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たかぱん
2024年5月31日 12:14
教会ばかりではない。教会学校も、存続が危ぶまれている。もちろん、すべての教会で、とは言わない。だが、大勢はそうだと言って差し支えあるまい。中には、子どもたちがもう来ないのが当たり前というスタイルで日曜日を過ごす教会もあるし、もう子どもたちのためのプログラムを組めず、ちょっと子ども向けの話をした態度で、あとは遊んでおきなさい、というようなところもある。少子化だから仕方がない、という声も聞かれる。
2024年5月13日 10:57
たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、というニュアンスがそこには漂うことと思う。 キリスト教会で「説教」があるよ、などと告げると、その瞬間に伝道が終わってしまうかもしれない。信徒にとっては、大切な「説教」。あるいは教団によっては、「宣教」の方を好む場合もある。「説教」は教え
2024年2月25日 10:25
礼拝説教を重んじるボーレンは、聖書朗読はどうしても必要であるわけではない、とその『説教学Ⅰ』でしきりに主張している。他方、聖書そのものが神の言葉であるから、その朗読こそが命である、と言う人もいる。ボーレンは、説教がその都度神の言葉となる、という方向で説教を見ている。それは、語る者がどうであれ、という辺りも考察しているから、必ずしも理想的な説教者を想定しているわけではないようだ。 それを読んでい
2024年2月23日 07:56
アウグスティヌスの言葉らしい。説教者が、他人の説教を語る、ということについて述べているという。「有能ならざる説教者は、安んじて他人の説教を用いるように、と忠告している。」 ボーレンの『説教学Ⅰ』からの孫引きである。純粋に理論的に、というよりも、かなり情熱的な勢いも感じるこの本であるが、ここは冷静な態度を示しているように見える。他人の説教を語る、とはどういうことか。 牧師は、礼拝説教を、礼拝
2024年1月2日 11:18
京都の教会は、私が洗礼を受けた頃、献金は記名式だった。つまり、自分の名前を書いた献金袋に額を記入し、献金することになる。礼拝の終わりのほうで献金を集めるとき、籠がまわってきたら、それに入れる。それとは別に、普通その礼拝における礼拝献金を入れるということにもなる。 教会では、月の収入からいくらいくらという形で献金をするものである。だから、月定献金と呼ぶその袋は、月の最初の礼拝で籠に入れる、という
2023年10月28日 11:18
聖書を直接読めるということは、古代においては特別な能力の持ち主であっただろう。殆どの人にとって、聖書は「聞く」ものだったと思われる。いまでも、礼拝説教を私たちは「聞く」。 音声は、時間と共に一方向に届けられる。絵画と違って、音楽はその芸術性において、どうしても時間性が関わってくる。音声も同様だ。聖書を目で読むとなると、1行前に戻ることもできるが、聞くとなると、そうはいかない。つまりは、ぼーっと
2023年10月16日 12:20
教会に来ていた人が、ぷっつりと来なくなる。通う信徒にとっては、寂しい出来事である。声をかけてみもするだろう。だが、それがしづらいときもあるだろう。せっかく礼拝を共にし、教会のために働いたという実感があればそれだけ、なんとか教会に戻ってきてほしい、と願うのは当然である。 教会に来なくなる、それが魂の滅びを意味すると、クリスチャンは見なすかもしれない。また、教義上、そういう人は、サタンに唆されたの
2023年10月4日 11:48
安息日とは何だろう。ずっと気になっている。そもそも「安息日」の「日」は何と読むのがよいのだろうか。聖書により、「び」「にち」「じつ」と、なんと3種類あるのだ。 もちろん、それは「休みの日」である。キリスト教徒は、日曜日を安息日だと呼ぶ。元々は、旧約聖書の時代に、神が世界を創造したときに7日目を休んだことから、7日目を人間も安息せよと命じたことに基づく。但し、このときには土曜日が安息日であった。
2023年9月26日 11:30
教会学校と呼ばれるプログラムのことだ。かつてずいぶん長く携わってきたが、ここのところご無沙汰している。教会の少子化には歯止めがかからない。また、コロナ禍で壊滅的になったところもあるだろう。 ただの思いつきであるが、記してみる。特に中高生のためのクラスであるが、教案誌通りに聖書箇所を開いてそれを説明する、ということをおやめになっては如何だろうか。 私も、教会学校に子どもたちが溢れていた時代は
2023年9月2日 10:04
もう生徒たちは提出したことだろうが、夏は、読書感想文の課題がよく出る。近年は強要されなくなりつつあるが、以前は「必ず」書きなさい、という圧力があった。 感想文というものは、実に厄介だ。子どもたちは、原稿用紙を見ただけで尻込みすることが多い。もちろん、それが楽しくて仕方がない、という生徒もいる。私も、仕事で書かせることがあるが、そんなとき、板書は大きく次のことを書くだけだ。 「楽しくかこう
2023年8月11日 11:13
「寝るより楽はなかりけり」 母が夜よくそう言って、布団を被るのを見ていた。一日中家事やらなにやらで疲れた結果、布団に潜ると、もう何もしなくていい。その安堵感を物語っていたのだろうか。一時は内職もしていたから、疲れはなおさらであったことだろう。 生活は必ずしも楽ではなかったと思う。入浴も1日おきだったから、「今日はふろの日」などと無邪気に言っていた小さな私だったが、それから思うと、毎日体を洗
2023年6月18日 10:30
教会の礼拝に、子どもたちも最初から加わる。賛美歌を歌ったり祈りを聞いていたりすることは、子どもにも特別に苦痛なことではないと思いたい。ただ、説教はやはり長い時間にわたり大人の難しい話を聞かさせるとなると、辛い。そこで、説教が始まるときに、子どもたちは別室に行く。そこで教会学校の教師が、子どもたちの牧師となって、子どもたちのための話をし、礼拝を司る。 このようなことを複数の教会で実施したことを、
2023年6月14日 10:03
教会に子どもたちが来る、それだけでこちらの心が軽くなる。明るくなれる。そのような経験を、近ごろの教会では、もしかすると忘れてしまっていやしないだろうか。否、私が忘れているのだ。以前のことを思い起こすと、切なくなる。 もちろん、クリスチャンの親に連れられて教会に来ているという子どもたちがいる。それが割合としては最も多いだろうと思われる。 教会学校がまずあって、その後大人の礼拝の間、子どもたち
2023年6月12日 11:41
礼拝説教の中では、聖書の文を引用することがある。その中で、「(聖書の文)とあります」という言い方が、口癖のように何度も出てくる話し手がいる。私はそれを聞いていて、あるいは原稿として読んでいて、ずっと違和感を覚えていた。 もちろん、その言い方を一度でもしたら変だ、などというつもりはない。異様なのは、それを書かれた文章にするとはっきりすると思うのだが、あまりにもそれが多すぎることである。何かちょっ