匂いなのか分からないからうなずくことはしないで、わたしはただシマモトさんの言葉を聞いた。
「ぼうやはきっと帰ってきます。たとえ帰らなくても、あなたを忘れたりしない。子どもというのはそういうものです」
 シマモトさんは相変わらず目を細めて穏やかに庭の木々を見つめている。
「おじゃましてしまいました」
 そしてアディドスの三本線の真ん中がピンク色のジャージを着たシマモトさんは裏木戸から出て行った。
 日差しは温かだ。春みたい。とても眠い。
 寝転がる。
 見上げる木の枝は、網目のように広がり、二階の軒まで伸びている。
 二階。
 ガラス戸を開け、雨戸を開けると、光がみちる。
 洋服だんすを開く。大きな花の模様の紫色のワンピース。鏡台の布をたくし上げ、胸にそれを当てて姿を映す。着ている服を脱ぎ、ワンピースを頭の上からするりと落とす。
 シールの痕のたくさんついた勉強机。ランドセルも習字道具も縦笛も鍵盤ハーモニカもない。もう二度とこの机は使われることはない。置き去りにされたのは、短くなった鉛筆と、小さくちぎってしまった消しゴム、それから大切に集めていた怪獣やヒーローのミニチュア。あんなに大切にしていたのにどうして持っていかなかったのだろう。いつのまにかこんなものにはもう興味を持てないくらいに成長してしまっていたのだろうか。私がいなければ独りで眠ることもできなかったのに。打ち寄せる波が怖くて私の手を決して離そうとはしなかったのに。半年振りにやって来て何を言い出すのかと思ったら、別れようって、あの人。笑っちゃうわ。いいわよ、でもあの子は連れて行かないで。私を独りにしないで。私独り置き去りにするのならいっそ殺して頂戴。ベルが鳴っている。あの子の目覚まし時計。あの子は朝が弱くて、なのに、目覚ましも忘れていったのかしら。あの人はあの子が朝が弱いことだって知らない。知らないくせにあの子を連れて行ってしまった。ほら、まだベルが鳴ってる。止まらない。あの子を返してください。うるさいわ。ベルが。ねえ早く、あの子にその音を止めさせて。あの子を返して。
 ベルが、うるさい。
 目覚まし? ではない? 朝ではないから? でも本当は眠ってしまっているから? 目覚ましなんてあったかな。社長の目覚まし? それよりもこの音は電話じゃないかな。電話。だれだろう。社長に決まってる。社長しかここに電話なんてかけてこない。
 起き上がるとそこは縁側で、庭木がぐらりと回って戻る。傍らには趣味の園芸昭和四十四年度版。
 受話器から聞こえてきたのはやはり社長の声だ。
―どうした?
 いつもより余計にベルが鳴ったことを社長は訊く。
「ちょっと眠ってしまって」
―今から行く。
 電話が切れた。
 ぼんやりとしたまま電話台の隣にある階段を見つめる。ふらふらと上がってみる。
 ガラス戸も雨戸も閉めてある。蛍光灯の紐を引っぱって、灯りを点ける。座敷を見回す。洋服だんすを開ける。大きな花の模様の紫色のワンピースを取り出す。透明な小さなボタンは引きちぎられ、フレアなスカート部分が大きく裂かれている。それは社長が酔っ払ってわたしを犯したしるし。鏡台の布をたくし上げ、破れたワンピースを胸に当てた自分の姿を見てみる。あのときの社長の力は強かった。わたしは遠くで首をちぎられた雀のことを考えていた。ニッポリは目をそらした。社長は独りで乱暴だった。女が笑う。わたしは笑ってない。鏡の中の、女が笑ってる。
 布を下ろして鏡を隠す。
 一時間して社長はニッポリの運転するレクサスでやってきた。梯子のように急な階段をゆっくり下りる。
 まだ靴も脱がない社長にわたしは框の上から抱きついた。わたしたちはそのまま玄関でした。
「どうした?」
 したあとに社長は板の上に寝転がったままのわたしの前髪を梳かしながらささやいた。
「怖い夢を、見ました」
「馬鹿だな」
「はい」
 見上げた階段のその上は暗い。何かが揺れる。
「女の人がいるんです」
 社長の表情が消えた。

*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。

(あらすじ~第七話)


(第九話~)

https://note.com/toshimakei/n/n043b9a94c742

https://note.com/toshimakei/n/n8f95cd484e91











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