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【恋愛小説】「発火点」第九話


第九話

 それから、月日は穏やかに過ぎていった。
 仕事は大まかな設計が仕上がりあとは実地に落とし込むための最終的なデータ収集と調整作業を繰り返すだけでほぼ毎日定時に帰宅することができ、季節は、地球の公転と自転による順当な変化を見せていった。梅雨に入ると陰鬱で肌寒い日が続き、いったんしまった石油ストーブを引っ張り出して火を入れた。基一と妻は並んでソファに座り、小さくした炎を見つめた。雨の音を聞く。聞きながら斜面に広がる田植えを終えたばかりの水田に丸い水紋が次々生まれるのを空想する。時折車が雨をはじきながら走る音を聞く。蛙が水路から飛び出て、また戻る、いくつかが道を渡り、いくつかが轢き殺されるだろう、雨上がりのアスファルトにその痕跡を見た。週末は坂を下り、国道沿いのスーパーマーケットに買い物に出かけて、戻ってくる。帰り道、途中にある緑地公園の駐車場に車を停め、買ってきた鯛焼きと缶入りの緑茶を飲む。再び降り始めた雨に車の中へ駆け込む。流れ落ちるフロンドガラス越しの曇天を、ふたりで眺める。
 やがて梅雨は明け、青い空にくっきりとした山並みと白い雲がコントラストをなした。道端に生い茂った熊笹が濃い緑色の光を散らしながらさわさわと揺れる。束の間の山風が涼しい。田の苗は音を立てるように成長していった。蛙たちはうるさく鳴いた。緑地公園でかき氷を食べた。整然と茂る水田の稲に雲の影が落ち、流れていく。山のふもとの街が白くかすむ。
 妻は相変わらず林田さんの畑の手伝いを続けていて、毎日キュウリや茄子やとうもろこしをもらってきた。七輪を買った。妻は夏野菜の漬物を漬けるのを覚え、基一は炭火を熾すコツを覚えた。スーパーで買ってきた肉と魚をとうもろこしと一緒に焼き、妻はビールを飲みながらそれを眺めた。気まぐれに缶を差しだす。基一は一口だけそれを飲む。顔をしかめる。妻が笑う。
 穏やかな時間だった。変化らしい変化はないように思えた。妻はすこし太った。頬がふっくらとし、肩から背にかけて柔らかな丸みを帯びてきた。麦わらをかぶり、基一の綿シャツとジーンズをはいて、林田家の菜園の中を歩く妻はきわめて健康的で素朴で思春期の少女じみていた。ベランダから見下ろしていると風景になじみ輪郭がぼやけて見えた。
 ふたりはときどき抱き合うが、妻はやはり乾いたままだった。ただ静かに抱きつきじっとしている。柔らかくふくよかな妻の体を基一は抱く。呼吸と鼓動は変わらない。まるで本当に思春期の少女を抱いているように思う。ときどき妻は抱き合ったまま鏡の前に立つことを望む。鏡に映る自分の顔を妻は長い時間見つめる。そして自分の体に回した基一の腕を確かめるように何度も何度も摩る。基一を見る。鏡越しに見つめ、顔を上げ、直接、見つめる。すがるように首筋に口づけをする。輪郭を確かめているのだろう、と基一は気づく。
 人の内部は空っぽなどではない。臓器があり、脂肪があり、筋肉があり、骨がある。体液があり、酸素、二酸化炭素、硫化水素があり、様々なたんぱく質が詰まっている。妻の乾いた裂け目から無理やり入り込み、そうした温かく湿った内部に届きたいとときどき無性に思う。衝動だった。空っぽなどではないと突きつけてやりたい。自分の凶暴性にうろたえる。衝動を抑え込む。なかったことにする。
 妻は何も言わない。基一も何も言わない。そのうちに記憶は薄れていった。Bとの関係が現実にあったのかどうかあやふやになる。
 黒板にはまだ地球が残されている。擦れて消えるところもなく、まるでついさっき描き上げたばかりのもののようにクリアな輪郭を保っている。これはこれ、それはそれ、とBは言った。たしかにそうだったのかもしれない。
 妻がときどきビデオを見ているのを知る。最初にしたときのものだ。いたたまれずそっと離れる。知らぬふりをし続ける。時折、口でしようとするのを基一は拒む。妻は傷ついた顔を見せる。一度だけ泣いた。それでも基一は断り続けた。ひとりで処理をする。どこかにカメラがあるかもしれない。ないかもしれない。妻の回路は閉じている。基一の回路も閉じている。干渉波も摩擦熱も発せず均衡は保たれる。
 基一はウエイトトレーニングを始めた。それまであまり意識してこなかった自分の肉体がその形状を自身の意思でデザインしていけるものなのだということに気付きそれが新鮮だった。自分とはただ自意識と履歴だけではなく可視対象でもあるのだ。鏡を見る。シックスパックがかすかに浮き始める。さらに深めようと思う。何を目指すわけでもない。形作られる面白さと、その過程で肉体内部で感じ取られる感覚の変化を楽しんだ。たとえば端的に体が軽く感じられるようになったり、重いものを難なく持ち上げられたり、ということだ。単純なことが面白かった。
 ほとんどテレビも見ず、音楽も聴かなかった。
 黒板には地球が浮かんでいる。
 弱い地震がときどきあった。
 夏が終わり、空が高くなった。
 街道沿いにコスモスが咲き乱れた。乾いたアスファルトに干からびた蚯蚓が貼り付いていた。いくつかの台風が近くをかすめ通った。重く実った稲穂が広く波打った。台風が温帯低気圧に変わるとまたさらに空が高くなった。
 ネットでマップピンを買い、知っている限りの世界遺産を黒板の地球上にマークした。調べれば全部をマークすることは可能だが、あくまで自分が知るものだけをピンで刺した。描かれていない裏側には刺せない。それでも黒板の表面には群数恐怖症の人をおびえさせるくらいの数の球状の針頭が並んだ。
「本当に節操がないね」
 妻が笑った。基一も笑う。融けるように笑う。

「林田さんに陶芸教室に誘われた」
 ある日、妻が言った。
「へえ」
「若いイケメン講師だって、林田さんうかれちゃって」
 意地悪く妻は笑う。
「いいんじゃないか」
 基一は言った。妻は林田さんと一緒に週に一度木曜日の午後、町はずれの陶芸教室に通うことになった。
 弱い地震を感じるたびに基一はかすかな後ろめたさを覚える。

 暗い庭先にいたのは林田夫人だった。
 仕事からの帰り、車から降りるとばったりと出くわした。
「こんばんは」
「ちょうどよかった、回覧板です」
 手にしていた回覧板を基一に差し出す。
「どうも」
「今度、奥さんと陶芸教室に行くことにしたって訊きました?」
「ああ、はい」
「無理に誘っちゃったかしら」
「いえ」
「でも、奥さんそういうの好きそうだったから」
「いいと思います。よろしくお願いします」
「ああよかった、旦那さんにも了解もらえて」
 林田さんはにっこりと笑って自分の家に戻っていった。暗くてほとんどその顔は見えなかったのだが、その朗らかに笑った口元だけは淡く浮かんで見えた。
「ただいま」
 家に入ると妻は二階から降りてきた。玄関を上がる基一の前を通り過ぎていく。その横顔に基一はもう一度「ただいま」と言う。妻は何も言わずダイニングに入っていった。追うように基一も入り、ダイニングテーブルに回覧板を置く。妻は無表情のままキッチンに立つ。
「ビーフシチュー。うまそうだ」
 基一は妻の手元を覗き込み、言う。
 ジャケットを脱ぎ、腕時計を外す。無言のままの妻の背を盗み見る。
 大きなため息をつき、妻が振り返った。
 鋭い視線を基一に向ける。
「何なの!」
 突然テーブルの上の回覧板を投げつけた。基一は腕を上げ、それをよける。
「なにが」
「あの人とできてるんでしょ!」
「あの人?」
 呆然とする基一を妻はにらみつける。そして言いたくないことを無理やり吐き出すように口をゆがめて言った。
「林田さんよ」
「は?」
 あまりの突飛さに基一は力が抜ける。そして少し笑う。
「何言ってるの」
 本気で妻が冗談を言っているのではないかと思う。
「さっきすごく楽しそうに話してた」
 ベランダから見下ろしていたのだろうか。
「回覧板持ってきただけじゃないか」
「いつもそう」
「何が」
「いつもキイチがいるときに回覧板持ってくる」
「たまたまだよ」
 ばかばかしいと思う。同時にどうやら真剣な妻にたじろぐ。
「こないだだって」
「いつ」
「日曜日。畑でふたりでいちゃいちゃしてた」
 記憶をたどる。家庭菜園用のビニールハウスの骨組みを林田さんが運んでいたのを手伝った。たしかそこには妻もいたのだ。
「ただ鉄筋を運んだだけだろ」
「違うよ」
「もうやめよう。ばかばかしいから」
「何が」
 Bには抱かなかった嫉妬心を林田夫人にこうも強く抱く妻が不可解だった。どうしてなの、と聞きそうになる。妻を見つめる。駄々をこねる少女のような表情で基一をにらみつける。
「あの人はいやなの」
 妻が言う。
 拗ねて横を向く妻のその子供じみた頬の膨らみを見つめる。その頭にぽんと手を乗せ、いつまでたっても食卓に並びそうもないビーフシチューを温め始めた。妻は火を止める。基一が点けなおす。妻はまた止める。基一は妻を抱きしめた。そして口づける。抱きしめて気づく。少し痩せた、と思う。
「キイチはほんとはああいう人がいいんだよ」
「そんなことない」
「そんなことある」
「いい加減にしろよ」
 宥めるように基一は妻の両肩に手を乗せる。
「めんどくさいって思ってるんでしょ?」
「何を?」
「わたしのこと」
「なんで」
「ああいう平凡な女のほうがキイチを幸せにしてくれるんだよ。平凡で明るくて強い女」
 妻はすねたように基一の胸に額をぐいぐい押し付けた。
「そんなことないよ」と基一は妻にささやいて口づける。
 めんどくさいと思う。たしかに林田夫人のような女が、あるいはBの方がまだめんどうではないのだろう。しかしめんどうじゃないから好きになるということはないのだ。たしかにめんどうくさいから理解しようとは思わないし、共感しようとも思わない。妻と自分のふたつの極がこの家にはある。極が磁場を生じさせる。この磁場の引力と斥力に甘んじて翻弄され、絡めとられることを快く思う。特別のことだと思う。唯一のことだと思う。妻を抱く。体の奥でうずく欲情を痛みのように感じ、抑え込む。妻の吐息が自分の胸元の木綿のシャツを温かく湿らせる。妻は目を閉じ、じっとしている。熱を交換する。
 妻は自分とBの動画を見て濡れるのだろうか、とふと思う。痛いほど充溢する。激する性欲に屈し、考えを中断する。妻の柔らかな体を感じる。隔てられている。この特有の隔絶に惹きつけられて苦しむ。理解は妥協だ。

(あらすじ~第八話)

https://note.com/toshimakei/n/n7d64b2dcbe55

https://note.com/toshimakei/n/n7ea8f7150a65

https://note.com/toshimakei/n/n90d054e0f141

https://note.com/toshimakei/n/n53e680b6e0f7

https://note.com/toshimakei/n/n87cef77fc672


(第十話~)

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