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【連載小説】息子君へ 148 (31 君のまわりにはまともじゃないひとがたくさんいる-4)

 別に俺は人間を嫌いになるべきだと思っているわけじゃないんだよ。俺だって、よく言われているように、世の中に本当に悪いひとなんていないし、本当に嫌なひとなんていなくて、誰にでもいいところがあるし、誰の中にもふとしたときによい感情が動いていたりするものだとは思っている。
 ただ、みんないいところがあるからどうしたとも思ってしまうのだ。そもそも誰のことも憎んでいないし、俺のことが嫌いなひと以外は嫌いじゃない俺からしたら、別にいいところがあるから何なんだろうとしか思えなかったりするのだ。
 現実に、ひとに喜んでもらいたいという気持ちが生活の全ての局面である程度持続しているひともいるけれど、ひとに喜んでもらいたいという気持ちがしぼんでしまっていて、たまに自分の人生の虚しさにうんざりした気持ちになっているときに、自分だって誰かにいいことをしてあげて喜んでもらいたいのに、どうして自分には優しくしてあげられる相手すらいないんだろうと思うときくらいしか、自分の中にひとに優しくしたい気持ちを感じられないひともたくさんいるのだ。
 もちろん、自分の中にどんな感情が発生するのかというのは、前もって決まっている固定されたものではない。そういう生活を送って、そういう状況に置かれているからそんなふうに気持ちが動くのだし、生活が変わって、ひとと一緒に過ごす状況が変われば、ひとを喜ばせたいという気持ちだって膨らんだりしぼんだりする。嫌なひとだからって、幸せを感じられる日々をしばらく過ごせたなら、嫌に感じていたところも薄れていくのだろう。誰のことを切り捨てる必要もないのはそうなのだ。
 実際、ストレスが多い状況の中にいるそのひとは、そのひとらしくないそのひとなのだろう。疲れすぎているときも、酔っ払っているときも、仲間と一緒にいて仲間との一体感に酔っているときも、そのひとはそのひとらしくない状態にあるのだろう。
 俺が人間とはそのひとの行動ではないというのは、そういうことでもあるんだよ。人間をそのひとの感情だと思って、そのひとの感情がストレスでぼろぼろでうまく思いたいことを思えなくなっている状態だということにちゃんと気付いてあげて、どういう状態なんだろうと、寄り添うように気持ちを感じようとしてあげるべきなんだ。
 君のお母さんとは仕事の話をたまにしていたし、まともに仕事をしないひとや、なかなか仕事ができるようになってこないひとの話なんかもたまにしていた。君のお母さんはそういう出来が悪く思われているひとに指示を出してうまくやってもらう立場だったけれど、やっぱりそのひとたちの行動からしかそのひとたちのことをとらえようとしていないんだなとは思った。何ができないとか、何をやらないとか、言っているのに同じことになるとか、アドバイスしてもやらないとか、自分が改善するための指示をしているのに、ちゃんとそれをやらないからダメなままで、言われたことをちゃんとやらないのはやる気がないダメなひとだからだと思っているようだった。俺はひとが何かをうまくやれていないときは、そんなふうにしてうまくいっていないわけではないというのを大人になったときにはなんとなくわかっていたし、大学生の終わり頃には、はまってしまって何度やってもうまくいかない状態になっているようなひととも、状況を整理したりするサポートをしながら、お互いいらいらせずにちょっとずつよくなっていくようにプロセスを踏んでいけるような話の進め方や指示の出し方ができる感じになっていった。
 どうして君のお母さんはそういうことがわからないのかなと思うけれど、君のお母さんのものの感じ方についてここまで読んできた君なら、お母さんが人間をそのひとの行動として受け取るのはお母さんにとっては自然なことだと思えるだろう。
 君は母親と父親がそういう観点で真逆の人種で、真逆なものが混ざりあった肉体で生まれてきている。君はこの手紙のようなものをここまで読んでいる中で、君のお母さんがどんなひとなのかイメージする俺の眼差しを使って、自分の肉体を確かめているのだろう。そして、俺が君のお母さんについて書いていることを自分の頭の中で答え合わせしているのだろう。
 もしそんなふうに読んでいたとしても、俺が君のお母さんを侮辱したりバカにしてはいないのはわかるだろう。自分のことばっかりだなと軽蔑しているところはあっても、それだけなんだ。空回りして滑稽だなとか、自分のことばかり気にしていることで他人の気持ちに応えなくてはいけないことから逃げ続けているということでは卑怯なひとだなとも思っているのかもしれない。けれど、君のお母さんを貶めたい気持ちは少しもないんだよ。
 そもそも、君のお母さんは君を生んで、君をかわいがりながら、幸せな毎日を送っているんだろうし、俺は何がしたいわけでもない日々の中で、ひたすらにぼんやりとした気分に包まれながら、君への手紙を延々と書き続けているんだ。俺は自分を幸せにできていないし、君のお母さんはそれができている。どう考えたって、俺なんかより君のお母さんの方がちゃんと生きられているし、君のお母さんの方がえらいしすごいんだ。
 俺はただ、君のお父さんになってあげられたらよかったのになと思っているだけで、そうなれなかったから、その代わりとして、俺がどんな感じ方をして、どんなものの見方をして、どんな気持ちの動き方で行動する人間だったのかということを君が感じ取れるようにと思って、この手紙のようなものを書いていている。
 俺が一緒にいてあげられたなら、一緒にいろんなことをしたり、いろんなことを話したり、俺が何かをしている姿を見せてあげられることで、そういうものはいつの間にか君に伝えられていたことだったんだろう。俺の感じ方や振る舞いから、自分も当たり前のようにそうするようになっていったり、当たり前のようにそう感じるようになったことがたくさん君に残ったはずなのだ。
 君のお母さんのことをいろいろ書いているのは、その具体例としてなんだ。不倫相手と息子とでは接する上での立場が全く違うとはいえ、君のよく知っているひとについて、俺の肉体や感じ方からすると、そのひとはどんなふうに感じられるひとだったんだよということを伝えることで、俺の感じ方というのがかなりくっきり伝わるんじゃないかと思っているんだ。

 君は君のお母さんに君と同じような内面性はないのがどういうことなのかわかってくれたんだろうか。
 別にそれをわかってくれたならどうしろということじゃないんだよ。俺は何をしろと言いたいわけじゃないんだ。むしろ、何かをしようとする前に、ちゃんと感じてみるのがいいんじゃないかというのが、一番伝えたいことなんだろう。
 ちゃんと感じてみたときに、自分とお母さんとの間に行き来しているものが、他のひととの間で行き来しているものと違っているように感じられたのなら、それが現実なんだから、君はちゃんとそれが現実だと思っていた方がいいんだ。かといって、ただ自分とはかなり違う感情の動き方をしているひとだなと思っていればいいだけなんだよ。そして、いつかふとしたときに何かを思ったなら、そのときにいろいろとじっくり考えてみればいい。
 そのものの前に立って、そのものを感じている状態のまま待っていれば、そのうちにそれに対して何かを思う。君は自分が思ったことを、本当にそうなんだろうかと、そのものの感触で確かめ直していればいい。そのものの感触に立ち止まる機会があるたびに、少しずつでもそうしていれば、君はだんだんそのものの感触をもっとそのものらしいものに感じられるようになっていく。
 君はそうやって相手の肉体を眺めて、感情の動きを感じ取って、どんな心の動き方をするひとなんだなとそれぞれのそのひとらしさをとらえればいい。ただ、そのときに、自分とは心の動き方があまりにも違うということもありえるということはわかっていた方がいいということなんだ。君の肉体で相手の体感を写し取ってみたときに、何を思っているのか、君の心の動きに当てはめようとしてもわからないひともいる。
 よくわからないひとなんて生活していればたくさん出会ったりすれ違ったりするし、ひとのよくわからない行動にも毎日のように目にすることになる。けれど、そういう膨大なよくわからなさについて、自分が少し引っかかるところがあったものに対しては、わからないというだけで素通りするのではなく、きっとどんなふうなんだろうと自分なりにイメージしてみて、またいつか答え合わせできるときがきたときに、そのとき自分が何を感じ取れていて、何を感じ取れていなかったのか確かめられるのがいいんだ。そういうことをどれくらい日々の中でなんとなく積み重ねていくかで、そのひとが歳を取るほどいろんなことにいろんなことを感じられるようになるか、ただ鈍感になっていくだけになるのかが違ってくる。
 わからないわからないと繰り返しつつ、俺の君のお母さんについて語る文章がずいぶん長くなってしまったみたいに、わからないからって、何かしらは思うものなんだ。自分と違うなと思ったうえで、そのひとのそのひとでしかなさはいくらでも感じられる。
 そして、俺と君のお母さんとの間にあったわからなさのようなものこそ、ただよくわからないなとやり過ごしてはいけないパターンだったりもしたのだろう。ちゃんとどういうギャップが二人の間にあって、それがどういうやり方でしか埋まらなくて、けれど、そんな埋め方をすることが自分にとっていいと思えることなのかということを考えなくてはいけないような組み合わせだったのだと思う。
 俺は君のお母さんに対して、伝わってないなと思っていたし、セックスで好きになれたからって、やっぱり何も伝わってないなと思い続けていた。もちろん、君のお父さんになれるのなら、今すぐにでも君のお母さんと一緒に暮らしたいんだよ。だからって、君と君のお母さんとの暮らしを想像しようとしてみても、君のお母さんと俺とでゆっくり何かの話をしているイメージは浮かばない。君のために俺が何をしてあげたいとか、どうしてそう思うのかとどうのこうのと話しても、話が長いと途中で聞く気がなくなるというのがパターン化されるんだろうなとか、それくらいしか思い浮かばない。けれど、美味しいご飯はみんなで食べられるし、楽しいことは一緒にできるし、それでうまくやっていけるんだとは思う。それでも、映画を見るならひとりで観るか、君がある程度の歳になったら君と観るんだろう。
 楽しくはやれるし、辛いときはつらい気持ちで追い詰められてしまわないようにそばにい続けてあげることもできるのだろう。笑いかけてあげられるし、美味しいご飯を作ってあげて、一緒に美味しいねと言いながら笑顔を向け合う時間を繰り返せるのだろう。
 けれど、俺は君のお母さんとは映画を見られないのだ。小説を読んでも君のお母さんには話さないのだろう。食べ物についての本を読んだり、誰かのエッセイを読んだりしても話さないのだろう。音楽も俺が好きなものを流していて、それについて何か聞かれても、聞かれたこと以外には話さないのだろう。近所に新しくオープンした店の話をするとか、インターネットのビジネス系の記事なんかを読んで、なるほどなと思ったり、おいおいと思ったりしたものの話を振るくらいなんだろう。あとはひたらすら君のお母さんが話してくれたことについて話すのだと思う。
 俺が自分だと思っているものを、君のお母さんは感じ取れないのだ。俺は自分を自分の人格とか、自分の感じ方だと思っている。もしくは、俺の生きてきた全部と、感じてきた全部とつながっている俺の肉体を俺自身だと思っている。どういうときにどういう顔をしてそこにいられるのかということが俺だし、そのときそのときの表情とか喋り方とか、何をしていても俺を俺でしかないものにしている肉体が、どんな動き方をする肉体であるのかということが、俺がどういう人間なのかということだと思っている。
 けれど、君のお母さんは俺の行動を俺だと思っているのだ。君のお母さんは、今喋っていて楽しく喋れているかとか、今一緒にいていい感じで過ごせているのかとか、そのつど出来事として俺をとらえられていたのだろう。だから、俺の人格や感情の動き方の全体性をつかもうとしていなくて、そのせいで、仲良くなってきてからも、話すたびにそんなことを誤解するのかという驚きが続いていたし、他のひとが言うならそうだけれど、俺が言っているんだからそういう意味じゃないというのがさっきからの話でわかるだろうに、どういうつもりでそんな反応を返すんだろうと呆れてしまうことが続くことにもなったのだ。
 君のお母さんは、ちょっと気がゆるむだけで、俺自身から切り離して、俺の言葉だけを切り取って、自分が反応したいように反応してくるようなひとだったんだ。それは徹底していたし、君のお母さんが俺をよいものに思っていたとして、それは一緒にいて心地よかったからでしかなくて、もっと直接的に言うのなら、俺からの扱われ方に満足していたからでしかなかったのだろう。そして、俺と一緒にいても、前に何をやっていてどんな感じだったとか、前に何を言っていたとか、そういう記憶が増えていくという以上には、俺のことを知っていったりわかっていったりはしなかったんだ。
 君のお母さんがそんなだったとしても、映画くらいいくらでも一緒に見られるだろうと思うんだろうか。確かに、俺は君のお母さんが楽しめるような映画を一緒に見てあげられるし、見終わってから、君のお母さんが楽しく感想を話しているのをにこにこ聞いていることができるのかもしれない。けれど、俺がその映画を見ながらどんな気持ちになったり、どんなことを思ったのかということを君のお母さんに話すことはできないし、話したところで話しただけになって、話しただけになるのなら、話さなければよかったと思うことになるだけなんだ。
 誰かを愛して、そのひとと一緒に生きていくというのは、そのひとを通して、もう一つの人生を体験するようなことだったりもするのだろう。そのひとを通して、そのひとにとっての自分を知って、それを受け入れることで、自分と世界とのつながりを見守り続けていくことだったりもする。俺はそうだったし、共感が弱くないひとたちは、真面目に映画を見たり小説を読んでいるとき、そういう感覚で、登場人物や作者を通して何かを体験するような体感を自分の中に作りながら見ていたり読んでいたりするのだと思う。君のお母さんはそんなふうに映画を見ないのだろうし、そもそも映画であれ人間であれ、何であっても他者としては見ていないのだ。だから、一緒に映画を見たとしても、一緒に見ていたと思えるようなものを二人で共有できたりはしないんだ。

 楽しくやれればいいだけなのか、みんなそれぞれいろんな気持ちになりながら生きているのだから、それを分かち合いながら生きていたいのかということなのだろう。
 気持ちに寄り添うというのは、こっちの気がすむまで、神妙な顔をしてそばにいてくれるというようなことではないのだ。そういうポーズは、ひとの気持ちがわからないひとでもできてしまう。そして、そういうポーズで黙ったあとに口に出した言葉が、全く何も理解してくれていない自分のことしか考えていない言葉であることに、多くのひとが絶望してきたのだろう。
 自分の言っていることを自分の伝えたかった意味では受けとってくれないひとだって、好きになれるし、大事に思うこともできる。けれど、そういうひとを一番長く一緒にいる相手にしたいのかというのはまた別だろう。楽しい話しかしないし、自分の思うことなんて話すことはないから、自分の言葉を誤解されるかどうかなんてどうでもよくて、楽しく快適に一緒にいられればそれで充分だというひともたくさんいるのだろう。けれど、そうじゃないひとたちもいる。自分がどんな人間であるのかを感じてもらいたい同士として、人格と人格としてお互いの感じ方を確かめ合えることに喜びを感じながら語り合えないのなら、長い時間を一緒に過ごすことはできないと思うひとたちもいる。
 大切なひとをひとつの作品として見るようにしていたり、そういうひととして生きることを全うしようとして頑張っているひとという意味で、作品の作者としてそのひとを敬意を持って見守っているようなひとたちがいるのだ。
 それとは逆に、大切なひとをペットのような仲間として大切に見ている場合もあるのだろう。ペットは生きてきたようにそうなっているだけで、どうしたいとか、どうでありたいというのがあってそんなふうにしているわけではないから、ただ今がよければよかったねと笑顔を向けていられる。ペットは元気で楽しそうにしてくれていればよくて、一緒に楽しい時間をたくさん過ごせるといいねという感覚で接していられる。
 ペットのようではない相手には、そのひとの自己実現したい対象としての自己があるかもしれない。それがあるなら、そのひとはそういうものこそを自分自身だと思っているのだから、それに反応してあげないといけない。逆に、それがないなら、ペットと同じ感覚でもいいのかもしれない。子供がまだ小さいなら、今がよければよかったねという顔で見守って、一緒に楽しい時間をたくさん過ごせるといいねと思っているだけでいいのだろう。老人になって、もう実現したい何かもなくて、今までそうだったものを垂れ流しているだけになっているひとにも、ペットと同じように、今がよければよかったねと思ってあげていればいいのだろう。
 けれど、それはまだ自分にとっての自分が始まっていないひとたちと、自分にとっての自分がすでに終わっているひとたちのことなのだ。相手は相手でいろいろあって、そのいろいろに何かを思ったうえで生きているのかもしれない。そうだったときには、いろいろ思っているひとには、いろいろ思っているひとを見ている目で向き合ってあげないと、相手は自分を見てもらえている気がしないのは当たり前だろう。
 相手を作品として見るというのは、そのひとが自分の人生という作品をいいように展開していけるようにと思って、相手に寄り添おうとするような態度のことだろう。そういう態度で相手を見るときには、ただその場が楽しげであればいいとか、うまくいっているからいいというわけではなく、作者にとって本望であるようなことを作者がやれていることが大事だと思えるようになるのだと思う。
 そういう意味では、君のお母さんは、俺という物語とか、俺という映画には興味がなかった。というより、そういうものに思っていなくて、君のお母さんにとって俺はポルノビデオのようなものだったんだろう。だから、キスしたりペッティングが始まるまでの会話のシーンは早送りでよかったし、早送りせずに見ていたつもりだったとしても、そのあとのシーンで興奮するためのネタとして頭の中で好き勝手なことを思いながら見ていただけで、俺を知ることを楽しむような気持ちなんて全くなかったのだろう。
 そう考えれば、俺と君のお母さんとでは、喋るとしても楽しい話しかできなかったのだろうし、それなのに、会話のノリが違いすぎたり、普段生活していて見ているものもの思っていることも全然違ったことで、楽しい感じの話を気楽に話すことも難しくなってしまったときに、どうしようもなくて黙ってばかりの関係になってしまったのは自然なことですらあったのだと思えてくる。
 もちろん、楽しい話をしなくても、受け取る側によってどんな話だって楽しくできるのだろう。実際、俺は今まで付き合ってきたひとととは、付き合って何年経っても、今日何があったとか、何にどう思ったというようなお互いの話をずっと楽しく話し続けていた。君のお母さんと俺との間で致命的だったのは、楽しい話を楽しく話せないことではなく、何でもない自分の日々のことや自分の気持ちのことを面白がって話し合っていられなかったことだったのだろう。
 俺は君のお母さんに自分の話をするのが難しかったけれど、それは自分が自分の人生に思うことや自分が世界に対して思うことの話をするのが難しかったということなんだ。それはテレビやエンタメ作品の話はできても、シリアスな作品やアートの話はしようがないということによくあらわれていたのだろう。楽しめるものを楽しんだということをお互いに確認するのと、自分の感じ方にとってそれがどういうものに思えたのかということを伝え合うのは全く別のことなのだし、ひとによっては現実の全ての体験についてまわる違いなのだ。
 誰かの話をするときにも、映画の話をするように、できるだけ深みをイメージしようとしながら、そのひとについて語ろうとしているのかどうかというのがある。内面性の話として、そのひとのことを語るのか、そのひとの行動の顛末だけを語っているのかで全く違うのだ。噂話をしているときのテンポで他人のことを思い浮かべているのなら、そのひとのことはほとんどまともに何もイメージできていないのだと思う。
 作品として見るか、エンタメとして、ポルノとして消費するか、ペットとしてかわいがるか。大きく見れば、誰かと一緒に時間を過ごして、相手との時間を楽しもうとするときの態度というのは、そんなふうに分類できるんじゃないかと思う。
 誰かのそのひとらしさに触れて、それを知っていこうとするのなら、どうしたってそれは何かを消費するような時間の過ごし方にはなっていかないのだ。結局のところ、恋愛して、セックスして一緒に眠るような時間の過ごし方をした相手としか、お互いの人格に深いところで触れ合うような経験をすることがないのも、そういうことなのだろう。身体を許し合った距離感で、二人しかいない時間が積み重なったうえで過ごす時間の中で、そのひとがどんなひとであるのかということと、そのひとにどんなことがあったのかということを教えてもらって、それがそのまま、自分にとっての世界とは別の世界として、世界がどんなものであるのかということを教えてもらえたことになる。それが、そのひとのそのひとらしさとはどういうものであったのかという、告白のようにして語られる物語なのだと思う。そして、それはあくまでそのひとらしさという物語であって、特別そのひとらしさを他人に感じさせないようなひとたちというのは、何を話してくれても、人間がどういう動物であるのかということしか教えてくれないのだ。
 そのひとらしさを感じようとしているのかどうかで、何もかもはまるっきり違ってしまうということなんだ。自分の日々とはどういう気持ちや感覚が行ったり来たりするものであるのかという感覚を俺と君のお母さんで比べたときには、その感覚はだいぶん違っていた。そもそも生きていて世界から感じるつもりでいるものが違っているのだ。だから、俺は君のお母さんと一緒にいて、感じてくれてもいいはずのことを感じてもらえないばかりで、反応してくれてもいいはずのものに反応してもらえないばかりにしか思えなかったのだ。
 君のお母さんにかわいいという以外の何かを思うたびに、俺は伝わっていなさが虚しくて悲しくて仕方なかったし、だから、君のお母さんと一緒にいても、寄ってきた発情期の猫を撫でているようなモチベーションしかなかったし、君のお父さんになりたいとは思っていても、君のお父さんになれないなら、君のお母さんに会いたいという気持ちも全くなかったりするんだ。




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