【恋愛小説】「発火点」第七話
第七話
それを見たとき、地表が揺らいだ気がした。
ビデオカメラだった。
ダイニングテーブルに乱雑に散らばったCDケースの間に無造作に置かれていた。その日も基一はBと大宮のホテルで会っていた。日付けが変わる前に部屋を出て、Bを駅に送り、高速道路を飛ばして帰ってきたのだ。残業で遅くなるとあらかじめ伝えていた。妻は珍しく二階で眠っていた。
液晶モニターが開きっぱなしになっている。ACアダプターもつないだままだ。
手に取ってみる。
軽い気持ちだった。
映っていたのは、ダイニングテーブルと地球だった。
泣くような人の声が入る。ゆっくりと画面は左へ移っていく。長い髪の女の後姿。髪はゆるやかなリズムでうねり、揺れる。見てはいけない、と心の奥が叫んだ。しかし、目を離すことができない。
女の体を抱く腕がある。長い、男の腕だ。
見るべきではなかった、と思ったときには目に焼き付いていた。
それは基一だった。
抱かれているのは、妻に似ている女だった。
妻ではない。
Bだ。
きゅうくつなダイニングの椅子の上で男と女はみだらに揺れている。カメラはズームもせず、引きもせず、じっとそれを見つめている。執拗に、視線を一ミリも外すことなく、捉えている。操作する人間の殺した息を感じる。
とっさにモニターを閉めた。
何も考えられなかった。
同じことを、ほんの数時間前、数十キロ離れた薄暗いホテルでしてきたのだ。意味もなく後ろを振り返る。すべてを見られているような気がした。手が震えていた。
最初から知っていたということだ。
アングルは階段の途中からだった。あの夜、眠ったふりをして妻は起き出し、階段を途中まで降り、基一とBの行為を見つめていたのだ。そして撮った。部屋の隅にある階段は途中から照明の灯りが届き切らず、ダイニングからは闇に解けて見えない。逆に、階段からは明るいダイニングはよく見渡せる。基一は全く気付かず、妻はすべてを見ていた。
わからない。なぜ黙っているのか。なぜ責めないのか。なぜこうも冷静に撮影などしたのか。それをなぜこんなふうに無造作にダイニングテーブルに置き放っているのか。その後の基一の嘘をどこまで知っているのか。
考えてわかることではなかった。
妻の用意した夕食を基一は手を付けることができなかった。しかし、思い直し、無理やり食べた。一旦片づけたビデオカメラも、また出して元のようにテーブルの上にモニターを開いて置いた。とりあえず今は何も見なかったことにするしかない。ほかの対処が思いつかない。風呂に入り、二階に上がり、自分のベッドにもぐりこむ。隣のベッドで妻は寝息を立てている。眠っているのだ。いや、本当に眠っているのだろうか。胸の途中に夕食が閊えていた。苦しい。一睡もできないまま朝を迎えた。そして、妻が起き出す前に逃げるように仕事に出かけた。
来週の約束をキャンセルすることともう会えないということをBにメールで送り、携帯電話内のBとのやり取りをすべて削除した。
返信はなかった。察したのだろう。安堵する。熱病のように浮かされていたBへの欲望はすっかり消えていた。同時に、激しい自己嫌悪と今更ながら激しい罪悪感に苛まれた。
家には早く帰った。
妻はいつもと何も変わらない。ビデオカメラは片づけられていた。基一の知らないロック音楽が流れている。
「土いじりって楽しいよ」
最近、林田夫人と富に仲良くなり、畑仕事を手伝っているのだという。
「へえ」
「土って、いろんな生き物がいるんだ」
そう言って妻は、蟻や蜘蛛や蚯蚓がうごめく土の様子を描写する。土竜の穴もあるし、猫が噛み殺した鼠の死骸もある。そのすべてを許容し、溶かし、栄養として蓄えていく、土はすごいのだと饒舌に話す。その目は、新しい発見をした子どものように見開かれ、輝いている。
基一は目をそらす。ジャケットを脱ぎ、腕時計を外す。葉物野菜でもゆがいていたのか、キッチンから湯気の湿り気と匂いがただよってくる。
「大家さんてすごいの。花の名前とか、草の名前とか、いっぱい知ってる。元気がないのはお水が足りないとか、日当たりが悪いとか、肥料が多すぎるとか、すぐにわかる。どんな土が痩せててどんな土が豊かなのかもわかる。湿り気や、においや、柔らかさでわかるんだよ。すごいよね。すごく実際的で、かっこいい。地に足がついてて、ちゃんと生きてるっていう感じ」
菜箸を手にした妻は続ける。
「そんなふうに実際的に、わたしもなりたいよ」
耳に入ってこなかった。
やはりただ自分には無関係な遠いおとぎ話を聞かされているように思う。音楽が耳にさわる。居心地の悪さしか感じない。妻は構わず喋り続ける。
「表現とかしようとする人間ってどこか欠けてるんだよね。大家さんって表現しようなんて絶対思わないと思う。その必要がないんだよね。そういう人って強いと思う。憧れるよ」
ふいに不遜に感じた。
苛立つ。
テレビをつける。
「鍋、かけてるんじゃない?」
基一が言うと、妻はそうだったといいながら音楽を止めキッチンへと戻っていった。ダイニングテーブルの席につく。テレビを見る。さわがしい笑い声とまばらな拍手が流れる。
チャンネルをザッピングし、適当なところで止める。下町の路地を歩くタレントがわざとらしい感嘆の声をもらしている。見たいものがない。妻の言葉同様、何も入ってこない。
妻が皿を並べる。
「あのさ」
何を話すのか決められぬまま口を開いてしまう。
「つまらないことを言うようだけど」
そして、言いたくもないことが口をつく。
「林田さんは大家さんじゃないだろう。あえて言えば地主さん、正確にいえば地主の息子の嫁だ。そんなのややこしいからちゃんと最初から林田さんと言えばいいよ」
自分でも思ってもみないほど棘のある言い方だった。本当につまらないことだ。
「そっか。そうだね」
笑みを消し、妻は神妙につぶやく。
「それに」
基一は続ける。
「食事の時くらいテーブルの上のCD片づけたら。だらしないよ」
手の甲でCDケースを押しやる。かちゃかちゃとその山が崩れ、一番上のそれが滑り落ちる。びっくりするほど大きな音を立て床に落ちた。暴力的な音だった。床の上でケースはふたつにはずれ、中の銀板が飛び出した。最低だ、と思う。
「ごめん」
謝罪した妻は、床に座り込んで、それを拾う。
「謝らなくてもいいけど」
謝るべきは自分なのだ。
顔を上げず、妻はしゃがみこんではずれたケースを直している。椅子に座ったまま基一はその姿を見下ろす。
「ごめん」
そう言って、基一は大きく息を吐いた。
知ってるんだろう、と叫びたかった。
首をかしげ、妻は基一を見上げる。
得体のしれないものに見える。
「ごめん」
もう一度言う。
「なんで謝るの」
さらさらと長い髪が揺れ、妻が首を横に振る。
「どうしてキイチが謝るの」
そして、ねえとささやきながらその小さな掌を伸ばし基一の頬に充てた。
「わたしのこと嫌いになったの?」
妻が言う。
そうじゃない、首を横に振る。
「ねえキイチ、わたしのこと嫌いにならないでね、お願いだから」
基一の目を覗き込み、念を押すようにゆっくりと妻はささやく。
おずおずとうなずく。
妻はダイニングチェアに座っている基一の後ろに回り、背中から覆いかぶさるように基一の体を抱きしめた。妻の二つの胸のふくらみを背に感じる。妻が触れないのであれば、あえて自分から暴露すべきではないのかもしれない、と思う。そう思うことは卑怯だろうか。目を閉じる。せめて二度とBには会わずにいようと思う。
「なんちゃって」
唐突に妻は吹きだした。
「安っぽいセリフだね」
背中に声が響く。
「嫌いにならないで、だって」
しばらくひとりおかしそうにくすくすと笑い、そして言った。
「嫌われてもいいよ。わたしがキイチを好きだからそれでいいし、わたしが一緒にいたいって思って一緒にいれればそれでいい。むしろ嫌われても、憎まれて、うっとうしがられながらまとわり続けるっていうのも、ぜんぜんいい。素敵」
そして妻は基一の背中から離れ、子どもをさとす教師のように傍らに座り込み、下から基一を覗き込んだ。
「お願いがある」
基一はそっと妻を見る。その穏やかな表情は慈悲のようにさえ思えた。まっすぐに基一を見つめている。真剣さが宿っている。目をそらすことができない。
「わたし、キイチがカナを抱いているところ見たい。この家で、もう一度」
カナとはBのことだ。
何を言っているのだろうか。
一瞬ホワイトアウトした思考を必死に蘇生させる。
つまり、妻が知っていることを基一が知っていることを前提にしている。それを了解したうえでの発言なのだ。自分の立ち位置を探る。
「できるでしょう。できたんだから」
だとして、そのうえで妻はいったい何を言っているのだろうか。
基一はともかく首を振る。
「どうして? カナが好きだから? わたしじゃなくて?」
さらに首を振る。
「だったら抱きなよ」
きっぱりと妻は言った。
基一に選択の余地がないとその口調は言っている。
「わたしはキイチがいくとこが見たいの。カナを抱いて、いかせて、いくところが」
激しい羞恥が基一を襲う。頬が火照る。
必死に首を振る。
「じゃなきゃ許さない」
堅い声で妻は言った。
そして、立ち上がりおもむろに携帯電話を取りだした。
「あ。もしもし、カナ? うん、わたし。ね。来週末空いてる? またうちで飲もうよ。旦那もぜひって。ね。うん、じゃあ待ってる」
それだけを手際よく告げると、電話を切る。
「……友達なんだろ」
「友達だよ」
すがるように基一は妻を見る。
「いいこでしょう、カナは。カナで良かったと思ってる。カナじゃなきゃ嫌だった」
基一を見下ろし、妻は言った。
(あらすじ~第六話)
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(第八話~)
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