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教会に戻ってきますように

教会に来ていた人が、ぷっつりと来なくなる。通う信徒にとっては、寂しい出来事である。声をかけてみもするだろう。だが、それがしづらいときもあるだろう。せっかく礼拝を共にし、教会のために働いたという実感があればそれだけ、なんとか教会に戻ってきてほしい、と願うのは当然である。
 
教会に来なくなる、それが魂の滅びを意味すると、クリスチャンは見なすかもしれない。また、教義上、そういう人は、サタンに唆されたのだ、というように捉える場合もある。見る人の立場からすると、それは傲慢に見えるかもしれないが、聖書を信仰する人の中には、当然そのように理解すべきだ、という筋もある。サタンないし悪魔は、洗礼を受けたばかりの人を躓かせようとしているとか、牧師を狙っているとか、そのように見ることも、強ち無理なことではない。警戒を怠らないためにも、こうした見方は必要である、ということもできるであろう。
 
教会は祈る。どうかあの人が教会に戻ってきますように。
 
その祈りそのものが悪いはずはない。だが、ここで私はひとつクッションを挟みたい。「あの人が教会に戻ってきますように」という祈りは、この教会が教会としてここにあるのが当たり前だということを前提としているのではないか。つまり、ここは果たして、その人が戻るに相応しい教会であるのかどうか、問う必要はないのだろうか、ということである。
 
無粋な話だが、恋人にふられた場合を想像してみよう。なんで離れていったのだ、どうかあの人が戻ってくるように、と願うだけでよいのだろうか。自分に悪いところがあったのではないか、という問いが、自分の心に思い浮かばないだろうか。
 
自分は申し分のない、立派な人間である。こんな自分から離れた相手が悪い。自分はステキなのだ、正しいのだ。この自分のところに戻ってくるのが当然だ。そのように思いこんでいるとしたら、それは相当に傲慢な態度であろう。そのような人の許から離れていくのも尤もである。たぶん、誰もがそのように考えると思うのだ。
 
教会だけが、教会を離れた人がいたときに、その人がサタンに唆されたのであって、教会そのものはずっと立派であったのだ、という考え方をしていたとしたら、問題ではないだろうか。
 
教会が、その人が残るに相応しいものであるように。教会がそう変わるように。そう祈ることから始めるのが、キリストの弟子の姿勢ではないだろうか。どうして好かれなかったのか。それを思うと、自分が変わるしかないのだ。自分が、その人を教会から遠ざけたという可能性を全く抜きにして、相手をサタン呼ばわりすることはおかしいはずなのだが、現実にはそうしたことがありがちであるように危惧されるのである。
 
そこを十分踏まえた上で、同じ言葉で祈りたい。「教会」という語に、新たな意味を宿しつつ、祈りたい。「どうかあの人が教会に戻ってきますように」と。

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