可能なるコモンウェルス〈17〉

 人民自身によって国家の支配的な権威を相続することの、その正当性=正統性を問うものであるような「革命」とは、しかしそれによって何か「新しいものを創設する」ということに、その目的が見出されていたというわけではけっしてなく、むしろ「かつてあった、古き善きものの回復」にこそ、その志向というものは指し伸ばされていたと言える。「正当性=正統性を問う」ということがまさに、その志向を証拠立てているのだ。
 そして、その「古き善きもの」を破壊してしまった者こそがすなわち「旧来の支配者」なのだとして、こうして照準を定められた「悪しき破壊者」を血祭りに上げ、その目に入る領域の一切から排除することにより、「あるべき権威と権力の再建と回復」という目的は達成されるのだ、とでもいうように、その旗印を掲げる方向は明確化されていったものだと考えられる。
「…復古を企てていたがゆえに(…中略…)権力と権威に関する古い理解が、古い権力と権威の代表者たちが非常に激しく非難されたにもかかわらず、新しい権力の経験を、ほとんど無意識に、無効になっていた諸概念へと方向づけた…。」(※1)
 革命の目的はあくまでも「旧い支配者を排除する」ことであって、「支配そのものを排除する」ことにはない。かえって権威と権力がまとう「絶対性」の相続にこそ、「革命」のその本質的な目的はある。逆にもし「支配そのものを排除してしまった」としたら、「新しく神性の代理人となった者の、その権威と権力」は、それを指し向けるべき自身の「独占的領域」を持ちえずに、宙に浮いて漂うだけのものとなってしまうことになるだろう。

 この地上にある「独占的領域の支配」の一切を担う、「神性の代理人という立場」は、実際のところとして全くの「代入構造」になっていることはもはや明らかであった。かつて教会に与えられていたものが絶対君主へと移譲され、そして今度はその絶対君主から人民へと相続される。こうして「神性の絶対性を媒介し管理する、現世的代理人の立場」は、次から次へと転位していったわけだが、しかしそれでも、「その立場の存在と地位自体」は、そのように移り渡されている間も全く変わることはなかったのである。
 一方で、実はこの「神性そのもの」というもまた同様に、代入構造となっているわけなのであった。
 「西欧社会は一神教の文化にもとづいている」などとよく言われ、そのことを根拠として非難されることもままあるのだが、むしろここで考えられる「神性」というものは、それが「相続されるほどには」というばかりか、そのそもそもからして「一神教的神性」からは全くかけ離れていたのだと言える。いや、「一神教」などと考えられているその時点ですでに、それ自体からはすっかりかけ離れたものだったことは明白なのだ。
 「一」が考えられるところには、必然的に「多」がある。そしてこの両者は「入れ替え可能なものとして相対的な立場にあるもの」とされることになる。「一」は「多」であり、「多」は「一」である。そこで、「一」であれ「多」であれ、そのような神性は絶対性の口実にうまいこと利用されてしまうだけのものともなりうるのだ。
 そして今や、「無神論的神性」などということさえ考えられるようにまでなっている。そこで「絶対的な立場にある」のは、一体「誰」なのか?言うまでもなくそれは、その口実の利用者となる「人民=多数者」であるのに他ならないのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」志水速雄訳

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