見出し画像

いけにえの小羊はどこですか

創世記22:1-12 
 
なんとも暗い場面です。いや、信仰の勝利だから明るいだろう、という人がいるかもしれませんが、安全な外から眺める他人が、平気でよかったね、などと言うべきではないと考えます。当事者は命懸けなのです。アブラハムの心の中には、なぜ、という問いがなかったのでしょうか。やっと神の約束により与えられた後継ぎを殺せ、などと命じられて。
 
一人息子のイサクにしても、一方的に神の方から、与えると干渉してきたのでした。アブラハムが自ら子を求めたのでなく、諦めの中に生きていた老人に、神のほうから子を与えようと関わってきたのです。その息子が成長したら、今度はそれをいけにえとして献げよと命じたのだとしたら、理不尽極まりないことではないでしょうか。
 
まさか、の世界です。なぜ神に楯突かないのでしょうか。神を呪わなかったヨブですら、神よなぜ、という思いが見え隠れするような叫びを呈していました。エレミヤはまた特別でした。神に騙されたとまで吠えたのです。ただ、落ち着いて眺めるならば、多くの預言者や信仰者は、神のなさることにケチをつけてはいないように思えてきます。
 
エレミヤですら、ふてくされながらも、神に負けましたと呆れた末に、自分の力に頼ることを放棄したまでです。私たちは時々、主よなぜですか、と問うてもよいのだ、と励まされますが、聖書の中には実際あまりないのです。モーセが幾度かそんなふうに言っていますが、むしろ例外的であるような気がします。
 
アブラハムよ、と呼びかけられて「はい」との返事がこぼれます。父から命を奪われる寸前でも、イサクはやけに素直で健気としか言いようがありません。二人の対話はぽつんと、異様な静けさの中で交わされます。重い足取りの父に向けて、荒れ野を吹く風の中で、ようやくイサクが尋ねたのが、いけにえの小羊のことでした。
 
私たちの人生の中で、これを尋ねることがあるように思います。小羊はどこに、と。それはそこだよ、と指さす先には、十字架のイエスがいます。私たちは、この方を、神が備えた小羊であることを知っています。もちろん、私たちはアブラハムではありません。イエスを縛って献げようとしたわけではありません。でも、私の罪が献げてしまいました。
 
強いて言えば、もうすでに縛られて、身動きのとれない状態のイエスが、木の上に架けられているのを見ます。私は狡くも、直接手を下しはしないのです。神自身が、神を無残に殺したようなものです。でも、私は思います。私が小羊を殺したのだ、と。殺した者はどこにいるか、と問われたら、「はい、ここにおります」と、はっきりと応えるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?