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【恋愛小説】「住む女」第四話

*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。



第四話

 マニキュアの爪に息をかける。
 日なたの縁側で太陽に指をかざしてみる。息よりも早く乾くかもしれない。伸びた爪にベリーレッドが良く似合う。
 マニキュアは洗剤よりも選びやすい。好きな色とビンのかたちで選べばいい。
 片足を縁の下にぶら下げ、もう片方の足を縁側の敷居に立て、ペディキュアを塗る。床下からのひんやりした空気が裸のふくらはぎに当たる。太陽の光はただただ暖かくて、塗られていく足の爪からシンナーの匂いが立ち上る。エナメルがつややかに輝く。くつぬぎ石の向こうを雀を咥えた猫が横切る。裸足のまま石の上に下りてみる。太陽に温められたざらざらの表面。灰色の足に並ぶ十の赤い爪。
 ガレージに車が入る音がした。
 ドアの開け閉めの音がしたかと思うと、社長の怒鳴り声が聞こえてきた。
「いいか、てめぇに無駄にできる金は一円もねぇんだよ。分かったか」
 背を丸め、へこへこと何度も頭を下げ続けるニッポリの影が縁側から見えた。マニュキュアをしまい、部屋の中に入る。「夜八時にまた出かける」という社長の声と、「はい」というニッポリの張り上げた声が行き交うと引き戸の閉まる音がして、どすどすと社長が現れた。
「おかえりなさい」
 わたしは畳の上で出迎える。
 すぐにする。
 日に干してふくらんだ真っ白な布団の中で、赤いペディキュアはとても綺麗に映えた。社長はそのつま先に何度も何度も口づける。くすぐったくて笑う。笑いながらわたしは自分の指先を噛む。太陽の匂いとエナメルの匂い。
 
「奥さん、でよろしいのかしら」
 その人は言った。
 サーモンピンクの口紅が似合ってなくて、大げさにウエイブされた髪にはスプレーがかけられすぎていて、香水じゃないコスメチックな匂いがする。
「いえ、あの」
「あらまあ、まだお若いものね。じゃあこれからなのね?」
「いえ、さぁ」
「そおおう。今の人はいろいろですものねぇ。おばさんにはよく分からないけど、自由ですのよねぇ、うちの娘もなんだか何考えているのか分からなくてねぇ、毎日毎日遅くまで仕事ばっかりしててねぇ、うちに寄り付かなくてねぇ、親の言うことも全然聞いちゃいなくてねぇ」
「はい」
「結婚したくないわけじゃないらしいんだけど、周りにろくな男がいないなんて言ってねぇ、いやね本人だってたいした娘じゃないのよ、でも一応大学も出てるしそれなりの会社に勤めてるし相手の人もそれなりじゃないとっていうのもね分からなくはないのよ、お知り合いの息子さんでも何人か良いんじゃないかしらって思うような人はいらっしゃるの、でもねぇ、今の人はお互い理想が高すぎるのかしら、それともあれ? 今流行のタヨウセイ? なんだか分からないけれど、男も女も三十代の独身の人なんて当たり前にいるのねぇ、まぁねぇ、あたしたちの時代と違って今はみんな女の人でも立派な仕事してるから、ジリツ? っていうのしてるから、それはそれでいいのかもしれませんけどねぇ、お仕事は何か?」
「いいえ」
「あらそう、おうちにいておうちのことやるのも結構大変だものねぇ、それがいいのよねぇ、女が一人家にいてしっかりしていないと家が傷むからねぇ、ずっとこちらも空き家だったでしょう、このあいだハウスクリーニングの業者さん来てたわねぇ、随分と手を入れたんでしょう? きれいにしてらっしゃるものねぇ、こうしてまた人が住んでくれると近所の人間としても安心だわねぇ」
「はい」
「ああごめんなさい、つい無駄話して。町内会費ね。三か月分で千八百円。うち斜め向かいの小林です。今年の班長。そのうち奥さんのところにも回ってくるわよ、でもたいしたことないの、会費集めたり、回覧板まわしたり、ゴミ捨て場チェックしたり、一年ごとの当番、そうねぇ、四、五年したらお宅の番になるんじゃないかしら。あ、おつり? あるかしら八千二百円? 一、二、三、四、五、六、七はい八千円と二百円。お邪魔してごめんなさいねぇ。この辺で何か分からないことがあったらなんでも聞いてちょうだいねぇ。ああそう、三軒となりのシマモトのおじいさん、ぼけちゃってるの、まあね、危害はないけど、時々分かんなくなっちゃってよそのうちに勝手に上がり込んだりしちゃうのよ、あなたも一人でいることが多いんでしょうから戸締りはしっかりしていたほうがいいわよ、いくらおじいさんでもなんだかこわいでしょ、もちろんねぇ、最近はこの辺も空き巣とか強盗とかもあるから、どっちにしても気をつけないとねぇ」
 サンダル履いて、似合わない口紅を塗って、近所の家にお金を貰いに回るわたしは四、五年後にいるのかしら、と考えてちょっとわくわくする。回覧板なんて祖母の家にいたとき以来じゃないかしら。班長になったら「回覧板をまわす」じゃないのよ。自分自ら回し始めるのよ。ああ、このわたしにそんなことができるのかしら。近所の方々はわたしを班長と認めてくれるのかしら。四、五年ここにいられたらわたしもその資格が得られるのかしら。

「明日百年分の町内会費払い込んでやる」
と社長が言ったので、焦る。
「そんな」
「うっとうしいだろ、あのばばぁ。昔からなんだ」
「そんな」
「べらべらべらべら余計なことしゃべりまくる」
「あの、でも、大切な班長の仕事みたいだし、それはそんなふうに勝手なことしちゃいけないんじゃないでしょうか」
 社長がわたしの顔をまじまじと見つめる。わたしがこんなふうに人に自分の意見を言うのは、そういえば生まれて初めてのことかもしれない。殴られる? と肩をすくめる。が、社長はふんと鼻をならして「知るかよ」とつぶやいた。
 そしてした。

(あらすじ~第三話)

https://note.com/toshimakei/n/nb3e13bc1732c

https://note.com/toshimakei/n/na8a2357ffe3f


(第四話~)

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