可能なるコモンウェルス〈15〉
「神によって支配を託された」という、いわゆる王権神授説。そういったまさに「神話」と言いうるようなものは、実に世界中において一般的に生じているものである。ということはそのような「託す神」もまた、世界中で「一般的に生じている」ということにもなるのだろう。ではそのように、「一般的に生じてくるような、一般的な神」とは一体、どのようなものとしてあらわれうるものなのだろうか?
結論的なことを先に言ってしまうと、この文脈で考えられる「神の発生」のブロセスは、「国家や共同体がまず、神に先立って存在しており、その後から神が迎え入れられる」というような形式で、国家や共同体の「内部」に生じる神、ということになる。このような神は当の国や共同体を、たとえば戦争や災害などから守り、救ってくれるものである限りにおいて、神として扱われる神なのだと見なしてよい。このような神とは要するに、その神を迎え入れた国家・共同体の「役に立つ神である限りで、神」ということになるわけであり、穿って見ればそのように「役立つものであればどのような神でもよいような神」として国家・共同体から見られている神なのだ。
逆にもしも、その神が国家・共同体にとって「何一つ役にも立たない神」なのであったとすれば、この神はもはや誰からも「神として扱われない」ことになるだろう。「国家・共同体の期待に応えられない神など、もはや神の風上にも置けない」とでも言わんばかりに、すぐさま天の玉座から引きずり下ろされては、「かつては神だった」面影もないようなみすぼらしいありさまで、国家や共同体の「外」に打ち棄てられることとなる(※1)のだ。それはもう、むしろあまりに無碍な仕打ちではないのかと思われるほど、あっさりと、かつ冷酷に。
国家や共同体があらゆる災いや争い事から免れ、恒久的な安寧が得られるのを期待して、実にさまざまな建造物やら像やらが作られ、人々はそれに向かって一心に祈りを捧げる。世界中の古今東西、どこでもいつでも目にする光景である。しかしそれで、いかなる災いや争いも、ほんのわずかでも絶えたことなどいささかもありはしなかったというのは、やはり世界中の古今東西のありとあらゆる「歴史」が明らかにしているところだ。
現実の話として、どれほど「神に祈ろうと、国家は戦争に敗れることもあるし、国家が敗れればその神も敗れる」(※2)ことになるものなのである。結局、実際に争いを戦うのは神ではなく国家であり、災いを被るのはその国民なのだ。しかし、争いや災いから国家国民を守護し、それに打ち克つ栄光を授けられんことを欲して、国家国民はその神を前面に押し出して、争い事や災いに立ち向かい戦ってきたわけである。その結果として国家国民はあえなく敗れ去る、もちろんそういうこともあろう。結局は「人のしていること」なのだから。では、人はその「原因」を、何に求めるだろう?たしかに、「自分たちの力不足」もあったのには違いない。しかしそのことは百も承知で、それを上回ってなお戦い抜くことができ、最終的に打ち克って栄光を掴み取れるほどの「力」を、人は求めたはずだ。その「力を授ける」のは、誰か?「そのための、神」ではなかったのか?
「一般的な心情」として、期待や願望の思いが強ければ強いほど、それが叶わなかった落胆は深く、その思いを「託した相手への恨み」は激しくなるものだ。「敗れ去った国」において一体どのようなことが起こってきたか、その光景を誰もが見たことがあるだろう。どれほど多くの像や建造物が打ち倒され焼き払われてきたことか。しかしその光景の中、人々の表情はむしろ一様に嬉々としていることにも、きっと誰もが気づくだろう。おそらく、彼らは皆そのとき「憑きものが落ちた」のであるのに違いあるまい。
結局のところ、現世的な「力」の根拠となるような神性なるものは、「現世的な利用価値において見出される」ものであるのに他ならないのだと断言したところで、きっとそのことに何の差し障りも生じることもないに違いない。人や国家・共同体に対して何の役にも立たず、あげく打ち棄てられることとなった神などには、おそらくもはや「祟る力」も何一つ残ってはいないはずだ。
とはいえまだまだ「信じられている限り」では、国家や共同体の「支配の正統性=正当性」は、そのような超越的な神性の権威によって、まだまだ担保されうるものとなるはずである。その上で、もしもそのような「信用・信頼」に少しでも亀裂が生じることとなったとして、そこで「国家・共同体における独占的な支配の正統性=正当性を担う神性の代理人、すなわち現世的国家の統治者=主権者」が、その「神性の媒介者」という自らの役割を超えてまで、「自らの意志によって直接的に」国家・共同体を支配しようとでもいうような構えを少しでも露わにするとしたら、今度は逆に彼はむしろ、「神性の絶対性に対する敵対者」として見出されることとなるのだろう。そしてそれを「神性に対する敵対として見出す」のは実に、その「神性の権威の下に支配されていた者たち、すなわち人民」なのであり、その「神性への敵対的な関係」は、「神性の下にある、被支配者に対する敵対」としても見出されることとなる。被支配者による「革命の正当性」とは、実にここで見出されるところとなるのだ。
それまではまだ神性の代理人であったところの「支配者」は、しかしまさしく彼の拠りどころであったはずの「神性の絶対性から、その敵対者と見なされる」となれば、そこから即座に彼は、「神性にもとづく絶対的な立場の正当性」から切り離されてしまうばかりか、「神性による庇護」からさえも切り離され断絶させられることになる。
一方で、それまでは被支配者であった人民は、「神性の敵対者となった、かつての支配者」を、逆に「神性の権威にもとづいて」これを排除し、その上で自らをして「神性と直接に関係する」こと、すなわち「神性の直接的支配」において自らを主体化するということを、「神性にもとづく超越的・絶対的権威」との、現世的・現実的な関係として要求するものとなる。そのような要求の「世俗的・具体的・物理的表現」が、たとえば「革命」という姿をしてあらわれるものなのだ。そしてそこで「革命者=人民」は、むしろ「彼ら自身が神性の代理人として、その神性の相続者としての正統性を主張しうる」のだと考えるようになるわけである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 柄谷行人「世界史の構造」
※2 柄谷行人「世界共和国へ」
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