見出し画像

私たちは”自己ベストの積み重ね”でできている―メンヘラビジネスマン20年のチャレンジヒストリー

こんにちは。TASです。たくさんの方に私の記事を読んで頂き、スキもたくさん頂いて大変励みになっております。本当にありがとうございます。いったん今までの記事を纏めて読み物風にしてみました。つい最近"note"を始めたのですが、自身のこの20年間を振り返る機会を得ることができ、大変ありがたいです。
-----
私は最近メンヘラ歴が20年となりました。当初は鬱と診断されたのですが、数年後、実は躁鬱(双極性障害)だったことが後に分かりました。この20年の間に休職3回(合計1年半)、転職も5回経験し、今も1日20錠の服薬を続けています。それでも、時に病気に苦しみ、時に病気とうまく付き合って、ビジネスパーソンとして一線を走り続けています。
出過ぎたことかも知れませんが、自身の長年の病気との付き合い中で、病状回復に効果のあった事、逆効果だった事等をお伝えし、辛い症状に苦しむ仲間の回復に少しでも貢献したいと考えています。


発病直前~発病

発病直前の状況

まずはじめに、私がどういう経緯で発症(躁うつ病、当初診断はうつ病)したのか、ここでお話しします。当時30歳だった私には、いくつもの波が、良い出来事も含めて、同時押し寄せてきていました。1つ目は、妻の妊娠。念願の子供を授かることとなること。2つ目は、人生の師とも言える母が白血病となり余命が幾ばくもなくなってきていたこと。3つ目は、仕事関係です。当時私は、経営企画課長として社長の信頼を得て、充実感を得ながらも、多忙を極め睡眠も十分にとれないような状況にありました。

息子の誕生

その年の6月に待望の息子が誕生しました。妻と私にとって本当に嬉しいことでしたし、親族にとっても初孫で、皆の愛情を一身に受けていました。そして、病身の母は父とともに当時息子と妻が滞在していた妻の実家まで来て息子を抱いてくれました。何とか母が生きているうちに息子を合わせたいという私の願いは叶いましたが、その後すぐに母の病状は悪化し再入院となりました。私は当時東京に住み、私の実家は大阪でしたが、私は母に息子を会わせたい一心で、ほとんど毎週末、私たち(妻と息子も)は東京と大阪の母の病院を行き来しました。産後間もない妻には負担をかけてしまったと今でも思っています。

母の死

母の病状は徐々に悪化していきました。それまで抗がん剤治療で一時的に良くなって入退院を繰り返していましたが、今度は難しいと医者からも言われていました。そして、その年の末に母は亡くなりました。
なぜか私はふさぎ込むことはありませんでした。それどころかより力を増したような感覚がありました。今思うと母の死という人生最大の衝撃により、完全に、しかも強烈な、”躁のスイッチ”が入った状態でした。自分は尊敬する母の名に恥じない立派な人間になろうと。また愛する妻子のためにも。
私は仕事に没頭しました。明るく、勤勉に、寝る間も惜しんで。いくら働いても疲れませんでした。いくらでも力が沸いてくる気がしました。しかし数か月たち、春が近づくにつれ、やはり少しずつ体調がおかしくなっていきました。
まだ肌寒い日が続くにも関わらず、異常なまでの発汗をすることが多くなりました。汚い話で大変恐縮ですが、粗相をしてしまうこともあるなど、これまで考えられないような事が起りました。明らかに自律神経に変調をきたしていました。

社長交代とパワハラ

それでも会社のために一心に働き、私は社長から厚い信頼を得ていました。しかし4月の人事異動でその社長は親会社に戻り、親会社から新たな社長が就任しました。
新社長は最初から明らかに私に対してマイナスの感情を持っているようでした。若手で重責を担っており、発言力もあった私が気に食わなかったのでしょう。どのような案件の説明をしても、必ず些細な事を取り上げて私を叱責し、全く案件が通らなくなりました。
前述の体調面の要因も重なり、5月、6月と私の仕事のパフォーマンスは急降下していきました。そこにつけ込むかのように、新社長の私に対する攻撃はますます激しくなっていきました。
ある時の会社の懇親会で、私はその社長から、多くの社員の前で屈辱的な言葉を投げかけられました。そこで私の心の壊れました。その日の事はあまり覚えていないのですが、懇親会の終了を待たず会場を後にしたのではなかったかと思います。
翌日から会社に行くことはできませんでした。もはや限界でした。既に心療内科に通っていましたので、主治医に診断書を出してもらい、2カ月間の休職をすることになりました。

ここから私の闘病生活が始まりました。結局当初2カ月の予定だったのが4か月に延びました。病状は大きく改善することのないまま復職となり、そこから紆余曲折があり約1年後、2回目の長い休職に追い込まれます。
ちょっと重い内容となってしまったかも知れません。私も辛い時期は自分の人生に全く光が見えず、現在のような元気な自分の姿を想像することはできませんでした。今の私は服薬・通院(月1回)をしつつも、ビジネスの第1線でやりがいを持って仕事に取り組んでいます。
「朝の来ない夜はない」と自身の体験からもお伝えできます。ここからは私の回復過程についてお話ししていこうと思います。ただし全てがうまくいったわけではありません。うまくいった事、いかなかった事を含めてお話します。まずはうまくいかなかった事を2つ。

もがく日々

宗教への依存

これは1回目の休職後、メンタルの状態がまだかなり辛い時期だった頃のお話です。私は元々かなりの負けず嫌いの性格で、病気・休職もあり、会社の同期との出世争いから脱落した(と当時は思ってしまっていた)自分を認めることができませんでした。周囲からも自分は負け組と見られていると劣等感の塊になっていました。もうこれ以上今の環境にいたくない、誰も自分の事を知らないような土地で静かに暮らしたいと思うようになりました。
そんな中、ネットで僧侶になれるという宣伝を見つけました。その当時の私は僧侶になって俗世間から離れたいと、もうそれ以外考えられなくなり、すぐに資料請求をしました。
後日私の妻が、何か変なものが家に送られてきたと送付物を持ってきてくれました。包みを開けてみると、何か非常に安っぽい仏具が入っていました。これは何事かと妻に尋ねられ事情を話すと、妻からはこんな怪しいものに引っかかってはだめだ、これはやめてと厳しく諫められました。またどうしても今の環境が嫌なら、会社を辞めてもいい、そして東京を離れ家族で移住しようとも言ってくれました。その妻の言葉が私の胸に刺さり、私は未練を残しつつも諦めました。
宗教の勧誘の全てが怪しいとは決して思いませんが、この件は今から考えると、どう考えても怪しいものだと思います。宗教に依存したい気持ちに付け入るような話は世の中にたくさんあると思いますし、あの時の妻の言葉に従って良かったなと思っています。体調の悪いときは宗教のような心の拠り所となるようなものに依存したくなる気持ちが強くなると思います。ただ体調の悪いときは判断力も鈍っていますので、やはり周囲の信頼できる人(私の場合は妻でした)の意見を聞いて、私のように怪しいものに付け込まれないようにする必要はあると思います。

”ありがとう”

この”ありがとう”もネットで見つけました。
「常に感謝の心を持つように努力することで、自身の心も前向きに変えることができる」という趣旨で、ノートにただひたすら「ありがとう」を書きなさい、というものでした。
当時の私は少しでも良くなるのであればと、どんな事でもチャレンジしていましたので、「ありがとう、ありがとう、ありがとうございます。」と毎日毎日数百回、ノート数ページにも渡ってこの同じ字句を書き続けました。
ただこの感情は自身の心から出たものとは違う、ある意味強制されたものでしたので、徐々に違和感を感じ始め、そのうち「いったい俺は何をしているのだろう」と虚無感すら感じるようになり、最後にはペンをノートに突き刺し、ノートを床に叩きつけ、やめてしまいました。恐らく、認知行動療法と同じで、自分の感情とは違うもので強制されるという方法が、特に自分には合わなかったのだと思います。
”ありがとう”という言葉自体はとても素敵な言葉で、私も大好きで今はできるだけ周囲の方にお伝えするようにしていますが、やはり強制的に出すものではなく、自分の本心から出る”ありがとう”が大事なのだと思います。


回復への道

カウンセリングとの出会い

ここからは、私の人生にとってとても大切な”産業カウンセラー養成講座”との出会い、そして自己カウンセリングという方法で自分を大切にすることができるようになった過程についてお話しさせてください。
私は3回の休職経験がありますが、2回目の休職が自分にとって最も長く辛いものでした。冬の始まりから期間は8か月ほど、前半はほとんどベッドから起き上がることもできず寝たきり状態でした。
それでも少しずつネットは見ていて、産業カウンセラーの養成講座の募集がされていることを知り、それがどういうものか詳しく確認もせず後先何も考えずに、何かに引き寄せられるように申込をしてしまいました。募集締切直前のことでした。先の苦しいときに宗教にすがろうとしたのと、似ている部分もあったかも知れません。
妻は最初は受講に反対しました。メンタルで休職している身で、ベッドから起き上がるのがやっとな人間が、半年以上におよぶ通学講座にどうやって通えるのかと。ただなぜか私もこの時は譲りませんでした。結局講座自体は怪しいものではないと分かったため、妻も渋々了解してくれたのでした。
そして4月から養成講座が始まりました。最初は電車に乗って通うので精一杯でしたが、なぜかこの講座だけは絶対に休まないという自分がいました(結局講座終了まで無欠席でした)。
生徒は1クラス10数名程度に分けられ、その後半年間学びをともにします。初回は1人1人自己紹介をするのですが、私は自分がメンタルを病んでいること、そしてこの講座を回復のきっかけにしたいこと、を正直に話しました。そんな私に対して最初はどう接していいか困っている人も中にはいましたが、多くの人は一緒に頑張りましょうと、温かく優しく受け入れてくれました。この仲間達と出会えたことも、当時の私にとって、とても大きかったと思っています。
講座ではカウンセリングの技術である「傾聴」をひたすら学びます。傾聴の説明は難しいのですが、話し手から語られる言葉を通じて、相手の心の動き、言語化できない(辛い)想いを察してあげることなのだと思います。そして相手が想いを言語化できるまで、じっと待ってあげて、時には言語化できるように、自己洞察を促すような言葉を投げかけてあげて、自分の本当の想いに気づくことを手助けしてあげるのです。
講座では毎回聴き手と話し手を交互に体験します。私も徐々に聴き手としての力が付いてきて、話し手の言語化されていない本当の想いに近づけるように、そして相手が自己洞察をしてその想いに気付けるように援助することができるようになりました。
そして自身の傾聴の力が伸びていくのと歩調を合わせて、私の状態はどんどん回復していきました。最初は緊張していた講座でしたが、本音を語り合える仲間となり、私の顔色が良くなった、笑顔がすごく多くなったと言ってもらえたのを覚えています。良き仲間に支えられ、講座期間の途中で会社への復職も果たしました。

自分を大切にする―自己カウンセリング

前述の通り、恐らく傾聴の力が自身の回復を支えた部分が大きいと思っています。説明が少し難しいのですが、「自己カウンセリング」とは、私の場合は次のようなイメージなんです。
「もともとの自分」から「カウンセラーとしてのもう1人の自分」が分離して、「もともとの自分」を大切に見守ってくれている、本当の思いを丁寧に聴いてくれる、そして2人の自分が協力して1つ1つの辛さ、困難を乗り越えていく、そんなことが徐々にできるようになったように思います。一般に言われる「メタ認知」に少し近いかもしれませんが、「認知」するだけでなく、自分自身に寄り添うイメージでしょうか。
また、自分が自分を大切にすると、大切にされた自分は次に周囲の人を大切にしようとする、そうすると周囲の人もまた自分を大切にしてくれる、そういった好循環が少しずつ回り始めました。
このようにして、私は出口の見えない2回目の休職、最も深い底、から回復することができました。数年後、3回目の休職も経験しますが(本稿では詳しく触れませんが、自身の油断が招いた、”躁”がきっかけとなったものでした)、そこから回復できたのも、そしてその後現在に至るまで何とか日々を過ごすことができているのも、この「自分を大切にする―自己カウンセリング」ということが大きな要因だと思っています。
自分を大切にするというのは、言うは易しで、私も半年間の講座の中でなんとか得たものではありますが、努力すればきっと誰でも身に付けられると思います。

認知療法・認知行動療法

もちろん、一直線に回復していったわけではありません。1つあげますと、認知療法・認知行動療法です。私がこれらの療法を知ったのは、カウンセリングの勉強を通じてです。
私は回復の兆しをさらに高めていこうと、認知療法・認知行動療法関連のワークブックを購入しトレーニングを開始しました。ところがトレーニングを続けていくうちにどんどん体調が悪くなり、ちょうど2週間に1回の心療内科通院の際に主治医の先生に状況を伝えたところ、直ちにそのトレーニングはやめなさい、とのことでした。
認知療法・認知行動療法は、ざっくりとした説明ですが、認知の歪み、なんでもネガティブに考えてしまう思考のくせを強制的にポジティブ・シンキングに変えていこうとするものです。主治医の先生曰く、こんな机上の空論が現場の臨床に通用するわけがない、ポジティブシンキングができない辛い状況だから苦しんでいるのに、無理やりさせても状況を悪化させるだけだと。自身がまさにそのような体験をしましたので、先生の説明はとても腹落ちしました。幸いすぐに中止しましたので大事には至りませんでした。
また先生の次の説明も個人的にはとても納得いくものでした。
「辛くて動けないときはそのままでいい、動かなくていい。辛いときは、エネルギーをじっくり貯めているとき。エネルギーが十分に貯まってくると自然に徐々に動けるようになる。逆に動けるようになったときは、貯めてきたエネルギーを消費しているときだから、使い過ぎないように普段以上に注意してください」
強制や無理は禁物。それから私は辛いときは休むことがもっとも大事で、これは甘えではないと思えるようになり、可能な限り自分を休ませてあげるようになりました。これが病気とうまく付き合っていく秘訣の1つかもしれません。
ただ「認知(行動)療法はおすすめしません」というのは、あくまで素人の個人的経験に基づく意見に過ぎませんし、これらを考えていらっしゃる方がいましたら、ぜひ主治医の先生にご相談して頂きたいと思います。もしかしたら、病気からほぼ回復した段階で、これらの療法に耐えられる状態に戻ってきていれば、さらなる強化方法としては効果があるのか知れませんね。

瞑想の効果

瞑想は、3回目の休職を経て転職した先の上司に勧められました。”マインドフルネス瞑想”、という言葉をお聞きになっている方も多いのではないと思います。休職経験があることは伏せて入社しましたが、転職後の慣れない環境で休みがちだった私を見て、上司は私の状態を察していたのだと思います。ある時薦めて頂いたのが”マインドフルネス”について書かれた本でした。
この瞑想は実際にどのようにしたらできるのだろう、と色々調べてみて見つけたのが本で、付属CDを聞きながら瞑想に取組み始めました。ナレーションに従って、暗くした部屋の中で目をつぶり、呼吸を意識しつつ瞑想に取り組みましたが、「無」になるというのは難しく、気付いたら考え事をしてしまいます。ただこの本の、考え事をするのは全然かまわない、気づいたらまた呼吸に意識を戻して仕切り直せばよい、というのが自分に合い、頻繁に瞑想に取り組むようになり、瞑想の仕方もどんどんうまくなっていきました。
マインドフルネス瞑想は、色々な感情や情報が錯そうしている頭の中をリセットしてくれるので、気持ちを落ち着かせることができますし、仕事をこなす助けともなってくれました。瞑想を続けることで徐々に気持ちの安定度が増していきました。今も疲れた時は10分ほど会社のトイレにこもって瞑想して脳の休息をとっています。
先に怪しい宗教について触れましたが、一方で、宗教の長い歴史の中で積み重ねられてきた知恵、ここでいう”瞑想”、これらの知恵のうち自分に合うものはうまく取り入れて、少しでも体調のコントロールができるといいのかなと思います。

ジャーナリング

これもネットで見つけたものです。名前の通り、日記のようなものなのです。特に準備する必要もなく、思いついたことをそのまま文字にしていくのですが、1つルールがあります。それは途中で手を止めてはいけない、例えば最初にノート1ページ書くと決めたら、1ページ書き終わるまでは、書き続けないといけない、というものです。これも強制じゃないか、と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、そうでもないんです。書くことが思いつかない場合は、「あー、書くことがない、書くことがない、なんか書くことないかなー」と書き続ければいいのです。不思議なことにしばらくすると書くことがでてくるのです。昨日は一日眠かった、今日のごはんは美味しかった、何でもいいんです。自分の中から、良い感情も悪い感情も、書くことがどんどん出てきます。そして決まった分量を書ききった後は、恐らく気持ちを外に出してしまったからでしょう、なんだかすっきりした気持ちになるんです。私はジャーナリングが楽しくなり毎日続けるようになりましたし、少し経って気づいたのですが、例えば書き始めはネガティブな事を書いていても、書いているうちに、全く強制ではなく自然に、徐々にポジティブな内容を書いている自分に気づくことが多くなりました。今でも気持ちを整理したいときはたまに書いています。
ジャーナリングは是非お勧めしたいですが、やはり書き続ける体力が必要ですので、文字を書くのも辛い体調の方は、無理にはなさらないでください。それこそ逆効果になってしまいかねません。ちょっと書いてみようかな、と思えたときに、思い出して試してみていただければと思います。

私たちは”自己ベストの積み重ね”でできている!

”自己ベスト理論”

このように病気の底の状態から、その時々で何かにチャレンジしてきて(というかやみくもに飛びついてきた)、今の私は服薬(1日約20錠)・通院(月1回)をしつつも、ビジネスの第1線でやりがいを持って仕事に取り組んでいます。
これまでの病気との日々も振り返りつつ、最近よく考えているのが、「私たちは”自己ベストの積み重ね”でできている」ということです。
どういうことかといいますと、「過去を振り返ってもしょうがない」ですとか「終わったことにくよくよするな」とよく言われます。でも私はこれまで自分が歩いてきた道を振り返ることはとても大切なことだと思っています。
また「失敗は成功のもと」でしたり「挫折を糧に成長する」というように、過去の(ネガティブな)出来事を、(ポジティブな)未来に昇華させる表現もよく使われると思います。でもこれも少し私の考えとは違うと感じています。私たちの過去の選択に1つも間違いはないと思っています。

過去の自分は未熟な自分

そうは言っても、過去の記憶や出来事を現在の自分が振り返ると、「あれは間違った選択だった」ですとか「ああいう言動をすべきではなかった」と感じてしまうことがあると思います。でもそれは当時の自分ではなく、より成長した現在の自分が振り返るから、そのように感じてしまうのではないでしょうか。
当時の自分は、その置かれた環境や状況は、おそらくギリギリの状況だったと思うのです。現在からみると、とるべき選択ではなかったと思えるかも知れません。でも当時の未熟な自分は精一杯で、そのような選択しかできなかったのです。だからどんなに拙い選択だったとしても、それは当時の自己ベストの選択だったと思うのです。
私自身、現在の自分が過去を客観的に振り返ると、人を傷つけたり、ひどいことを言ってしまったりしたことはたくさんあります。人に言えないようなこともたくさんあります。本当に申し訳ないという思いもあります。ただやはり、当時の未熟な私はその選択・行動しかとりようがなかったのと思うのです。未熟な私にとってはそれが自己ベストだったのです。変だと思われるかも知れませんが、現在の私にとって、過去の未熟な私は、未熟であればあるほど愛おしくすら感じてしまう存在です。無謀にも僧侶を目指した自分だって、本当に愛おしく思っています。

チャレンジヒストリー

また自身の選択・行動だけではなく、自身がコントロールできないような様々な出来事・経験も、それがポジティブなことであってもネガティブな事であっても、自分の人生を形作る唯一の出来事や経験であり、やはり自己ベストだと思うのです。
自身の病気(双極性障害)についても、過去の厳しい闘病の時期があり、そして今も決して完治しているわけではありませんが、自身の人生の中で決して欠くことの出来ない、積み重なっている”自己ベスト”の1つだと思っています。
もし未来の、より成長した自分が現在の自分を見たとしたら、やはりなんて未熟なんだろうと思うのでしょうね。それでも過去の自己ベストの積み重ねでできている私は、現時点の自己ベストです。そして、今後もその時々の自己ベストを積み重ねて、自己ベストをどこまでも更新し、自分のチャレンジヒストリーを紡いでいきます。

TAS

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?