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【連載小説】息子君へ 147 (31 君のまわりにはまともじゃないひとがたくさんいる-3)

 夫婦の悩みの話で、セックスは嫌で仕方ないけれど、セックス以外はいい旦那だという話はよくあるけれど、それはけっこう疑わしいなといつも思う。セックス以外は我慢できなくはないし、それなりにうまくやっているけれど、セックスだけは本当に嫌で、するたびに嫌いになっていくというくらいなら、かなり多くの奥さんがそんなふうに思っているのだろうと思う。けれど、セックス以外はいい旦那と言っている奥さんというのは、クズ男に慣れすぎてしまっているひとなんじゃないかと思う。一部にきらきらしたちゃんとした男がいるらしいということは知っているけれど、そういう男は自分のまわりにはいなくて、自分のまわりにいるのはとことんまでクズか、とことんまでしょぼくて役に立たない男たちばかりで、そういう男たちの中では、他人に親切をして喜んでもらいたい気持ちがそれなりにあるという程度の男でもいいひとだと思えるとか、そういうことなのだろうと思ってしまうのだ。そもそも自分勝手なセックスをすることで相手の女のひとを絶望的な気持ちにさせ続けるということを何年間もやり続けられるひとをまともな感覚があるひとだと思っているのなら、そのひとがまともな判断を失っているということだろう。まともな判断ができないような人間関係になっているという意味でも、セックスだけではなく関係形成全体として虐待とかモラハラでしかないようなことをされているひとが、セックス以外はいい旦那だと言っているのでなければ、筋が通らないのだ。
 相手がひどく傷付いていたり、相手をひどく悲しませているときに、それに気が付いてもうしわけない気持ちにならないひとをまともじゃない側に判別しないと、まともな感覚があるというのがどういうことなのかわからなくなってしまう。いじめることも、パワハラすることも、あまりにもありふれていることだけれど、当たり前のようにいじめていたり、相手にとっていいことをしてあげているだと本気で思っていそうな顔で相手を傷付けるような接し方をしているひとたちこそ、まともな感覚をしていないと思うべきひとたちなのだと思う。
 上司になったり、えらくなったらパワハラ気味に他人に接してしまう男というのは、男の過半数くらいはいるんだろうし、そういう意味では、男の過半数くらいにはまともな感覚なんかないのだろう。だから夫とのセックスに憎しみや怒りや絶望しか感じていないひとたちというのがとてつもなくたくさんいるのは当然のことなのだと思う。
 冷えた関係の中で必要なことだけを喋っているには、気持ちも上滑りしていってくれることで、もろにくらわずにすんでいる相手のまともじゃなさを、セックスでは生身の至近距離で真正面から感じないといけないのだ。暴力を振るってはこないとか、金は渡してくれているからと、とりあえず最悪ではないからと、いろいろ思うことを我慢できているだけという場合は多いのだろう。たまに子供と遊んでくれたり、お出かけを企画してくれてみんなを連れて行ってくれたりしていれば、こんなにひとの気持ちのわからない自分さえよければいいとしか思っていないひとでも、本当はみんなに喜んでもらいたいという気持ちがあるのだろうと思ってもらえたりするのかもしれない。普段はいろいろ疲れていて余裕がなくなっているからというのもあるのだろうと、そんなふうに思っていないと家族としてやっていけないからというのもありつつ、同情半分で大目に見てもらっていて、それで家族がなんとか存続していて、けれど、それでもセックスは心底嫌だなと思われているとか、そういう場合も多いのだろう。
 すぐ目の前にいるひとに、そのひとの身体に触りながら、嫌なことをしているひとがたくさんいるのが世の中だというように、君はちゃんと世の中の実際のところをイメージできているんだろうか。ずっと大事にするとか、ずっと君を守ると伝えた相手にそんなことをして、自分はいいことをしているつもりで、愛情表現のつもりで、相手に嫌なことをしているひとが、自分は普通だと思って、そのことに何も思っていないのが世の中なんだ。
 それに比べれば、セックスレスなんてはるかにマシなのだろう。セックス自体はしたいけれど、あまり愛情表現としてセックスしたい気持ちになれなくなってきて、かといって、オナニーするみたいにして相手の身体を使うみたいなことは気がひけるからと、セックスしないことを選んでいるひとたちのほうがはるかにまともだろう。
 相手が嫌がっているのに、自分がしたいからとするひとたちは、どんな気持ちで相手にそんなことをしてしまえるのだろうと思う。自分がしたいからと、自分がそれを相手に要求してもいい理由や、自分がそれをするのが当然である理由を頭の中であれこれ考えて、そのあとは相手の気持ちを感じることもなく、相手が自分に従うように状況を操作して、したいことができる状況にしようとしてしまえるのだ。そして、そういう状況がやってきたら、相手のことは感じたいところしか感じずに、自分の頭の中の自分用のポルノ的妄想に浸りながら、自分を気持ちよくできるやり方に没頭していくのだ。
 性欲の高まりによって、一時的に頭に血が上って自分勝手なことをしてしまったとか、そういうことではなく、ずっとセックスで奥さんを苦しめ続けているのだ。そのひとの人間観とか人生観とか恋愛観とかセックス観がそういうもので、そういう自分の頭の中のイメージを通してしかものを感じていないから、目の前のひとが発している感情を受け取らないままで好き勝手なことをしていられるということだろう。
 まがりなりにも奥さんになってもらうところまで関わりを持った相手に対してそんなことができるのだから、当然そのひとは、人生全体でそんなふうなのだ。自分の側に楽しみたいことがあればそれを感じようとするけれど、そういうものがなくなると、目の前にいる自分に優しくしてもらいたいと思ってくれている相手の気持ちを感じないままでいられるひとが、親だろうが友達だろうが、誰かの気持ちをまともに感じるなんてことはありえないだろう。友達がいたからって、友達とは友達とのパターンをなぞって楽しくやっているだけで、その中のネタに仲間との絆とか助け合いとか励ましとか慰め合いがあるというくらいのことでしかないのだろう。仲間のために何を一生懸命やってあげているようにみえるときでも、仲間だからそれくらいしてあげるものなのだろうと思ったことを、まわりの様子を確かめながらやっているだけで、そのひとのためにどうしてもそう心が動いてしまったわけじゃないのに、仲間思いな自分たちに自分たちで盛り上がっているのだ。そうやって、仲間と仲間内のノリの中でしかいいやつでいられないのなら、その仲間内でいじめがあればみんなと同じようにいじめるのだし、そんなやつは全然いいやつじゃないんだ。
 別に男だけを責めたいわけではないんだよ。相手のことをちゃんと感じて、相手に自分のすることを喜んでもらいという気持ちをほとんど失ってしまっているひとや、自分がそういう気分のときだけ他人に自分のやることを喜んでもらいたがっているひとというのは、男女問わずとても多い。
 まずい料理を作ってうんざりされていても平気でいるのだって同じようなことなのだろう。相手の気持ちを感じていたら、自分の作ったものがまずいことにうんざりされるのも悲しくて、どうにかしようとするか、作らないようにするとか、自分の作るものが美味しくないとしてどうするか話し合うなり、とにかく苦しい状況をマシにするために何かをするのだろう。けれど、他人をうんざりさせ続けていることになんとも思っていないひとたちは、美味しいと思われていないのはわかっていても、自分は自分なりに頑張ってこれなんだからしょうがないと思ったあとは、うんざりしているひとの顔から相手の気持ちを感じようとすることもないのだろう。そして、それは仕事の出来が悪くてまわりをうんざりさせていても、表面的にもうしわけなさそうな顔をするだけで、全く頑張る気がないひとたちもまるっきり同じなのだろう。作る料理を不味そうに食べられても平気なひとたちや、仕事でまわりを不快な気持ちにさせたままでも平気なひとたちというのはとてつもなくたくさんいるけれど、そういうひとたちだって、ほとんど自分が関わるひとの気持ちを感じないで生きているからそういうことができているのだ。そして、そういうひとたちだって、自分がしたことに誰かが喜んでくれたらとは思っていて、たまに親切なことをしたりもするのだろうし、料理がまずい以外はいいお母さんだとか、仕事はできないけれどいいひとではあるとか、そんなふうに言われていたりもするのだろう。けれど、いいひとだったなら、毎日ひとを嫌な気持ちにさせ続けるようなことを繰り返しはしないのだ。
 もちろん、個別の事柄でこじれて、個別の事柄で諦めて、そのことについては一生嫌な気持ちでやっていくつもりでいるというのはよくあることなのだろう。料理が苦手なことを諦めてしまっているからといって、他では気分よくやれているというひともたくさんいるのだろう。必ずしも、うまくいかないことを諦めてしまって、お互いに日々小さく嫌な気持ちになり続けながら時間を過ごしているひとたちが、ひとといい気持ちで一緒にいられるようにという気持ちの欠落したまともじゃないひとだということはできないのだろう。
 けれど、そういうひとたちの場合、相手の気持ちを感じているから、きっともうしわけなさを忘れないままで相手に接しているのだろう。開き直って、これでいいんだし、それなのに文句を言うのなら、相手の方がおかしいのだとは思っていないのだし、そうであれば、お互いの間にうまくいかないことが挟まっていても、お互いそれに納得していられる。相手に納得してもらうということでも、相手の気持ちを感じてそれに応えているのかということが大きな一線になるのだろう。
 一番ひどいのは、自分が相手を嫌な気持ちにさせていることに気付いてもいないひとなのだろう。とはいえ、気付いてはいても自分はこうなんだから仕方ないだろうと思って、そう思ったあとは、自分のことを嫌なやつ扱いしてくる相手こそ嫌なやつなのだと敵認定して、敵の感情だから感じなくてもいいし、反応しなくていいとばかりに、自分の好きにやろうとしてくるひとというのも、どうしようもなくひどいのだろう。こじれた相手への敵意に閉じこもることで、もともとよい感情もなんだかなと思うところもいろいろあったはずの相手に対して、自分の思い込みたいことを思い込んで、自分の中の相手をただひたすらに嫌なやつに変えてしまうようなことをしているのだ。今までのことが全部嘘だったみたいに相手を敵視しているという、自分の気持ちの切り替わり方のグロテスクさに平気でいられるひとというのは、やはり自分の感情に対して異様に鈍感なのだろうし、そういう鈍感さを相手に向かって全力で発揮できてしまうのは、そもそも相手を自分と対等な他者として見ていないからそうできるのだろう。
 ひとの気持ちを感じていないというのは、そんなにも絶望的なことなんだ。そのひとの感情を感じていないのなら、そのひとに何かをしてもらっても、やってもらったことは、人間関係ではなく、単なる自分へのサービスになってしまう。だから、ひとの気持ちを全く無視して、自分はもっとどうしてほしかったのにと文句が言えてしまうんだ。
 例えば、店員に横柄だったり下に見るような悪意的な態度を取るひとにしても、相手の気持ちを感じていないから、相手が不快に感じるような態度をとって、相手の顔を不快さで歪ませて平気でいるのだろう。そういうひとたちにはそんなつもりはなくて、いつも通りいばれそうな相手にはできるかぎりいばるというのをやっているだけだというのなら、他人全般に対して常にそういう目で見ようとしていられるほど、誰に対してもまともに気持ちを感じ取る気がないということなのだ。
 そういう観点で世の中のおじさんとかおじいさんのことを考えてみれば、世の中の男のかなり多くにまともな感情なんてないというのがわかるだろう。感情くらいあるにしても、そういうひとは感情とは別のもので生きているのだ。集団の中でいい地位を得ていい気分でいるというのを、社会でやれれば社会でやって、会社でやれれば会社でやって、友達でやって、家庭でやるし、誰とも難しければ、金を払って相手をしてもらえる場所に行って、金もなければインターネット上でなんとかいばれないか頑張るのだろう。いい気になれればよくて、それが難しければ、酒とかドラッグとかゲームとかドラマとかインターネット動画で余っている時間を楽しい気分で塗りつぶそうとするのだろう。そういうひとは自分の感情に興味がなくて、いい気になっていたいだけだから、自分の気持ちなんて感じないでも何も困らないのだ。
 どうしようもないことなんだよ。日々いろいろ思うことについて、自分の感情の続きを自分が確かめようとか、自分がやっていることについて、自分はこれをどこまでやれるようになるのかを確かめるとか、そういう自己実現的というか、自分で自分を納得させたいというようなモチベーションがないのなら、自分が自分なりにそれでいいと思ったことをやってみることで自分なりに満足するということができない。そうすると、自分のやったことをひとに喜んでもらえる生活ができているわけではない場合、どうしたって誰かから自分が軽視されていないことを実感させてほしいという種類の寂しさに追い立てられ続けることになるのだろう。そして、誰からも軽視されているひとたちは、楽しくやることでうやむやにする以上には、寂しさをまぎらわせようがないのだ。

 そんなふうに生きているひとがたくさんいることでしか説明できないような、どうしようもない後ろ向きさと、感情のなさにうんざりするしかないような、バカげた伝わっていなさが、みんなの日常を埋め尽くしてしまっていると君は感じたりしていないのだろうか。それとも、もっとうんざりとしながら、お互いを軽視し合う悪意と、みんなから軽視される屈辱が、みんなの日常をすっぽり包んでいるように感じたりしているんだろうか。
 けれど、悪意や屈辱から逃れられないのだって、ひととひとの気持ちが伝わっていないからそんなふうになっているのだろう。伝わっているのなら、うまくいかなくてもそれなりに前向きな気持ちでいられるものなのだ。誰にも何かを伝えられたような気にもなれないし、誰も自分の気持ちの本当のところに反応してくれていないかのような気持ちになってしまうから、他人に対して自分の気持ちを伝えようとすることをやめていってしまうし、そうすると、ひとの気持ちを感じても無駄にしかならないから、ひとの気持ちを感じることもやめていってしまう。そうやって、他人の気持ちを感じてそれに反応していることで、他人からしたときに気持ちが見える顔をしているひとというのは、歳を取るほどに減っていくことになるのだろう。
 伝わらないひとたちのことを君はどう思っているんだろうね。けれど、みんなできればヒステリーばかり繰り返しているひとたちや、痴呆老人や、育てにくい子供には関わりのない人生を送れるといいなと思っているものなのだ。どうしたってみんな話が通じないひとたちのことが大嫌いなのだ。思い通りにいかないだけでも嫌なのに、コミュニケーションのための努力とか誠意が無駄にされたような気持ちになると、生きている実感すら損なわれたような気分になってしまう。
 俺が君のお父さんになってあげられたなら、君をちゃんと見ていて、君が俺に何かを言いたくなったなら、いつでもちゃんと聞いてあげて、感じたことをちゃんと返してあげるというのをやってあげたいというのは、だからなんだよ。伝えれば伝わるし、伝えれば反応してくれるし、同じようなことでも、自分の気持ちや伝え方が変わるたびに、反応が違ってくるということを当たり前に思っている子供に育ってもらえるようにしてあげたいということなんだ。世の中には伝わらないし、反応してくれないひとたちがひしめいているけれど、そうじゃないひとたちもいるから、そうじゃないひとたちとの間に感じ合える関係を確保しながら生活できるようになるまでに、伝わらないことに慣れてしまって、感じ合うことをやめてしまわないように、伝えれば伝わることの手応えの心地よさをいくらでも楽しめるようなお父さんとしてそばにいてあげられたらいいのになと思っているんだ。
 君だって、自分の仲間とは仲間として接していられるけれど、自分の仲間ではなくて、全く価値観も違う男たちとは、一緒にいてもうんざりすることが多いのだろうし、一部の仲のいい友達以外とは、仲間内のいつものノリの話しかできないだろう。そもそも男は若いうちからまともに話が通じないひとだらけなものなんだ。そして、まともに話の通じないひとたちのかなりの割合が、まわりがやっていれば平気でセクハラもパワハラもやるし、相手と顔を向き合わせたまま当たり前のようにポルノをなぞったことをやろうとするような、まともじゃないひとになっていく。
 男たちの大半が女のひとたちから嫌なところばっかりのつまらないやつだと思われているのは、当然のことなんだよ。まともに話もできないひとのことをいいひとだと思えるわけがないんだ。自分のことをチヤホヤしてくれるのならそれでいいと思っているひとたちは、そういう折り合い方で、男は男だと思っているけれど、思うことがあって喋っているんだからちゃんとそれを受け取れよと思ってしまう女のひとからすれば、大半の男は業務連絡的な話と、知識と知識で議論するような会話以外にはまともに話ができない、同じ人間とは思えないような存在なのだろうと思う。
 そういうまともに話の通じない男たちに対して、君はシンプルに、自分とは全く違った身体感覚でひとの輪の中で過ごしているひとたちなんだなと思っていればいい。仲間といるとき以外はリラックスできないし、あまり堂々ともしていない男はたくさんいる。慣れで生きていて、自分の感情を確かめながら生きている度合が低いと、どうしてもそうなってしまうのだろう。習慣でしか何もできないひとは、自分の感情を自分で生きてはいないし、それはほとんど現実を生きられていないということなんだ。
 どうしたって、そういうひとたちは君の気持ちも感じてくれないのだ。そういうひとたちにとって君は、いつもどんなふうに接している相手なのかというパターンでしかないし、君とのパターンをなぞった言葉や身振りしか君に向けてくれることはないのだ。君はそういうひとたちに、このひとはほとんど現実を感じていないんだなと、ちゃんと思っているべきなんだ。




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