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【恋愛小説】「発火点」第六話


第六話

 結婚を決めたとき、どうして彼女なのかと何人もに言われた。
 絶対うまくいかない、長続きしない、価値観が合わなすぎる、とときに冗談半分に、ときに警告のように、ときに怒りまぎれに言われた。
 妻は基一の会社に契約社員として雇われていた。しかし、従業員として、いや、社会人として彼女は全く無能だった。なぜ雇われたのか不思議だった。人事の手違いなんじゃないかと噂され、実際そうだったという話も聞いた。まず簡単な事務処理に驚くほど時間がかかった。電話応対を怖がっていたし、挨拶もろくにできなかった。社内の人間の名前すらまともに覚えようとしなかった。整っている範疇にはあったが微妙にどこか崩れかけているような個性的で独特な容姿は近寄りがたい雰囲気を助長し、職場になじめない要因ともなった。彼女の教育係はすぐにその職務を放棄し、その役は次々と社員の間を巡り、まるで不幸の手紙のように忌み嫌われた。基一は妻の最後の教育係になった。
 事の本質をまず教え、最低限の注意事項を伝えてから、あとはできるだけ彼女の思うような手段や方法で仕事をさせてみた。すると、これまでの無能さが嘘のように効率よく仕事を片付けていった。
「すごいね」
 そう褒めると、就業以来見せたことのない笑顔を見せた。とても魅力的な笑顔だった。
 以来、少しずつ仕事を覚え、社内でも少しずつ明るい表情を見せるようになっていった。ただ、それでも相変わらず鳴り響く受話器を取るのを怖がったし、挨拶はしなかったし、社内の人間の名は基一以外結局覚えることもなかった。
「もうさ、責任取ってお前が嫁にもらっちゃえよ」
 冗談交じりに誰かが言った言葉を、基一は自然に考えていた。
「おいおい、冗談だよ。そんなお情で人生棒に振っちゃだめだよ」
 冗談好きな同僚は慌てて冗談抜きの顔でそう窘めたが、決して情をかけていたわけではなかった。たしかに妻は基一を頼っていたが、基一にとっても妻は他人には絶対に踏み込ませない領域に気付けば自然に入っていた稀な存在だった。最近雰囲気変わったねと、周囲によく言われた。一緒にいるとしぶとく凝り固まっていた心のどこかが脱力していくように感じた。こだわるべきことをこだわりすぎてもそれは悪いことではないのだと思った。自分は自分で良い、と思った。そんなことを思わせる人物はいままでにいなかったのだ。妻と一緒に生活することは自分の人生の必須事項だと直感した。結婚に迷いはなかった。妻は契約更新されることなく会社を去った。
 自分の周囲が驚いたように、おそらく妻の周辺もまた「なぜあいつなんだ」という疑問を抱いていただろうと思う。妻は小さな劇団の女優だった。経営難からその劇団は解散し、それでやむなく妻は不慣れな会社勤めを始めたのだが、その後も劇団の仲間たちやアート系の専門学校時代の友人たちと変わらぬ密度で付き合いを続けていた。結婚前に彼らに紹介されたが、明らかに基一とは別世界の人間たちだと思った。彼らも同じように感じたのだろう。妙に遠慮がちなぎこちない空気に終始したその場で、無邪気にはしゃいでいたのは妻だけだった。
 それでも基一に迷いはなかった。
 周囲に何かを言われれば言われるほど、思いは固まった。

 その後もBとは頻繁に会った。
 罪悪感はなかった。
 東京に出張だと言って出かけて行ったり、定時で仕事を終え、ほぼ中間地点になる大宮のホテルで落ち合って夜遅くに帰ったりした。そんなときは残業で遅くなったと言い訳した。そうした嘘も後ろめたさを感じることはなかった。
 なぜだろう、と思う。
 Bが妻に似ているからだろうか。
 ただ、妻とは違いBの体は充分な潤いで満たし基一を全身で迎える。薄暗いホテルのベッドの上でBに跨り、基一はBを見下ろす。自分の体を求める女がいる。目を閉じ、快感に身をゆだねている。もっともっとと欲しがっている。卑しい。ぞくぞくするほどに卑しい顔をする。興奮した。Bは妻ではないのだ。Bに妻的要素を探してみる。もう一皮むけば、もっと暴露すれば、妻がそこに現れるのではないかと思った。しかし当然BはDではなく、ただBなのだ。一方で、もうひとりの自分がいる、という錯覚のようなものも基一にはあった。妻とBがいるように。それはまったく別人格で、だから許される、そんな錯覚だ。残虐な気持ちになる。さまざまな体位で攻める。徹底的に辱め、壊したいと思う。
 事の後、基一の下で見上げたBが小さな掌で基一の頬を撫でた。
 じっと基一の顔を見つめる。
「何考えてるの」
 恐ろしく妻に似た声。
 目をそらす。
「彼女のこと」
 Bは言った。頬を撫で、指先で唇を辿る。冷たい指だった。
 基一はBの手を掴む。
 そして離す。
 Bの上から降りる。
「……罪悪感?」
 Bが言い、首をかしげ基一の顔をのぞきこむ。
 憐れむようなその目に基一は首を振った。
「不思議とそれはないんだ」
 安堵したように、Bはふっと笑う。
「わたしも」
「どうしてかな」
「さぁ」
 Bはゆっくりと起き上がり、基一の背中に身を寄せた。
「愛してるのにね」
 そう囁く。
 基一はBを見る。Bは笑った。
「でしょ?」
 Bは基一の鼻の頭に人差し指を乗せ、そう言った。
 Bの言うとおりだった。しかしなぜかそんなふうに見透かされているように言われるのが不愉快だった。黙り込む。
「これはこれ、それはそれ、よ」
 Bは言った。そして、いたずらっぽくほほ笑む。
 まるめこまれたような気がする。そしてもうそんなに嫌な気はしなかった。身をゆだねればいいのだなとぼんやり思う。肩先をつかみ、口づける。目を閉じる。舌を絡ませる。
 猛々しく絡み合った後、飾り気のないホテルのデジタル時計で時刻を確認し、それぞれが短時間でシャワーを浴び、日付が変わる前に部屋を出る。

 Bが乗る電車の時間を待つ間、ロータリーに停めた基一の車の中でふたりは時間をつぶした。ハザードランプの点滅が狭い空間の時を刻む。前方に停まっているタクシーのハザードランプは基一の車と微妙にテンポが違っている。ずれは徐々に接近し、重なり始め、瞬間一致し、またずれていく。 
 ワンセグの深夜ニュースが日経平均株価を淡々と報せていた。
「不思議な夫婦よね」
 ばらけていく点滅から目をそらし、車窓から差し込む防犯灯の青白い光がBの頬の高い位置に小さく宿っているのを盗み見る。
「わたしは好きよ。彼女も、あなたも、そしてあなたたちふたりの組み合わせも」
 ニューヨークダウ、ロンドン市場がBの声と重なる。発車時刻まであと七分だ。間に合うのだろうか。新幹線ホームは案外遠い。だからね、とBは基一を改めて見つめ、言う。
「これはこれ、それはそれ、よ」
 わかる? と確認するように基一の目をじっと見た。
 わかっている。だから罪悪感など必要ないと言いたいのだろう。
「時間は大丈夫?」
 基一は言った。
 Bはにっこりとほほ笑んだ。
 急激な欲情を覚える。Bをめちゃくちゃにしたいと思う。そう思うことを理不尽に思う。Bは車を降りた。ドアの閉まる乾いた音を聞いて、基一は車を発進させる。バックミラーの片隅にBの後姿が小さく映り、消えていく。

 Bと会わない日はできるだけ早く帰るようにしていた。
 妻との時間を、バランスが崩れぬよう確保すべきだと思う。 
「大家さんが、この前お姉さんが来てたわねって言うんだよ」
 妻が言った。Bのことだ。
「そんなに似てるかな、わたしたち」
「どうかな」
 自然に返そうとしてぶっきらぼうな返事になった。
「似てるって言えば似てるんじゃないか」
 努めて穏やかに、言い直す。
 ふうん、と妻は頬杖をつく。Bの描いた地球はまだ黒板の中央に浮かんでいる。世界遺産のマークはしていない。
「なんであっちが姉なのよね。わたしのほうがしっかり者なのに」
「そう」
「え、違う?」
「どうだろ」
 少なくとも自分の職業を持ち生計を立てている分、Bの方が社会人としてはしっかりしているだろうと思う。
「彼女より若く見られたってことだよ」
「そうなのかな」
 妻はそう言って面白くなさそうに口を曲げる。
 基一はそんな子供じみた妻の表情に微笑む。うまく笑えているか、一瞬気になる。

 二階の黒板に地球はない。ただ漆黒だ。一階の地球が出現して以来、とくにこんな静かな夜には、虚空にも思えた。
 妻が基一のベッドにもぐりこんできた。
「ねぇ、キイチ」
「なに」
 腕の中で妻がささやき、基一が問う。
「ごめんね」
 こもって小さな声になる。何が? と驚いて重ねて問う。
「わたしを好き?」
 問いには答えず違う問いを投げかる。基一は一瞬黙り込む。
「何、急に」
 一瞬を取り返すようにすかさず言う。
 妻が基一の胸にすがる。
 髪に鼻先をもぐらせ息を吸う。ほとんど何も匂わない。妻が透明になっていくような気がする。そこにいることを確かめるように強く抱きしめる。同時に、無性にBに会いたくなる。
「わたしね」
 妻が語り始める。
「自分て空っぽだなって思うの。なんだか陳腐な言い方だけど」
 胸にかかる妻の吐息が木綿の寝着を温かく湿らせる。
「芝居するには便利なんだよ。空っぽだとどんな役も入れやすいから。舞台の上で他人になって笑ったり怒ったり泣いたり」
 基一の胸から離れ、枕の縁に両肘をついて顔を上げた妻は、そういえば、とふいに思い出したように言う。
「あの会社でもそうだったよ」
 妻はそしてふふふと含み笑いをした。
「仕事できないやつって思われてたでしょ。ほんとにできなかったんだけど。でも、だからそういう役でいこうって乗っかってたんだ。楽だったし、嫌味や意地悪言われてもおもしろかったし、キャラ立ちしやすかったしね。でも、基一はほかの人と違ってたね」
「違ってた?」
「うん」
 妻は基一の顎先あたりをじっと見つめ、口づけ、また胸元に顔を埋めた。
「わたしの顔ぜんぜん見てなかった」
「俺が?」
「そう」
「そうかな」
「そうだった。基一だけがそうだった。この人わたしの顔ぜんぜん見ないなって思った。そのかわり顔とかじゃない何かを見てるって思った。まっすぐに、何かを。だから、演じるとかできなくて、実はけっこうしんどかったんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。演じられないから」
「ふうん」
「でも、仕事覚え始めたら仕事って楽しいななんて思って、基一に褒められたらすごくうれしかったりして、演じないでいる感覚って考えてみたらそのときが生まれてはじめてだったかもしれない。なんていうのかな、自分の輪郭で生きてる感じ」
 基一の胸元に顔を埋めた妻は両腕を基一の背中に回し、ぎゅっと力を込めた。
「だからね」
 妻が言う。顔を上げ、基一を見る。
「この男をつかまえとかなきゃって思ったんだ」
 笑った。
「そっか」
「そう」
 でも、と妻は続ける。
「輪郭だけ。やっぱり空っぽ」
「そうかな……」
 妻は妻としての要素をその内面に満たしている、と思う。それを伝えようとして、しかし基一にはうまく言葉にできなかった。妻は黙り込む基一をまるで慰めるように、そして自分に言い聞かせるように言った。
「キイチに象ってもらえればそれでいいの」
 妻は枕に頭を落とし、基一の背中に両腕を回す。「キイチ見ているだけで満たされる」そうささやく。次の瞬間眠りに就いている。

(あらすじ~第五話)

https://note.com/toshimakei/n/n7d64b2dcbe55

https://note.com/toshimakei/n/n7ea8f7150a65

https://note.com/toshimakei/n/n90d054e0f141

https://note.com/toshimakei/n/n418f7c75246c


(第七話~)

https://note.com/toshimakei/n/n71030727e715

https://note.com/toshimakei/n/n1a29c72e8619

https://note.com/toshimakei/n/nc897f373ad38

https://note.com/toshimakei/n/n4d32010db683







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