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【恋愛小説】「発火点」最終話(第十二話)


最終話(第十二話)

 あの男は決して雲の群れにはなじまないだろうと思う。
 ひとりで立ち、ひとりで進み、あるいはひとりで停滞することのできる芯を持っている。立ち姿を見ればわかる。背が高く、整った顔立ちは、まるで俳優のようだった。無造作に束ねた長い髪のその乱れ落ちたかたちさえもスタイリストに演出されたかのようにできすぎている。
 陶芸家が作業台からひとつの陶器を手にとり、妻に向かって何かを言う。
 妻は別の何かを見ていて、振り返りもしない。聞こえないふりをしているのか、聞こえていないのか、無表情の横顔をただ曝している。
 陶芸家は肩を竦め、苦笑する。手にした陶器を台に置く。まくり上げた白いシャツから日に焼けた腕が伸びている。数歩足を進め、妻に近づく。妻が振り返る。陶芸家を見る。挑戦するように、強い視線でじっと見る。
 親密さなどまるでなかった。
 あるのは得体のしれない緊張感だ。
〈撮って〉と紙片には書かれていた。
 手にしたカメラを構え、ディスプレイを見る。
 いま、基一は、妻という人間が自分とは全く別の磁場にいるのだと思い知る。猛列に嫉妬していた。あの男は妻と同じ磁場にいる。俺は撮影などしない。絶対に撮らない、と基一は思う。ディスプレイを閉じる。直接に見る。同じ空間に、同じ現実に自分もたしかにいるのだと言い聞かせる。妻が陶芸家に背を向け、窓の外に視線を向ける。目が合う。
 微笑んだ。
 そこに行くよ。
 いますぐにそこに行く。妻を抱くべきなのは自分だ。妻はまっすぐに基一を見ている。笑みを浮かべている。乱雑に生えそろう篠竹がうっとうしい。距離にいら立つ。陶芸家が遠慮がちに妻の肩に手を置く。妻は動かない。ただ、基一を見る。口元が小さく動いた。
 撮って。
 基一は首を横に振る。カメラを下す。基一は小屋から目を離さず生垣に沿って歩いた。入り込める隙間を探す。陶芸家が背後から妻を抱き寄せた。陶芸家の腕の中で妻は基一を見つめ微笑んだ。撮って。もう一度口元が動く。
 妻の胸元がはだけた。青い血管の浮く、白い乳房があらわになる。男の浅黒く長い指が妻の肌を這った。妻は恍惚と目を閉じる。妻は濡れているのだろうか。いや、乾いた裂け目は強固に貼りついているはずだ。決して入り込めない。入れるのは自分だけだ。妻が潤んだ目でこちらを見つめる。恍惚と微笑む。
 湿った煙の匂いが鼻を衝く。
 ばちばちと木材が跳ねる音が鳴る。
 忍び寄る煙が妻と男をまいていく。男の手がスカートの裾から這い上がる。太ももが開かれていく。もし無理やりこじ開けたら妻の中の真空がバックドラフトを起こしてしまう。赤い炎が立ち上がった。朱色や紅色がふくよかに渦巻き、黒い煤を吐いた。生き物のように奔放にうねり、広がり、細まる。酸素を消費し尽くそうとしているのだ。その運動は大気のある地上において恐ろしく美しく、恐ろしく正しい。燻される匂いが鼻を衝き続ける。
 炎が隔てる。
 近づけない。
 カメラを構える。
 そうするしかないと必死に撮る。
 炎の中の妻を、ああ、あんなところにいたら燃えてしまう、と思った。波のように炎が押し寄せる。濡れた妻は燃えないかもしれない、とばかげたことを本気で思う。男の手はなぜ俺の手ではないだろう。男の唇はなぜ俺の唇ではないのだろう。妻の熱を感じる肌はなぜ俺の肌ではないのだろう。なぜ俺はいつまでも届かないのだろう。撮る。妻がそう望んでいる。近づきすぎたら撮ることができない。
 気が付くと、妻が驚愕の表情を浮かべ、身動きもせず立ち尽くしていた。大きな麻袋のようなもので陶芸家が炎を抑え込もうとしていた。至近の火は消えたが、別のところでまた立ち上がる。陶芸家が、妻をかばうように抱く。
 炎がまたたちあがる。
 男は妻を抱え、肘で窓ガラスを割り、必死にそこから脱出しようとしていた。助けるべきだと、わかっていた。が、動けなかった。ただ、見ていた。

 火はしばらくして消し止められた。
 作業小屋は全焼したが、陶芸家は軽傷で済んだ。妻は煙を吸い込み喉を焼かれ二週間程度入院することになった。
 不審火だった。現場近くにいた基一が疑いをかけられた。たまたま出張で早く帰宅し、たまたま妻の通う陶芸教室の近くにいた、というその状況に、基一の置かれた立場はかなり危ういものだった。しかし、結局はうやむやになった。陶芸家が、出張から早く帰る夫が迎えに来る予定があったと妻が言っていたことと、出火原因は自分の焼却炉の不始末だったということを証言したのだ。
 陶芸家は、無言で基一に深々と頭を下げた。その手にまいた真白い包帯だけを見つめながら、基一は同じように頭を下げた。よこしまなのは悪いことではない。純粋すぎるほうが横柄だ。入院している妻への見舞いを辞退した。

 妻は眠っていた。
 喉には、陶芸家の手と同じく真白な包帯が巻かれている。
 化粧気もなく青白い顔をしている。長い髪は焼け焦げてしまい、病院で短く切られた。まるで廃棄されたマネキン人形のようだった。だが、間違いなく妻だ。
 そっとまぶたが開く。
 さぐるように瞳が動く。
 基一を見つける。
 じっと、基一を見つめる。
 基一はその目を見つめ返す。
 漆黒に思えた瞳は、見続けていると反射する窓からの光と瞳孔とが浮き上がり、まるで未知の惑星のように見えてくる。そこには基一が映っている。妻が基一に手を伸ばす。
「帰ろう」
 その手を握り、言った。
 妻は小さくうなずいた。

〈了〉

(あらすじ~第十一話)

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