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【恋愛小説】「住む女」第十話




第十話

 女は昆布茶をすする。
「ああおいし」
 女は茶碗を座卓に下ろし、わたしの顔を見つめ、肩をすくめて微笑んだ。
「そんな顔しないでよ。大丈夫よ」
「どんな顔しているか分からないし、何が大丈夫なのかも分かりません」
 わたしはむっとして横を向く。
「あなたも飲んだら。昆布茶」
 女はわたしがいれた昆布茶の茶碗をまるで自分がもてなしているみたいに差し出す。わたしはますます苛立って、乱暴にその茶碗を取り上げ、ずずずずと音を立てて飲んでみた。
「誰も私をこの家から引き離したりできないわ」と女は言う。
「わたしは?」とわたしは言う。
「ここに居たい?」
「ええ」
「じゃあ大丈夫」
「でも、わたしはもうタンポドウサンじゃないみたいだし……」
 好きにしろって、出てけって社長が、とぶつぶつ言うわたしを無視して女は言った。
「土に埋めちゃいなさい」
 女は言った。縁側越しの庭を見る。
「蝕んで、溶かして、飲み込む。含んで、育てて、発芽させる。いいのよ、だから。しょうがないのよ、男は。いいじゃない、どうでも。うっとうしいのよ、猛々しい生き物、みんな。子どももそう。踏みつけて、唾吐いて、忘れてく。そのくせちょっと柔らかいところに足を取られて、転んで、泣くの。そして憎むのよ。勝手よね。でもいいじゃない、結局最後は抱いてあげるんだもの、肉になって、骨になって、汁になって、露になって。だから私はただこの家があればいいの。ただ、そう、家があればいい。ね、分かるでしょう。住みなさい。あなたもだから住みなさい。住みなさい」
 女はばかのように繰り返した。ほんとばかのようだ。ばかみたい。

「沈丁花が咲きましたな」
「はい」
 縁側に座るシマモトさんにお茶を出して、その隣に座る。
「シマモトさんの言っていたとおりですね」
 三本線の真ん中がピンクのアディドスのジャージを着たシマモトさんは小さく首をかしげる。
「沈丁花の香りは色っぽいって」
 シマモトさんは目を細めてずずずずとお茶をすすった。背の高い木に白い花がぽかりと咲いていた。
「ああ、ハクモクレンも咲いている」
 顔を上げたシマモトさんがつぶやいて、それがハクモクレンなのだと知る。
 趣味の園芸をとりに玄関に立つ。
 白木蓮。
 電話台の引き出しに買ったばかりの花鋏があることを思い出し、取り出してみる。その重く平たい箱を開け、刃の先を覆うビニールのケースをはずす。鈍い黒い色の鋏がそこだけ青白く研ぎ澄まされている。切れ味のいいやつを一本、わたしは買ったのですよ、とシマモトさんに見せよう。花鋏を手に縁側に戻った。シマモトさんの姿はなかった。飲みかけの茶碗がひとつ。ジャージのポケットに花鋏は重すぎてのびる。

 帰ってきた社長は、まずわたしの頬を打った。畳にうずくまり懇願するわたしの背を踏み、横腹を蹴った。口答えをするとたいていこういう目に合う。分かっていたけれどやっぱり痛い。
「出てけっつっただろ」
 息も乱さず、低い落ち着いた声で、社長は上からささやいた。ごめんなさいごめんなさい、とわたしはひたすらに謝る。そして、お願いしますお願いします、とひたすら懇願する。
「なんでもしますから」
「今すぐ消えろ、俺の前から」
 お願いしますお願いします、と繰り返す。聞こえないふりをしたのが癪に障ったのか社長がまた横腹を蹴る。息が止まる。殺虫剤をかけられた蝿のようにわたしは身体を丸めたまま転がる。縁側に立つニッポリの足が見えた。
「この家は壊す」
 社長が言った。息をどうにか吸い込んで、吐いて、呼吸を取り戻して、かすれた声で「は?」と聞き返す。
 社長はすっとまっすぐにしゃがみこんで、わたしに顔を近づけ、はっきりとした口調で繰り返した。
「つぶすんだよ。更地にしてコンクリートで固めて、タワー型の月ぎめ駐車場にする」
「そんな」
「決めたんだ。つまらねぇ戯れ事はもう終わりだ。ああくだらねぇ。この土地にはさっさと稼いでもらわねぇとな」
 戯れ事。この家はつぶす。土にコンクリートを流す。じゃあ来年山茶花は咲けない。沈丁花も咲けない。白木蓮も咲けない。まだわたしの知らない名前の他のいくつもの木々も雑草もみんなコンクリートに埋められる。猫が殺した雀も。あの女も。みんな。
「金はやるよ。当面暮らせる分。そのくらいの情けはある」
 目の前の、社長の小さなふたつの目の中に、わたしの歪んだ顔がふたつ。わたしが、いる。そしてそのむこうに何かがいる。
 この家はわたしのもの、女が言った。

 気がつくとその目が大きく見開かれ、ゆっくりと大きなからだがこっちに傾いてきた。
 わたしの膝に社長の額が押し付けられる。重い。
「社長!」
 ニッポリの叫び声で気づく。
 アディダスのジャージのポケットを大きく引き伸ばしていた花鋏を、わたしはそこから抜き出し、社長の一番柔らかいところに突き刺していたのだった。
 青白い刃の先から赤い雫が落ちる。
 また、落ちる。
 落ちる、そのゆっくりとした動きを見た。落ちた先には社長の後頭部があった。黒く、整髪料でつややかな、短い髪の毛の間に落ちる雫が滲み込んでいく。ニッポリが何かわけの分からないことを叫ぶ。ニッポリに突き飛ばされる。膝先で社長の額を蹴ってしまう。社長のからだがだらりと畳に崩れた。締め切ったガラス戸がきしむ。夜になって風が強くなっていた。戸袋の中の雨戸がすきまにがたがた揺れる。庭の木々たちが枝を振り乱し、葉を鳴らす。電線が鳴る。畳に染み。四角い電灯笠のなかの古い蛍光灯は、その染みを泥の色に見せる。柱時計がやけに大きな音を立てて針を進める。
「社長」
 ニッポリが社長のからだを揺する。止まり、また揺らす。これ前にも見た。月の光の下、ニッポリの背中がごりごりと動いていた。今、ニッポリの背中は古ぼけた蛍光灯の光に照らされている。わたしはただそれをぼんやりと眺めた。
「社長」
 ニッポリが繰り返す。揺すり、声をかけ、また揺する。
 土に埋めちゃいなさい、女が言った。悲鳴をあげた気がする。喉が痛い。でも自分の声は遠くにしか聞こえなかった。

「いてぇ」
 ニッポリのからだの向こうから社長のつぶやく声が聞こえた。ニッポリが少しからだをずらす。「だいじょうぶっすか」とささやく。
「いてぇよ」
 社長がのそりと起き上がる。山が動くように。
 わき腹を押さえた長く太い指の間から幾筋もの血のあとが流れる。白いシャツにもやけに鮮やかな赤い染みが広がっていく。大きな咳をひとつする。ニッポリが自分のスーツの上着を脱ぎ、社長が抑えている手のその上から丸めてまた抑えつけた。そんなことをしたらニッポリの上着も汚れてしまうのに。うつむいたまま社長は立ち上がる。ニッポリは支える。もう一度咳をする。よろけるように一歩踏み出す。ニッポリは支える。そしてふたりは出ていった。社長は二度とわたしを見なかった。


(あらすじ~第九話)


(第十一話・終章)









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