見出し画像

自信について

信について考察してきましたが、

どのような対象を信ずることから始めるか?

という課題がありました。

何を信ずることから始めましょうか?

目の前の家族や友人や職場の人々や先生や恋人でしょうか?

世間一般の人々でしょうか?

ある組織や思想や信条でしょうか?

それとも、特定のカリスマ的な人物でしょうか?

これまでの記事で書いてきましたように、

現象としてのそれらは諸行無常であるバーチャルな映像にしかすぎませんが、それらの本質は大宇宙のフォース(宗教的に言えば大宇宙を創造された神仏)と量子もつれによりリンクした永遠不滅の異次元的な光の波動エネルギーです。

ですから、そうした対象について、現象を信ずるのではなく、存在の根本において光であり真善美そのものであることを信ずることが重要です。

しかし、この信から始めようとしてもなかなかうまくいきません。。。


なぜか?

一番身近な存在を信じることができていないからです。

一番身近な存在とは何か?

それは、もうお分かりでしょうが、

自分です。自分自身です。自分という存在です。

よく言われることでありますが、

やはり、

自分を信ずることができない人は、他人を信ずることもできない。

のでしょう。

なぜか?

それは、

信ずるに足る者が信じてこそ信ずるに足りるものになる。

ということだからでしょう。

自分を信じていない者は、

信ずるに足りない自分が自分以外のある対象を信じてもそれは信ずるに足らないもとなる。

というロジックに陥るからです。

自分が、現象としての自分が、どんなに愚かに見えても、罪深く思えても、みじめであっても、何の取り柄もなくても、失敗や否定されることばかりであっても、無視されればかりであっても、死にたいほど追い詰められた状況にあっても、

自分を、現象ではなく、その存在の本質を、その根本を、

光として、真善美として、無限によきものであり、無限に豊かであり、無限に力があり、無限に能力があり、無限に優しい愛があり、無限に平静で穏やかであり、無限に勇気があり、無限に希望があり、無限に向上していくものとして、

信じること、

許すこと、

肯定すること、

受容すること、

そこから、

ありとあらゆるものに対する信は、

はじまる。

さわやかな秋の晴天の公園を訪れ、

些細な他人の言動や様子に動揺し、勝手に被害妄想的な疑念や不信感や苛立ちを抱き、心を激しく波立たせてしまう自分を反省し、

結局、自分に自信がないから、そのようにになるんだな。

と思い至り、この記事を書きました。

みなさんの何らかの参考になれば幸いです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?