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罪の闇の中での叫び

マルコ15:33-41 
 
イエスが十字架に架けられた時刻は、明確には分かりません。ただ、昼の12時よりは前であったと思われます。12時になり、全地が暗くなりました。そのまま3時にまでなったといいます。ということは、イエスの苦痛が、少なくとも3時間以上続いていたことになります。この重みを、私たちは少しでも考えなければなりません。
 
十字架の形状は不明ですが、自らの体重が内臓を蝕むともいいます。手足の釘は恐らく確実ですから、その痛みだけでも凡そ耐えられないものだろうと思います。全地の暗さが、視覚的照度のことであれば、よく言われるように日蝕も考えられましょうが、必ずしもそう理解しなければならない決まりはないと思います。
 
人間の罪が、世界を覆っているのです。十字架によってようやく贖われる人間の罪が、時間をかけて闇の中で呑み込まれてゆきます。体力的に限界であったこの3時に、イエスは大声を出して息を引き取りました。詩編22編の冒頭の句を、マルコは「大声」だったと記録しています。だからこそ、それを聞いた者がいたのであり、こうして記録されたのです。
 
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」これをどう聞くかは、それを聞いた人次第ではないかと思います。絶望を受け取っても構いません。そうでないと茶番だ、と考える人がいます。それほどに人間の罪は大きいのだと知るべきだ、という人もいます。キリストと共に十字架に架かった信仰により、旧い自分の死を見てもよいでしょう。
 
また、これらの幾つかが混じったような受け止め方をしていてもよいでしょう。エリヤを呼んでいる、と慌てた人は、「エロイ、エロイ」が「エリヤ」のことかと勘違いした、と思われます。それもまた、聖書からの言葉のひとつの受け方です。イエスの肉体が生を失ったのは、見ている誰の目にも明らかだったような印象を受けます。
 
百人隊長のことは、共観福音書は皆描いています。「この人は神の子だった」のか、という疑いの文に解することも可能だ、と言われますが、信仰者自身の声として、私は心を寄せようと思います。ここでようやく女たちのことが紹介されます。イエスと弟子たちの旅の生活を支えた功労者です。イエスに従い、仕えていたというのです。

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