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【友情のテキーラショットが繋いだ、遥かなる”おっぱい”への想い】 〜瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』〜

「なり、俺の分までがんばってくれ。俺は吉祥寺に帰るわ」
蟹ヶ迫は、余ったテキーラチケットを俺の手に握らせると、リュックを背負って歩き出した。
遠くなっていく背中に比例するように、小さくなっていく我が心。彼の姿が完璧に見えなくなってしまうと、途端に感覚がクリアになり、身体に染み込んだテキーラがすっと薄まってしまったような気がした。

ジントニックを一気に飲みほす。
ライムの香りを鼻に残しながらバーカウンタへ向かい、テキーラチケットでショットを一杯、注文する。
「どうぞ」
差し出されたグラスを受け取ると、さっきまで気にならなかった雑音が、荒れ狂う波のように鼓膜へと押し寄せてきた。
一人になってしまった俺を鼓舞してくれるのは、もうこのショットだけである。

パブリックスタンド歌舞伎町店の扉を開けた瞬間から、蟹ヶ迫の心は最初から折れていたと思う。ただでさえ人見知りの彼は、周囲をちらちら見渡しながら、何度もスマホに目を落としていた。
おいおい、そんなんじゃだめだろ!せっかく来たんだからじゃんじゃん女の子に話しかけにいこうぜ!
俺は蟹ヶ迫の腕を引っ張って、ぐるぐると店内を回遊した。

「だめだ、相手が強すぎるよ」
一時間後、蟹ヶ迫は小さな声で呟いた。いかにもシゴデキなオーラを纏った爽やかスーツ、夏の湘南にいそうなピチピチTシャツなどが主役を張るこの現場。おろおろうろうろしているだけの俺たちに、活躍できる場面などなかったのである。
それでも、くじ引きで当てたテキーラチケットは吉祥寺民の気を大きくした。
「よしいくぞう!」
熱くなった喉を震わせる。先程までのナイーブボーイズはどこへやら、俺たちは意気揚々と狩り場へ出撃した。
しかし悲しいかな、気が大きくなっても能力そのものは変わらないのである。金髪ギャルに「ども、こんばんは!」と小股なステップで突撃した蟹ヶ迫が「あ、ちょっとごめんなさい」とつまらなそうな目で瞬殺されたときは、無慈悲な戦争映画を見ている気分になった。
一方俺は、武井咲似の清楚系女子に声をかけることに成功していたものの、急に入り込んできたホホジロザメのような男に彼女を奪われてしまう。鋭利な歯の隙間から放たれる巧みな話術は至極見事であり、俺はすごすごと撤退せざるをえなかったのだった。

所在無げに佇みつつ、乏しい初期設定がさらに乏しくなった財布を覗いた。やばい。四千円以上使っているにも関わらず、何の成果も得られていない。今度はスマホで時刻を確認した。この店に来てからすでに二時間以上は経過している。ちなみに終電まで残りあと四十分。もうあまり時間は残されていない。

俺は辺りを見回した。いつのまにかフロアの隅まで人がごった返している。女に群がる男たち、そして俺を含め、舞台からあぶれている男たち。
蟹ヶ迫を瞬殺した金髪ギャルはすでにこの店から姿を消していた。おそらく今頃、性欲の権化のような野郎と別場所で飲み直しているのだろう。そして終電が過ぎたあたりでホテルに向かい、パンパンアンアンパンパンアンアンと性をまき散らすのだろう。ああくたばれ、くたばってしまえ。蟹ヶ迫の生霊が、隣の部屋の壁に耳をくっつけていることを切に願った。
「なり、俺の分までがんばってくれ。俺は吉祥寺に帰るわ」
風前の灯火のような彼の弱声が脳裏を霞める。俺は拳をぎゅっと握った。テキーラショットの効果がまだ残っているうちに勝負を決めなければならない。蟹ヶ迫からもらったバトンを、絶対に無駄にしてはいけない。
三分の二以上が男で占められたこの世界を、俺は彼のためにも勝ち抜かなくてはならない。

そのときである。俺の目がソファー席に座っている一人の女性を捉えた。
アーモンド形の目。すっと通った高い鼻。白い肌を強調する漆黒のベリーショートが醸し出すのは、酒場を翻弄する淫靡な色気。
そしてよく見ると、いや、よく見なくてもデカい。推定E~Fカップほどあるおっぱいに俺は釘付けになった。横に座った三代目系と談笑する彼女の横顔は、ちょっとホラン千秋に似ている。
「間違いない!俺は彼女に出会うためにここに来たのだ!」
容赦ない美貌に一目惚れしてしまった俺は、すいません、とぺこぺこ頭を下げながら人混みをかきわけ、ずんずんと彼女に近付いていった。しかしそれを阻止するかのように、汗臭い背中たちが俺の前に立ちふさがる。やつらの目線はすべて、ホラン千秋(のおっぱい)へ向いているようにしか思えなかった。
「ごめんなさい、通りますね」
グレーのスーツを纏った男が、俺の真横を強引に通り過ぎていった。彼は女の子の手を握りながら、出口の方へ向かっていく。その女の子は、俺が一時間ほど前に楽しくお喋りしていた武井咲だった。酒をたくさん飲まされたのか単純にこの男が好みなのかわからないが、とにかく清純派とは程遠い、放送事故レベルのエロい表情を浮かべていた。妖艶な声をあげながら彼女は出口を抜け、そのままスーツと共に新宿の夜へ消えていった。

そのとき俺のなかで、なにかがひどく傷つけられた気がした。
それは意地とか誇りとか、そんな綺麗なものじゃない。もっと雑で汚くて、それでも大切にしていたい男同士の絆だった。
俺はスマホを取り出すと、煌々と光を放つYahoo路線のページを閉じた。

その後、彼女とは二回飲みに行った。
セックスをすることもおっぱいを揉むこともキスをすることもできなかったが、めっちゃ懇願したら三十秒だけ手を繋いでくれた優しい優しい彼女の名前はマキちゃんという。

手のぬくもりや柔らかさはもう思い出せない。顔面の詳細も、ホラン千秋に似ていたということしか記憶に残っていない。
それでもたまに思うのだ。
仮にもし付き合うことができていたら・・・と。
きっと俺は蟹ヶ迫に、マキちゃん(のおっぱい)についてめちゃめちゃ語りまくっていたことだろう。「俺も残ってればワンチャンあったかも」なんてシャツの襟を噛む彼の姿が目に浮かぶ。その様子を見ながら俺は酒を美味そうに呷る。やがて夜は更けていき、ついに襟を嚙みちぎった酔いどれ蟹ヶ迫は、悲しげな笑顔を作ってこう言うのだ。
「なり、バトンを繋いでくれてありがとう」

あれから五年。
俺たちは未だにバトンを渡し合い続けている。

〜本紹介〜

【こんなに優しい人々に囲まれた話を俺は知らない。本屋大賞2019!】

瀬尾まいこ 著『そして、バトンは渡された』。

あらすじ:父親は3人。母親は2人。高校生の優子はめまぐるしい家族関係を築いてきた。どこか冷静なところのある彼女は、変わっていく家族に対し、仄かな違和感を抱くこともありながら受けとめてゆく…。

まさに本屋大賞2019。
主人公の母を務めた、梨花さんの物語だと思った。梨花さんは思いやりに溢れた、明るい自由人。だからこそ、彼女が求めるものに対して、読者である俺は泣いてしまう。
夢物語だ、という意見も少なからずあるけれど、この話を素直に受け止められた自分を心のどこかで嬉しいと感じている。
こんなに優しい人々に囲まれた話を、俺は知らない。


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