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【恋愛小説】「住む女」第三話




第三話

 二年前ユリエちゃんと一緒に行った隣町のキャバクラは、たしかにお給料も良くて、来るお客さんもクラブ〈花〉よりも上品でお金持ちの人が多かった。その代わり着るドレスやアクセサリーもそれなりのものを身につけるように言われていたので、そしてそれらは同じオーナーが経営するショップで買うように言われていたので、お給料の大半はそれで消えてしまっていた。
 あるとき、おろしたての赤いサテンのドレスにピンクファーのハーフコートを着て出勤したら、ソファやテーブルやフラワーベースがそこらじゅうになぎ倒されて散らかったフロアの真ん中に、唯一倒されずにあったテーブルの上で胡坐をかいている黒いスーツの男がいた。男はレミーマルタンの丸いボトルを無造作に掴んで中身をテーブルの上にこぼし、指先でそれを舐めた。
「ち、安物入れてやがる」
 低い声で吐き捨てる。
 オーナーが夜逃げしたとも知らずにのこのこ出勤してきたドレス姿のわたしたち女の子は壁際に貼り付いて肩をすくめ、その男を見つめてた。
 わたしたちの存在にようやく気付いたような顔をして、男はテーブルから降りた。背が高かった。肩が張っていて黒いスーツが似合った。歳は四十くらいだろうか。胸が厚いのがジャケットの上からでも分かった。小さな目が、だけど鋭く光ってて、順番にわたしたちを見ていく。
「ま、あんたらくらいだな、まともなタンポドウサンは」
 そう言いながらひとりひとりの顔を覗き込み、胸のネックレスや手にはめた指輪や腕時計を指で指していく。一番端にいたわたしには一瞥しただけで後ろを振り向くと、「ニッポリ!」と大きな声で怒鳴った。カウンターの前にいたやはり黒いスーツの、背の高い、でも怒鳴った男よりも若くて痩せた(だからスーツはあまり似合っていない)男が「はい」と張りのある声で返事をした。男は黙って顎をしゃくって見せた。ニッポリと呼ばれた若い男もまた黙ったままうなずき、入り口へと向かった。
「あいつについてきな」
 男はわたしたちに向かってそう言った。お互いに顔を見合わせながらぐずぐずとそこに留まっているわたしたちに男はまた「早く行けよ」と怒鳴った。反射的にわたしたちは入り口の方へ歩き始める。一番奥のわたしは最後からついていった。男の前をうつむいたまま通り過ぎようとしたとき、突然手首を掴まれた。
「あんたはいいや」
 そう低い声が耳元で言った。
 前を行く女の子たちがこっそりわたしを見る。ユリエちゃんも見る。それは哀れみに満ちていて、そして迷いなく見捨てていく他人の目だった。美人ぞろいの女の子たちの中にあって、どちらかというと目立たず、特に愛嬌もあるほうじゃないから人気ホステスでもなく、そんなわたしがひとり「あんたはいいや」と取り残されるのは、絶対みんなよりろくなことにはならないとみんなも、わたしも、思っていた。
 ニッポリの後についていく女の子たちはもうこそこそしてなくて、いつもお客さんの目を意識しながらフロアを歩くときみたいに、胸張って、お尻振って、出て行った。

 そしてわたしはこの古い家に連れてこられたのだった。
「オマエはここに住め」と言われた。わたしはろくに考えないままがむしゃらに「はい」とうなずいた。
 それが二週間ほど前のことで、でも、今になって「住む」っていうのは具体的にどういうことなのかよくわからないでいる。家の中のものは自由に使っていい、と社長は言う。お金もくれる。いくらでもくれてやる、という。携帯は「必要ないだろう」と取り上げられた。黒いずんぐりとした電話が家にはあった。使ったことはまだない。餓死しそうになったときには「そう簡単に死なれちゃ困る」と言われた。近所を散歩するのは禁止されない。ふらふらとバスに乗ることも出来た。あのまま駅からどこか遠くへ逃げようと思えばできたのかもしれない。どこかでつかまってまた連れ戻されるかもしれないけれど。行こうと思えばどこにでもいける。行きたければ。どこにでも。
 社長はこの家には住んでいない。時々来る。時々来て、食べ物やお金をくれる。そして、する。
 するからちょっと納得する。
 女とすると男はお金を払う。ここにお金と交換できる価値があるっていうのはだいたい分かる。それはやっぱり労働。社長の言う「住め」はその労働のことなのかもしれない。ただ、これまでの相場から言うと、それだけだとだいぶおいしい気がして、おいしい気がするときはたいてい落とし穴があったりする。だからその分まだ不安だ。「住め」の中には「させろ」以上の違う何かが潜んでいる気がする。働きたいと思って働いたら殴られた。「住む」ということの中には「働く」ということは入っていないのだ。とりあえずそれは分かった。
 そして、やっぱりわたしもユリエちゃんたちと同じ「タンポドウサン」なのだ。「タンポドウサン」が何なのかはいまだ分からないのだけれど、ただわたしが「住む」女として「させる」以外の価値としてあるなら、それはそれでそうなんだろうと思っておく。
 
「アタシいい加減にしてちょうだい」
 クラブ〈花〉にピンクファーのハーフコートを忘れてきてしまったので開店時間を待って電話をしたら、ママは心底うんざりしたような声でそう言った。そのまま電話は切れた。二年前何も言わずに消えたのを「アタシだってそういうことたくさんしてきたもの」と許してくれたママのお店をひょっこり現れたその夜にめちゃくちゃにしてしまった。本当に申し訳ないと思いつつ、ハーフコートのポケットには四万円と一万円のバスカードが入ったままだし、あのコートはとても気に入っていたし、どうしようと考える。社長に相談しようかとも思ったけれど、そうするとまたママにめんどうが降りかかりそうだからしかたない、諦める。
 真冬に肩丸出しのサテンの赤いドレスを着ているわたしに、社長は服を買ってくれた。イブサンローランのワンピースとアディダス(本物)のジャージの上下。レースのいっぱいついたショーツとブラジャー。お金もくれた。前にくれたお金については何も言われなかった。使ったのか、まだ持っているのか、なくしてしまったのか、まるで興味がないみたいだった。
 縁側に社長のくれたお金を並べる。一万円札が十枚。
 例えば、じゃあ、飢えて死にそうになったら食料を買う。
 でも、あれ以来社長は三日と空けずこの家にやって来るし、来るときはたいてい食事につれだしてくれる。行ったお店で一品二品包んでもらうこともある。時々大きな化粧箱に入ったお肉や明太子や缶詰セットをもってきてくれることもある。だからもう、そうそう飢えて死にそうになることはない。
 この家の台所は廊下から一段低くなっていて、北側のかすみガラスからの光と蛍光灯の青い光の中、炎を見せる小窓がついた白い湯沸かし器、炊飯器、ガスレンジ、壊れた冷蔵庫、小型焼却炉みたいなガスオーブンまであって、ちょっとした基地みたいだ。そこに社長が運び込む食料が納められる。
 野菜不足なんじゃないかな、と思い、ふとそうつぶやいたその言葉を社長は聞いたのか、次の日ダンボール三つ分の野菜が届けられた。にんじんや玉ねぎやじゃがいもやさといもはとりあえず後回しにすることにして、レタスときゅうりとトマトとキャベツとはくさいとアスパラガスとパプリカを順に調理する。それでも葉物は茶色くなり始め、黒ずんだり、柔らかくなったり、白い液をにじませながらぬるぬるしてきたりして、だめになっていく。そういえば祖母はいつも親の敵みたいに漬物を漬けていた。でもわたしは漬物の作り方なんて知らない。しなびた野菜を庭の隅に埋めた。三日後、ドアが五つもついたばかでかい冷蔵庫が運び込まれた。戸棚をひとつどかした。電源を入れたらブレーカーが上がった。結局二つドアの小さな冷蔵庫に取り替えられた。
 近所にはドラッグストアがある。途中シマモトさんの佇む時々腰掛ける曲がり角を曲がって、用水の橋を渡る。用水は石積みの岸で、そのふちの鉄柵沿いにレンガ敷きの遊歩道がある。歩く。名前の知らない街路樹――けれどそれにはそれぞれきちんと名札が付けられているので知ろうと思えばいつでも知ることが出来る――がたくさん植えられていて、いつも日陰で秘密めいている。秘密の小道では毎朝、おそろいの作業服を着たお年寄りたちが箒や塵取りやくずかごや一輪車を持ってお掃除をしている。お年寄りたちはひとことも喋らず、目配せもせず、長く伸びる遊歩道を端から掃き清めていく。時々ベンチに寄り集まって缶入りのお茶を飲んでいる。そんなときには何か楽しそうに喋りあっているけれど、でも、その近くを通り過ぎても何を話しているのか分からなかったりする。遊歩道を離れ大きな道を渡ると、商店街がある。ドラッグストアはその入り口にあった。
 店先には特売品とかお徳用とか大特価とかの黄色い札が何枚も垂れ下がっている。薬のほかに、洗剤や、お菓子や、二リットルのペットボトル飲料やお茶や、ティッシュや、化粧品があって、洗剤といっても台所用、風呂用、トイレ用、床みがき、ガラスみがき、洗濯洗剤、柔軟剤、漂白剤ともろもろあって、台所用といっても、ジョイ、ファミリーピュア、ヤシノミ洗剤ともろもろあって、ジョイといっても、スーパー泡ジョイ、除菌ジョイ、ウルトラジョイリフレッシングレモンともろもろあって、お金を持っているわたしはどれでも好きなのを買うことが出来るけれど、ここからどれをどう選び出して手に取ったらいいのか分からず途方に暮れる。だいいち、あの家には台所洗剤はあった。ママレモンという名前のそのボトルはここにあるどれとも違っていて、いったいいつからあるのかは分からないけれど、ちゃんと泡立つし、汚れも落ちる。そうね、必要に迫られていないから途方に暮れるのだ。必要になったらきっとわたしにも数多の商品たちから唯一を選び取ることが出来るだろう。
 店内を三周して、ようやくひとつの商品を手に取る。マニキュア。三百五十円と消費税十パーセント。

*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。

(あらすじ~第二話)


(第四話~)

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