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【恋愛小説】「発火点」第五話


第五話

 それからしばらく残業が続き、帰宅が深夜になることが多くなった。帰ると、音楽をかけながらソファで妻が転寝している。またはネットフリックスで映画を見ている、または映画をかけながら眠っている。基一は妻に毛布を掛け、音量を下げ地上波テレビに切り替える。作り置きの夕食を一人で食べ、風呂に入って、妻を連れて二階へ行き、並んで眠った。朝は妻がまだ寝ているうちに出かける。帰ってくるとまた妻は眠っているか寝ぼけていて、ほとんど会話らしい会話をかわさずにいた。
 ある日、帰ると、リビングに赤い寝袋が転がっていた。人間らしいふくらみがある。ゆっくりとしたリズムでかすかな衣擦れの音がした。かたちからしておそらく横向きになったその人物は熟睡しているのだろうと推察された。妻はいつものようにソファで転寝している。つまり妻ではない。映画が流れたままになっている。止める。音量を絞り地上波を流す。洗い片づけられた夕食の食器はふたり分あり、缶ビールの空き缶はいつもの二倍の本数が流しに転がっていた。基一は昨日までと同じように妻に毛布を掛け、夕食を食べ、風呂に入り、寝袋で眠っている人物はそのままにして、妻を二階に連れて行った。「誰?」と訊いたが、妻は寝ぼけていてうんうんとうなずくばかりだった。「友達?」と訊いても、ただうんうんとうなずきすぐに寝入ってしまった。朝も妻はぐっすりと眠っていた。階下に降りると寝袋も夜とほぼ同じ状態にそこにあった。そっと覗き込む。芋虫のように丸まったその姿勢ではこめかみから目じりの端とそこに乱れ被る髪の毛の先が見えるだけだったが、女だった。見覚えがあるような気がしなくもない。基一はひとり朝食をとり、七時前に家を出た。
 帰ると、黒板に地球があった。
 寝袋も昨夜とそして朝と同じようにそこにあり、人間らしい膨らみと熟睡している人の呼吸のリズムで表面がゆっくりと上下しているのも同じだった。
 そして、黒板に大きな地球が描かれているのだった。
 白墨の濃淡だけで大陸が描かれ、大洋は黒板の地の緑がかった黒色をそのまま使っている。リアルな地球だ。逆三角のインド亜大陸がほぼ中央に位置しており、ユーラシア大陸とのつなぎ目にあるヒマラヤ山脈らしきラインが強い筆圧で引いてある。そこから上方へ白墨で平たく塗られたチベット高原が広がり、球体の丸みに大陸の北は飲み込まれている。大陸の右にはちゃんと日本列島も描かれていたし、フィリピン諸島からインドネシア、そしてインド洋を挟みマダガスカル島まで描かれている。基一はいつものように東側の席に作り置きの夕食を並べ、座った。直径一五〇センチ程の地球を眺めながらカキフライをかじる。潮の匂いが口の中に広がる。背景は漆黒だ。何も描かれていない、言ってみれば、地球が描かれる前からずっと基一の前にあったそのただの黒板の表面だった。それは今宇宙空間としてある。大気はない、熱でも光でも音でも、空気に邪魔されず波のままダイレクトに伝わっていく宇宙だ。空気のような愚鈍な媒体の抵抗は存在しない。計算値と実際に余計な邪魔が入らないのだ。いや、宇宙には宇宙の、人類にはまだ発見されない物理法則があるのかもしれない。だとしても地球上ほど雑多な要素はきっとないのだ。もっとずっと美しく、正確で、合理的なのだ。そんな理想空間での熱設計を基一は夢想してみる。
 さわりとナイロン製のこすれる音がした。寝袋は相変わらず転がっている。
 
 いくつかの妥協点がすこぶる合理的に決定し熱設計はうまくいった。基一は連日の残業から解放された。
「見事な地球ですね」
「いちおうプロですから」
 妻の友人は言った。彼女が描いたのだ。
 早めに帰宅したその日、妻と妻の友人と三人で地球を前に食事をした。赤い寝袋の中身は雲Bだった。
 缶ビールを数本空け、妻とBはよく笑っていた。アルコールは入っていないが、仕事がひと段落した解放感もあって、基一は妻と妻の友人との女二人のお喋りの聞き役をいつになくリラックスして楽しんだ。
「寝袋持参で家出する女なのよ、このひと」
 妻はBをそう紹介する。
「いちおうたしなみとしてね」
 Bは言う。
「へんなやつでしょ」
「あんたに言われたくない」
 Bは妻によく似ている。雲の中にあってもっとも妻と同化している人物だ。どちらがどちらを言っているのかわからなくなる。骨格が似ているせいか、声も、笑う感じも似ているのだ。妻とBは地球の前に並んで座っていた。プロですからと言ったBはイラストレーターだという。
「せっかく黒板があるのに何も描いてないのもったいないじゃないですか」
「そう言われてみればそうですね。思いつかなかったな」
 そう言った基一を面白そうに眺めながらBが傾けた缶からは数滴のビールしか落ちなかった。基一は冷蔵庫に新しいビールを取りに立ち上がる。
「スミマセン、旦那さん」
「いえ」
 冷えたビールの缶を「どうぞ」とテーブルに置く。
「ありがとう。ね、あんたの旦那さんやさしすぎ。妬けるわ」
「ざまあみろ」と妻は言う。
「むかつく」とB。
「あげないよ」
 そう言う妻に、ふうん、と鼻を鳴らしBはグラスに移したビールを飲み干す。
 テーブルを占拠する空いた皿をキッチンの流しに運び片づけると、妻はソファにどっかりと座り込んだ。クッションを抱きしめ、ひざを折り、寝転ぶ。なにかごちゃごちゃとBに向かって言っているうちに寝息を立て始めた。
「嘘みたいに寝つきがいいのね」
 あきれたようにBが言う。
 こうやっていつも基一が遅い時、ひとりでソファで転寝しているのだ。
 毛布を出し、妻に掛ける。いらない、とまだかすかに意識のある妻がそれをはぐ。まだ飲むんだから、とつぶやきながらしかし寝入ってしまう。
 Bと取り残された基一は手持無沙汰になり、妻の肩をゆすってみる。妻はうるさそうにそれを払う。
「いいですよ、寝かせておけば」
 Bが言った。
 ええ、でも、と口ごもっているとおもむろに妻が起き上がった。
「やっぱ寝る。二階で寝る」
 もつれた口でそう言うと毛布を引きずって階段を上がっていった。
 基一は後を追う。
 妻は自分のベッドに崩れるように倒れこみ、今度は本当に眠り込んでしまった。
 ふと思いつき、眠る妻を自分のベッドに移し、妻のベッドを空けた。
「今夜は二階の妻のベッドに寝てください」
 階下に降りて、Bに言った。
「ぜんぜん平気ですよ、寝袋で。慣れてるから」
「そんなわけにはいなかいですよ」
「大丈夫」
 らちが明かない言い合いになりそうで基一は黙る。少し気まずい空気になる。
「旦那さんはほんとにぜんぜん飲めないの」
 Bが話題を変えた。
 少しほっとして、「ぜんぜんという言うわけではないけど」と答えながら東側の椅子に座る。向かいに地球がある、そして雲Bがいる。漆黒の宇宙空間にBが縁どられている。やっぱり妻に似ている。長い髪も同じだし、妻は眉毛の数センチ上で不揃いに切り落とした前髪で隠してはいるがBはむきだしの、丸く広い額の形も同じだ。Bのほうがやや目が大きく、妻の方がやや口が大きい。ふたりとも鼻は小ぶりで、色白で、手が小さい。
「ぜんぜんと言うわけではないけど?」
 基一の言葉を繰り返して、Bは訊きなおす。
 とくに続きの言葉があるわけではなかったので、黙り込む。また少しぎこちない空気になる。どのタイミングでこの場を引き上げようかと思案していると、Bが立ち上がった。冷蔵庫からワインを取りだした。食器棚からグラスを出して、基一の前に置く。もうすっかりこの家のいろんな配置を覚えてしまっているのだ。
「少しは飲めるということだよね」
 基一が考えていなかった続きの言葉をBが断定形で付け足した。グラスにワインを注ぐ。流したての血液のように濁りのない赤い液体が満たされていく。気まずさはまだ微妙に続いていて、基一はグラスに手を添えながら、なんとなくまた地球を見る。
「本当に上手いですね」
「ありがと」
 Bは振り返り、自分の描いた地球を仰ぎ見る。
「そんなに褒められるならここにサインでも入れようかな」と地球の右下あたりを指さす。
「それはいいです」
 基一はすかさず言う。ただ地球だけがあればいいと思う。知る限りの世界遺産をマーキングしてみようかと考える。マグネットかピンを買って来ようか。
「やっぱ、面白い人」とBは笑う。
 自分の言った言葉が失礼だったことに気付く。いいけど、と言ってBは西側の椅子から東側の基一の隣の椅子に移ってきた。そして、改めて真正面から地球を見つめる。そして自分でもその出来栄えに満足するようにうんうんとうなずいた。
「飲まないんですか」
 Bが手の付けられていない基一のグラスを見て、言う。
「いや。いただきます」
 一口飲む。葡萄の渋みが口の中に広がる。思わず顔をしかめる。横からの視線を感じる。
「やっぱり苦手なんだ」
 Bが面白そうに言う。
「いや」
 なぜか強がる。
「面白い人」
「面白くなんかないですよ、俺は」
「俺とか言うんだ。意外」
 Bが言う。
「そうかな」
「僕、ってイメージ」
「そうかな」
「そうだよ」
 Bが横を向き、基一を見た。
 視線が絡んだ。
 沈黙が続いた。
 顔をそむける。横からの視線を感じる。
 そこで立ち上がるべきだったのだろう。
 唇に柔らかな感触を覚えた。吐息がかかる。戸惑って思わず少し口を開けてしまう。その熱を受け取る。からだをそらそうとすると、Bの掌が頬を抑える。ビール味の舌が入り込み、絡んできた。基一の頬を抑えたBの手は首筋からさらに指を差し入れ、うなじを掻き上げた。もどかしいように乱暴にシャツをはだけさせる。
 力づくで振り払えば振り払えないことはなかっただろう。しかししなかった。できなかった。ダイニングの椅子に座ったままBを抱き寄せひざに乗せた。明かりも消さず、窮屈な椅子の上で、基一はBを抱いた。自分のために開かれた女の体がそこにあるというだけで興奮していた。たとえほんの数歩先のソファへの移動でも殺がれてしまうかもしれない衝動を惜しく思った。Bの長い髪が基一の肩に覆い被る。激しく揺れる髪の間から恍惚とするBの顔が見え隠れした。ふたりほぼ同時に果てた。「すごい」とBが囁いた。
 翌日、ふたりの女が寝ている間に仕事に出かけた。帰ってきたらBはいなかった。地球が残されていた。

(あらすじ~第四話)

https://note.com/toshimakei/n/n7d64b2dcbe55

https://note.com/toshimakei/n/n7ea8f7150a65


(第六話~)

https://note.com/toshimakei/n/n71030727e715

https://note.com/toshimakei/n/n1a29c72e8619

https://note.com/toshimakei/n/nc897f373ad38

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