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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#十字架

伝えたいこと

伝えたいこと

使徒2:14-24 
 
聖霊が降った。その後のことです。これは酔っ払いに違いない、と集まってきた人々が言ったため、それにペトロがすぐさま反応しました。「声を張り上げ、話し始めた」のでした。ペトロ自身「聖霊」に満たされ、「霊が語らせるままに、他国の詞で話しだした」うちの一人であったため、いわばしらふに急に戻ったような情況のように見えます。
 
ヨエル書を引用して、こんなにも落ち着いて理路整然と話せ

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罪の闇の中での叫び

罪の闇の中での叫び

マルコ15:33-41 
 
イエスが十字架に架けられた時刻は、明確には分かりません。ただ、昼の12時よりは前であったと思われます。12時になり、全地が暗くなりました。そのまま3時にまでなったといいます。ということは、イエスの苦痛が、少なくとも3時間以上続いていたことになります。この重みを、私たちは少しでも考えなければなりません。
 
十字架の形状は不明ですが、自らの体重が内臓を蝕むともいいます。

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イエスの誕生と死がセットになっている

イエスの誕生と死がセットになっている

ルカ2:1-14 
 
クリスマスといえば、ルカ伝のこの箇所を開かねば始まりません。ルカ自身、ここまで用いられるとは思っていなかったのではないでしょうか。皇帝と住民登録のことなど、必ずしも正確に記したとは言えず、研究者に後世突かれることになりました。果たして身重の女をかくも困難な旅へと強要する権力とは何だったのか、現代人には理解し難いものです。
 
マタイほど、旧約の預言を表に出すこともなく、それ

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十字架を負い主に従う者

十字架を負い主に従う者

ルカ23:26-31 
 
キレネ人シモンは、十字架を背負わされました。すごいことです。自分の十字架を負って主に従え、という言葉が頭に浮かびますが、自分の十字架どころか、イエスのための十字架を負ったのです。それは無理強いのようであったとしても、またイエスに付いて行かされたのであるにしても、人類唯一の経験をすることになったのです。
 
このシモンの名は、教会に語り伝えられていたのです。教会の有力なメ

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イエスの最期

イエスの最期

ヨハネ19:16-30 
 
受難日という教会暦の日に読むとなると、いっそう辛いものがあります。私がイエスをここまで追い込んだのだ、という意識の塊が、私を苦しめます。INRI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の文字が、精一杯の信仰告白となるでしょう。それはピラトが記させたものですが、そのまま私たちのところへ届けられたということになるのです。
 
ユダヤ人の指導者たちは、そんな称号を掲げるなと抗議しま

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死と復活の予告のリアル

死と復活の予告のリアル

マルコ10:32-34 
 
8章、9章と、イエスは自身の死と復活について語った、ということをマルコは記してきました。殺されて復活するというこれまでの二度の予告から、三度目は引き渡されるという方にシフトしているようにも見えますが、殺されるというよりも、異邦人が殺すという言い方にもなり、表現がかなり具体的になってきているように思われます。
 
イエスはこのとき、わざわざ12人を呼び寄せて話をしていま

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私たちがもたらす平和

私たちがもたらす平和

マタイ10:34-42 
 
派遣する弟子たちへのアドバイスは、後の世代の私たちすべてへのアドバイスとなります。平和を必ずしももたらすためではなく、しかしそのような私たちを受け容れる者、即ち私たちと平和を共に築く者については、十分な祝福があるのだ、ということをイエスは告げました。できるなら、私たちのすべての営みが平和に繋がるものでありたいと願います。
 
私たちはキリストの名を与えられています。キ

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炉の中の四人の縄目

炉の中の四人の縄目

ダニエル3:19-25 
 
この場面に至るまでに、金の像を巡る経緯がありました。バビロンで取り立てられた、王侯貴族の若者4人の内、ダニエルを除く3人が、金の像を拝まなかったということで、引き出されたのです。ダニエルが訴えられなかったのは、王宮にいて、別行動をとっていたせいであるかもしれません。3人は、行政官という立場だったとされています。
 
ダニエルは、かつてこの王の思い悩む夢を解いたことがあ

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いけにえの小羊はどこですか

いけにえの小羊はどこですか

創世記22:1-12 
 
なんとも暗い場面です。いや、信仰の勝利だから明るいだろう、という人がいるかもしれませんが、安全な外から眺める他人が、平気でよかったね、などと言うべきではないと考えます。当事者は命懸けなのです。アブラハムの心の中には、なぜ、という問いがなかったのでしょうか。やっと神の約束により与えられた後継ぎを殺せ、などと命じられて。
 
一人息子のイサクにしても、一方的に神の方から、与

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恵みと真理

恵みと真理

ヨハネ1:14-18 
 
恵みと真理について、ヨハネによる福音書はここで初めて言及します。ここまでは、言と光、そして神の子とされる側と世との対比がありました。名を信じる者には、恵みが与えられます。恵みの上にさらに恵みが、キリストを通して与えられるともいいます。キリストを通して、そこに大きな比重を置きたいと思います。
 
天からのすべての光は、十字架という窓を通って届く、ともいいますが、どんな知恵

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一人ひとりが映し出される光景

一人ひとりが映し出される光景

マタイ27:32-56 
 
初めの兵士が、少し長い時間映し出された後、画面は目まぐるしく、いろいろな人の姿を見せます。罪状書きを挟んで、二人の強盗がいます。この二人については、すべての福音書が触れています。ルカはそのうち一人のほうを、パラダイスに連れて行くよう描きましたが、他の福音書記者はそのようには書いていないので、本当はさあどうでしょうか。
 
通りかかった人々は、イエスに向かって、自分を救

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メシアがみどりごである件

メシアがみどりごである件

イザヤ9:1-6 
 
クリスマスによく開かれるイザヤ書の箇所の一つです。一人のみどりごが私たちのために生まれたというのは、まさしくイエスのことに他ならないのだ、と。もちろんイザヤがそう言っているわけではありません。ダビデの王座がこの永遠の父、平和の君の名の下に確立するというのは、壊れたイスラエルが再生するきっかけと考えられたのでした。
 
救い主としてのメシアの姿をイザヤが思い描いていたことは確

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イエスの弟子であるかどうか

イエスの弟子であるかどうか

ルカ14:25-33 
 
「弟子の条件」などという見出しがこのごろの聖書には付いていますが、時にはこうしたタイトルを疑うことも必要です。本当にそんなことを言っているのだろうか、と考えましょう。だってこの見出しは「聖書」ではありませんから。人間の編集者が、勝手に考えて付けた看板です。人の考えを鵜呑みにするのは、聖書の読み方ではありません。
 
この箇所の主題は、「私の弟子ではありえない」でありまし

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ダビデの祈りであること

ダビデの祈りであること

詩編22:1-6 
 
イエスの断末魔のような叫びと共に響いてきます。イエスが十字架の上でこの詩編の最初の部分を言ったという記録があまりにも有名です。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。これは余りにも弱気で絶望的で、こんな言葉を吐く者が神だというのはおかしい、と小馬鹿にする人がいます。確かにあまりにもただの人間です。
 
キリストは果たして絶望したのか。それともこの詩の末尾が告げるように

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