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脱学校的人間(新編集版)〈17〉

 人は学校という限定された空間で物事を学ぶものだと一般に考えられている。では、そもそもその「学ぶ」という行為とは、一体どういうことを言うのだろうか?
 「学ぶ」ということは、ある行動様式を主体的に再現することについて、その再現のためにとるべき行動の「様式・形式を学ぶ」ということである。たとえば算数を学ぶのであれば、人は単に数や計算式「だけ」を学ぶのではなく、それらを用いることによって実際になされることとなる「計算をする、という行動様式」を学ぶことになるのである。つまり数や計算式を学ぶことにより可能となる「計算するという行動様式」を、学んだ者がそれ以後は「主体的に再現することが可能となる、つまり実際に計算することができる」ように人は算数を学ぶ、というわけである。
 そしてその「学ぶということ自体」がすでに、実は「一つの行動様式」なのだ。ただ、学ぶことにおいては必ず、その学ばれる対象としての「ある一つの行動様式」が、「学ぶという実際の行動に先行する」ことになる。「学ばれるものがある」のでない限り人は「何」も、あるいは「何から」も学ぶことはない。また、それが学ばれる対象としてあるならば、それがたとえどのようなものであったとしても、つまり一見して「何も学べるようなところがない」ように思われるものであっても、人は結局そこから何かしら学ぶことはできるものなのである。

 人が何事かを学ぶことにおいて、その学ばれる対象の行動様式は、学ぶ実際の行動に対して常に先行している。ゆえに学ぶという実際行動のその「形式」は、学ばれる対象の行動様式に従属することになる。そしてその学ばれる対象の行動様式が、それを学ぶ行動のその形式として実際の学びにおいて反復されているのである。
 また、人は意識して学ぶこともあれば、意識しないで学ぶこともある。しかしいずれにせよ人は学ぶことを通じて、そこで学ばれている一定の行動様式を自らの学ぶ対象となる行動様式として「意識する」ことになる。それは、学ぶ対象となる行動様式が実際に学ばれることによって、学んだ者自身がそれを「意識的に再現できる」ものとならなければ、実際に「それを学んだことにはならない」からだ。だから意識して学ぶのであるか、あるいは意識しないでなのかということは、「学ぶこと自体を規定する」ものとはならないが、しかし「学んだことを対象として意識する」ということについては、学ぶという行為を「一定の行動様式として規定する」ことにはなるのである。
 そしてそこで学ばれた行動様式が、はたして本当に学び得たのかどうかは、「それを実際に行動様式として主体的に再現できるのかどうか?」にかかっている。たとえば「言葉を学んだ」としても、「実際に話せる、あるいは書ける」のでなければ、それは「行動様式として学んだ」ということにはならない。

 たとえすでに学んだことのある行動様式であっても、その行動様式を再現する段階において、人はあらためてそれを学び直しているのだということもまた、言いうるところのものである。行動様式というものはたしかに様式・形式において再現することができるものではあるのだが、しかし「行動すること自体は、けっして再現することはできない」のだ。言い換えれば、そこでの実際の行動自体は、常に新しい行動となっているのである。
 だからある行動が、ある行動様式にもとづいて行動されたのだとしても、それが行動自体として常に新しい行動である限りは、その新しい行動自体において「すでにある行動様式が常に更新されている」のだということになる。つまり学ばれる対象としての行動様式は、それにもとづく行動それ自体において、常に新しい行動を常に新しく含みながら、常に新しい行動様式として学ばれているのである。その意味で人は、行動する限りは常に学んでいることになるし、常に学ばざるをえないのである。

〈つづく〉


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