見出し画像

【恋愛小説】「発火点」第十話


第十話

 林田夫人との友人関係がこじれたわけではないようで、それから妻は予定通り陶芸教室に通い始めた。木曜の午後二時から四時までだったから基一が仕事に行っている間だったが、帰ってくると土の成形や色付けの楽しさなどをはしゃいで話して聞かせ、楽しく通っていることを知る。ロックを聴かなくなった。かわりに中世のバロック音楽やピアノ独奏を流す。
「土をいじってると世界を作っているような気がする」
 妻は言った。
「大げさだね」
「基一もやってみればわかるよ。神様が七日で世界を作って、最後に男と女を作ったんでしょう。そんな感じ」
「どんな感じだよ」
「モノ派って知ってる?」
 話題が突然変わる。
「地面に穴を掘ってね、その穴と同じ形に土の柱を作るの。円柱の柱。それをずっと続けてくと地球が裏返せるっていう実験芸術」
「なんだそれ? 陶芸と関係あるの?」
「それは知らない。でも、先生はもともとモノ派にあこがれて芸大入ったんだって」
「ふうん」
「シュールだよね位相大地」
「イソウダイイチ?」
「見たかったな。もうないんだって」
 もう話についていけなかった。ついていく気もなかった。
 ただ、やっぱり妻は痩せたと思う。輪郭がきりっとしてきた。興味のあることを見つけ、楽しそうにしているから余計なのかもしれないが、その目にはいきいきとした輝きを宿している。端的に、綺麗になったと思う。基一はテレビをつけなくなった。妻のかけるバロック音楽を聴く。荘厳なパイプオルガンの音色が妻との間を流れていく。
 山の紅葉が頂きまで到達すると、朝日を受けた西の山は、燃え立つように秋の空に映えた。斜面の田は機械で刈り取られた稲が束ねられて並び、寒々しく広がっていた。田を突き抜ける国道までの坂道を、紅葉の山に追い立てられるように、朝七時前、基一は車で走り降りる。木曜日だ。仕事へと出かけなければならない。朝の弱い妻はまだ寝ている。午後には陶芸教室に出かけるだろう。

 定時に帰れば家には明かりが点っているはずだった。
 しかし窓は暗かった。
 灯油を買ってきてと頼まれていて忘れていたことを思い出す。昨日石油ストーブを出したのだ。基一が買い忘れることを見越して妻が買に出かけたのだろうか。まさか。車は一台しかない。歩いてなどいけるはずもない。
 場所は調べてあった。過疎化対策で町が若い芸術家を誘致した一角の、そのなかにある。車で十分もかからない。
 敷地は広い。
 作業小屋らしき建物に明かりが点っていた。
 この地域によくある養蚕農家を改修した民家が中央に構え、大小ひとつずつの小屋と窯らしきものと焼却炉などが点在している。四輪駆動のアメリカ車が一台、無造作に停められている。
 明かりの中に人影が横切った。路上に停めた車の中からではそれ以上のものは見えない。
 町はずれの田舎道は街灯さえなく、車どおりもほとんどない。作業小屋から死角になるところまで車をゆっくりと進め、基一は車を降りた。篠竹の生け垣に沿って歩く。敷地の外から可能な限り至近まで行く。換気のためだろうか、木枠のガラス窓は大きく開け放たれていた。
 背の高い男だった。
 外気と変わらぬ温度のはずだが、白いシャツを腕まくりしばさばさと立ち働いている。伸ばした髪を無造作に後ろでひとつに縛り、乱れ落ちた前髪が頬まで隠している。鋭角のラインを成す顎には無精ひげが生えていた。
 ふいに顔を上げた。基一はとっさに目を伏せる。男は基一を見たわけではなく作業場内の近くの何かに目をやっただけだった。基一はまたそっと観察する。静かに近づく。
 男は作業場のガラス戸を出た。トタン屋根の下に積みあがった薪の束を抱え、地面に投げる。窯があった。ワンボックスカーくらいの大きさのレンガ造りの窯で、正面に鋼鉄の扉がついている。脇に小さな穴が開いていて赤い光が見えた。柱につけられたタイマーのようなデバイスを操作する。デジタルの数字が表示されているのが遠目でもわかった。おそらく窯の中の温度管理をしているのだろう。男は投げた薪を窯の中に一本ずつ差し込んだ。火花が飛ぶ。顔をしかめ、また薪を差す。薪に燃え移った炎がバケモノの舌のように穴から差し出てくる。男は手を額にかざす。視線は炎から離さない。じっと見つめている。地面に視線を移す。薪がないのを確認したのか、また作業場脇の軒下へ戻った。
 ふと男は気配を感じ取ったのかもしれない。
「誰」
 と低く、太い、よく通る声で言った。あきらかにひとりごとではない、離れたところにいる人間に話しかける声だった。
 男が顔をまっすぐこちらに向ける。
 基一が見えるのかは定かではない。
 ただ、鋭い眼光を挿した視線を投げつけてくる。瞬間的に生垣に身を隠した。そのまま後ずさり、駐車している車に駆け込んだ。

 家に戻ると妻はいた。火のついた石油ストーブの匂いがした。
「灯油買ってきた?」
 帰るなり妻は言う。
「ごめん」
「だと思った。夕方、がまんできなくて林田さんちから少し灯油わけてもらったんだよ」
 妻は嬉しそうに石油ストーブを指す。明るい炎が点っている。粘度の高い熱い液体が腹の奥からせりあがる。

 東京への出張の予定が入った。放熱性の高い新素材の完成のめどがたち、それを使った新しいプロジェクトを立ち上げるための会議に呼ばれたのだった。
「一緒に行く?」
 基一が言うと、ほんと? と嬉しそうな顔を見せた妻は「でも行かない」と言った。
「ここで待ってる」
 妻がそう言う限りそれ以上は無理強いできなかった。
 陶芸教室やめようかな、とそして妻が言った。
「どうして?」
「めんどくさい」
 手にしたビールの缶をまるで乾杯のように掲げ、言う。ピアノの独奏がふたりの間をゆっくりと流れていく。
 あんなに楽しんでいたのに、と口にしかけて、つまらなくなったのではなく、めんどうになったという言葉にかすかなひっかかりを感じる。基一は黙り込む。
「モデルになって欲しいって言われた」
 沈黙に応えるように妻が言った。
「そういう平凡な発想しかできないからだめなんだよね、あの人」
 あきれたように肩を竦める。
「あの人って」
「陶芸家」
 胸がざわつく。
「たとえば林田さんとか脱がせてみたいとか思わないかな」
 ねぇ、と基一を見つめ、同意を求める。基一は黙ったまま妻の視線を受け止める。ただその顔を見る。
 ビールに濡れた妻の唇が艶めいている。
 細い親指がそれを拭う。
「何か、あったの?」
「何かって?」
「したの?」
 気が付けば口にしていた。いや、知りたいのは「したのか」ではなく「できたのか」だった。がすぐに、まるで妻が林田夫人とのことを疑ったようにまるでばかばかしい妄想にすぎないのではないかと思い、気恥ずかしくなる。基一が笑って取り消そうとする前に妻はあっさりと答えた。
「したよ」
 フェアじゃない、と基一は思った。
 簡単すぎる。
「好きなの?」
「嫌いだよ」
 妻は基一をまっすぐに見つめ、言う。
「自意識過剰で浅ましくて、言ったでしょう、表現しようとする人間はどこか欠けてるって。だから嫌い。わたしが好きなのはキイチだよ。実際的で、強くて、完結してる」
 ずるいと思う。
 俺は実際的でも強くも完結してもいない。
 それに、その男のことをこんなに簡単にこの場に共有させてしまうのは嫌だ。
「嘘だろ」
「嘘だよ」
「どっちだよ」
「嘘に決まってるでしょ。基一がそう言ったから乗っかったの」
「なんだよそれ」
「だって想像したんでしょ、わたしがあの人としてるかもって」
「……」
「だったらしてもしてなくても一緒だよ」
「一緒じゃないよ。全然違う」
 基一をじっと見つめたまま妻は缶ビールをテーブルに置く。こつん、と乾いた音がたつ。
 もうやめてほしい。
 その男のことを妻の口から聞きたくない。
「やめるんだね?」
「わかんない」
「やめるって言ったじゃないか」
 弱弱しく基一は問う。
「まだ決めてない」
「会ってほしくない正直」
「どうして」
「当たり前だよ」
「当たり前なの?」
「そうだよ」
「そうかな」
「嫌だからだよ」
「会いたくなったら会うかも」
「会いたくなるの?」
「なるかも」
「どうして? 嫌いなんだろう?」
「嫌いだから会いに行きたくなることもあるよ」
「なんだよそれ」
「わかんない?」
「わからない。わかりたくもない」
 めんどうだ、と思う。
「めんどくさいな」
 口に出して言った。
「そう」
 堅い口調で妻は言った。そして、一息に残りのビールを飲み干した。基一は黙って立ち上がり、ひとり二階へ上がった。

(あらすじ~第九話)

https://note.com/toshimakei/n/n7d64b2dcbe55

https://note.com/toshimakei/n/n7ea8f7150a65

https://note.com/toshimakei/n/n90d054e0f141

https://note.com/toshimakei/n/n53e680b6e0f7

https://note.com/toshimakei/n/n87cef77fc672

https://note.com/toshimakei/n/n418f7c75246c

https://note.com/toshimakei/n/n71030727e715


(第十一話~)

(投稿後リンクを貼り付けます。)



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?