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【連載小説】息子君へ 146 (31 君のまわりにはまともじゃないひとがたくさんいる-2)

 そんなひどい感じ方をするものだろうかと思えるかもしれない。けれど、射精したら邪魔に思える相手というのを、その男は少なくてもいいひとだとは思っていないのだ。セックスの相手とか、どこかに連れていったり、自分の世話をしてくれるということでは、いい女だとは思っているのかもしれないけれど、そのひとがそこにいて何かを感じていることが伝わってきて、それが心地よくないのなら、そのひとの存在自体は不快に感じているということだろう。いろいろあって嫌いになってしまった相手ではなく、まだほとんど相手のことを知らないような、自分ではセックスも気持ちよかったし普通に好きだと思っている相手のことを、実際にはすでに不快に感じてしまっているのだ。
 それがありふれた感覚なのだとしたら、男たちというのはどれだけ自分本位なのかということだろう。相手が自分に対して怒っていたり、自分の心が相手から離れかけているようなときですら、相手が伝えてくれているものは伝わってきてしまうし、相手がそんなふうに思っていることはどうしても尊重するしかなくて、そのうえで自分なりに思ってしまうことを思うというのがまともな感じ方だろう。けれど、まともじゃない自分ばっかりのひとは、今の自分の気分にちょうどいい刺激を与えてくれない相手を、存在まるごと単なる煩わしいものとしか感じなくなってしまうのだ。まともなじゃないというのはそういうことなんだ。
 そもそも女のひとを人間的に好きになったことのない男というのは膨大にいるのだろうし、少ない選択肢の中からの選択として、人間的には好きではない相手と結婚して、相手が自分の思うように動いてくれないたびにいらいらして殴りたいような気持ちになっているひとがたくさんいるのだろう。実際に殴るひとがたくさんいるし、殴ったら自分が悪いことになるからと嫌な言葉を浴びせ続けたり、嫌なことを言っても自分が悪いことになるからとなるべく喋らないようにしたり、なるべく子育ても家事もそっとしておくようにして、どんどん嫌われていっても、スクリーンを見詰め続けることに没頭したり、酒を飲んで伝わってくる感情に鈍感になってやり過ごそうとしたりしているひとが世の中にひしめいている。
 それは大げさな言い方ではないんだよ。男の多くには、そもそも愛情といえるような感情を相手に喜んでもらえる形で伝えられる能力がないんだ。その中には、自分の愛情が伝わってほしいというモチベーションすらないひともたくさん含まれている。多くの男は、現実はどうであれ、自分の頭の中で相手から愛されていて、相手はそれなりに自分に満足してくれていると勘違いできていれば、それで充分だったりしてしまう。男にも愛情のような感情は発生するとして、かといって、男は愛情をモチベーションにひとと関わることができないひとだらけなんだ。
 オナニーで射精したあとには、罪悪感とか後ろめたい感覚があるということはよく言われることだけれど、それだって、男たちの徹底的なまともじゃなさや、愛情の欠落が自分を虚しくしているんじゃないかと思う。自分の頭の中で相手をバカにしたり、痛めつけたり、相手が苦しんだり悲しんだり傷付くことを想像していい気分になっているから、後ろめたくなるんじゃないかと思う。もしくは、自分の汚らわしい性欲で勃起したペニスを受け入れているのに気持ちよくなっているひととして想像しているから、軽蔑心で興奮して射精して、射精後に興奮が過ぎ去って、軽蔑心だけが心に残ってしまうことで虚しくなっているということなんじゃないかと思ったりもする。嫌な感情でオナニーしているから嫌な気持ちになるわけで、他人への好意や善意のような感情で妄想してオナニーしていれば後ろめたくならないんじゃないかと思う。
 俺はオナニーをしていて罪悪感のようなものは感じたことがないし、どうでもよさのようなものが身体には広がるけれど、自己嫌悪的な方向に引っ張られるような虚しさは感じたことがなかった。それは女のひとが悲しくなる妄想をすることがなかったからなのだろう。レイプの妄想をすることもなかったし、レイプ的なシーンを描いたポルノを見たり読んだりするにも、和姦として受け取れたものしかオナニーに使ったことがなかったのだろうし、相手が傷付くことに興奮しようとしたことがなかった。
 セックスでもオナニーと同じように虚脱感の中で後ろめたくなるのなら、それはそのひとが敬意とか優しさとかのよい感情ではなく、汚い感情で興奮しながらセックスしているからなのだろう。そして、それはペニスを怒張させるために汚い感情に集中して入り込んでいるわけで、だから射精してペニスへの集中が切れて、目の前の女のひとに意識が向かったときに、さっきまで自分が発していたのはペニスのための感情で、目の前の女のひとへの感情ではなかったから、何かしらの態度を新しくとる必要があって、それが射精の虚脱感と何もかもどうでもいい気分の中だと、ひたすら面倒なことに思えたりするのだろう。
 俺だって、射精によって、セックスのために相手にしがみつこうとしていた気持ちが急速に消えていくことで、急に自分の中が空っぽになったみたいになって、どうでもよさとか、このまま何もかも消えていってほしいような感覚が自分の中に広がってくることはあった。けれど、射精後にひとりになりたいと思ったことはなかった。それはそもそも、そばにいられて嫌なひととはセックスしなかったからというのもあるのだろう。一緒にいたくないひとをセックスの装置として使って、相手を装置として使わせてもらうために、相手への感情があるかのように見せかけるようなことをしているから、自分が相手を利用していたくせに、もうこれ以上感情労働させられたくないというような感覚で相手を疎ましく思ってしまうのだ。
 そばにいたいとかいたくないという感覚に、自分とその相手との関係の全てがあらわれているのだ。そばにいてあまりいい気分はしないひととでも、喋っていたりセックスしていればそれなりに楽しく時間を過ごせるけれど、かといって、その時間が過ぎ去ったあとには、あまりいい感情が残らなかったりする。誘われれば会うし、喋れば楽しい気はするけれど、やっぱり会うと疲れるし、自分から会いたいとも思わないし、自分の側にはそのひとに話したいことは何もないんだよなと思うような相手というのがいるものだろうけれど、そういうひとは、そばにいたいと思えないし、自分のことを知ってもらいたいとも思えないという意味で、本当は好きだとは思っていない相手なのだ。
 男の多くは、そもそも仲間で集まって仲間ノリで接するわけではない場合には、男女問わず誰のこともあまり好きだと思っていなかったりする。そうすると、付き合う女のひとや、セックスさせてもらう女のひとたちにしても、恋愛やセックスを頭の中で楽しむのには使えるけれど、肉体的にはそばにいたいとも思っていないし、自分がどんなひとなのかどんどん知っていってほしいという気持ちもなかったりする場合が多いのだろう。それは本当に思っていることで関わっていないということで、本当はちっとも好きではない女のひとを自分では好きだと勘違いしているから、好きだからというポーズでとんでもないことをいくらでもやってしまえるというのもあるのだろう。
 本当に相手を好きで、相手と一緒にいて、相手の振る舞いや、相手の中の気持ちの動きを感じているだけで楽しいひとなら、セックスですぐ目の前に相手がいるのに、自分の中の汚い感情に没頭するのは難しいはずだろう。そして、逆に女のひとたちの多くが相手の気持ちを感じ取っているのだとしたら、そういう汚い感情でセックスしている男にあたった女のひとたちがセックスをしなくてもいいならしたくないと思うようになっていくのは当たり前なのだろう。
 目の前にいる相手の気持ちを感じずに、自分の中の汚い感情に集中して勃起させたペニスを入れてきて、自分の頭の中でどう気持ちよくなっているのかがあらわれた表情が動いているのを見せられ続けるセックスというのはどういうものなんだろうと思う。セックスはだいたいどんなものだとわかっているから、相手が少し動けばどうしたいのかわかるし、それに合わせていれば勝手に進む。目の前にいる男が、自分を見てはいても、自分がこんな気持ちなっていることは全く感じ取っていないんだなと思って恐ろしくなっていても、相手の顔は自分を見たまま全くそれに気付く気配もないのだ。もしくは、女のひとが興奮してくれた方がもっと楽しいからと、女のひとが喜ぶようなことをたくさん言ったり、優しくしてみたり、微笑みかけてあげたりしながら、女のひとを感情面でも支配できているような妄想を頭の中に膨らませながらセックスしているひともいるのだろう。けれど、ひとをよく見ている女のひとなら、それがどこか一方通行で、こっちの状態に合わせてリードしてくれているわけではないし、こっちが相手がしてきたことに付き合って喜んであげるしかないような、子供のごっこ遊びみたいな優しさでしかないことは感じているのだろう。
 そして、相手をまともに見ていない顔を鈍感にそのまま相手に向けているひとも、自分の妄想に相手を付き合わせようと、相手の気持ちは感じないで自分の妄想に浸ったままでそれらしい表情を貼り付けた顔を相手に突きつけ続けているひとも、どっちにしても、射精したらさっさと背中を向けるか、それを我慢する場合はすぐにどうでもよさそうだったりつまらなさそうな目をしていらいらし始めるのだろう。
 そういう男たちは、相手が自分の顔から、頭の中の妄想に浸りながら汚い感情をたぎらせているのを感じ取っているのをわかっていないのだろう。自分の感情を自分で感じる習慣がないから、自分の身体がどんな感情に包まれているのかということも、そういうときに自分の身体がどんな感触を発しているかも、それがどれほど直接相手に伝わってしまうのかというのもイメージできないのだろう。
 それが自分の感情を自分で感じていないということで、そんなひとが他人の感情を感じ取れるわけもないのだろう。そして、セックスの中ではそれが特に顕著で、それは単純にいえば、セックスする前にオナニーばかりしているからなのだろうし、そうではないセックスを誰かに教えてもらえる経験がないままで歳を取ってしまう社会になったからなのだろう。
 俺が大人になった頃には、世の中にはもう男たちはポルノビデオに毒された自分本位なセックスをするのをやめろというアナウンスがそれなりにあったし、その後そういう怒りや絶望の発信は減ったことがないままきているのだろう。
 そもそも女のひとに全く共感も同調もする気がない男がとてつもなくたくさんいて、そういうひとたちはもれなくポルノ的なあれこれをなぞったセックスをしているのだろう。そして、普段は他人の気持ちをそれなりに感じ取っているひとでも、セックスの場所では、自分の中の妄想を楽しもうとしたりするのだろうし、相手の気持ちを感じたいセックスとポルノをなぞって興奮するセックスを相手や状況によって使い分けているような男もいるのだろう。相手の気持ちを感じないようにしさえすれば、そういうことは当たり前のようにやれてしまう。そして、実際に、目の前にいる女のひとの気持ちを確かめているより、頭の中で自分の好きな妄想をしながら勃起する方が楽しいから、そういうひとたちはそうやってセックスしているのだろう。
 そうなってしまうのは、そのひとのセックス人生のなりゆきの問題も大きいのだろうけれど、そのひとがそういうひとだからそうなるものだったりもしているのだと思う。君のお母さんのセックスだって、頭の中で盛り上がってばかりのものだった。ただ、俺がひたすら優しくて、ひたすらかわいがっていたから、うれしいといういい感情だけで盛り上がれていたというだけだったのだろう。君のお母さんが男に生まれていて、男なら女の子だったほど親からもいじめられなかった可能性が高かったのだろうけれど、男に生まれて同じように軽く虐待されて育ったなら、君のお母さんはほぼ確実に、ポルノをなぞった自分さえ興奮できていればそれでいいというクソみたいなセックスをする男になっていたのだろう。彼女に飽きてきて、勃起具合が落ちてきたら、フェラチオさせて、何も言われなければそのまま射精して、自分だけずるいと言われたら、入れていいよと言って相手に上で動いてもらうように誘導するような男になることすら順当なところなんじゃないかと思う。君のお母さんが女だったときにさせられていたセックスというのは、そっくりそのまま、君のお母さんが男だったとしたときに女のひとにやらせていた可能性の高いセックスだったのだ。
 自分さえよければいいというセックスしかしてくれない男とばかりセックスしていたからといって、君のお母さんのセックスはリラックスした感じもなめらかさもなさすぎた。俺とセックスしているときの感じからしても、そもそものところで、肉体と肉体が触れ合ってからみ合う心地よさを相手と分かち合うことをベースにしたようなセックスのできないひとではあったのだと思う。身体よりも頭の中の方が心地いいひとで、そういう身体的性質で生まれたひとが、男で生まれていて、男の文化に染まって生きたなら、自分の中で盛り上がってばかりのポルノにたっぷり毒されたセックスをしたがるひとになるのは自然なことだろう。
 君のお母さんをことさら汚い人間だと思っているわけじゃないんだよ。自分を楽しませたいだけなら、たくさんオナニーした方が楽しいし、たくさんポルノを見た方が楽しくなれるというだけだったりするんだ。だから俺は、ひとに喜んでもらいたいと思っていないといけないと繰り返しているんだ。ひとに喜んでもらいたいという気持ちより自分を楽しませたいという気持ちが強いのなら、こんなひととできるなんてうれしいなと思える相手とセックスできる人生にならないかぎり、高い確率で、オナニーを楽しみながら身に付けた感じ方で延々と自己満足のためにセックスし続けることになってしまうんだ。
 楽しければいいという考え方になるのはとてもつまらないことなんだよということをここまで何度も書いてきたけれど、それはそういうことなんだ。自分の気持ちにも他人の気持ちにも鈍感になって、目の前のことにしっくりくることの気持ちよさをあまり知ることもなく、楽しい気持ちになるのがとにかく大好きで、楽しければいいという感じ方になってしまった時点で、そうなっていくしかなくなってしまう。
 ポルノを楽しむことは誰にでもできるし、自分の楽しみのためなら、共感はいつでもオフにできる。自分の暴力が相手を支配できている感覚に興奮できるような感じ方をイメージすれば、相手の負の感情を受け取らずに、相手に負の感情を押し付けて支配できている自分に勃起できる。普段はまともに他人に共感して同調的に接しているのに、性的なことがからむたびに相手への共感が切れてしまう男というのもたくさんいるのだろう。
 もちろん、女のひとたちだって、変態的な行為を楽しめるし、暴力で相手を屈従させることの気持ちよさはわかるから、男が好むようなポルノを楽しもうとすれば楽しめるのだろう。男性向けポルノは好きではなかったけれど、女性向けポルノというものがあるのを知って、見てみたら好きになった女のひとが、女性向けポルノに出演する男優のファンになって、その男優が出演している男性向けポルノも見るようになって、そういうポルノでもものによっては興奮できるようになったとインターネットの記事のインタビューで話していたのを読んだことがあるけれど、不快なばかりだった男性向けポルノの様式が好きな男優経由で興奮できるものなってしまうというのは、自然な感じ方の変化なんだろうなと思う。そもそも、男だって最初は射精したこともないのに、ポルノを見て、わけもわからず勃起するところがスタートなのだ。ポルノに慣れることで、だんだんとポルノからスムーズに興奮を引き出せるようになって、ポルノを好きになっていく。男からしても、ポルノの楽しみ方はポルノから学ぶものだったりする。セックス自体がそうで、セックスしていて、相手が喜んでくれたことや、してほしいと要求してくれることから、セックスはこういうものなのかということを知っていくし、相手がそういう気分でセックスしてくれているのに同調するようにセックスしているうちに、こんな気分でこんなノリでこんなテンションでセックスするとこんなふうに興奮するんだなと教えられていくものだったりする。新しくセックスした女のひとが、それまでにセックスしたことがあるひとに比べてセックスが大好きだったりすると、そこでその男のセックス観はかなり変化したりするのだろうと思う。
 女性向けポルノを見て好きになった男優が、男性向けポルノで男性向けポルノのノリでセックスしているのを見るというのは、自分の好きなひとが、違う状況や違う気分のときには、こんなふうに自分を抱くかもしれないんだと思って、それに興奮するようなことだったりするのだろう。女性向けポルノで見ていた、優しくしてくれて、こちらをいっぱい気持ちよくして、愛されている感じがいっぱいするセックスをしてくれていたひとが、いつでもそんなふうにセックスするひとではなく、ちょっと怖いくらいに男っぽくセックスして、怒ったりいらついたりしている気持ちをぶつけてくるみたいにしてきたり、いじめようとして苦しいことをしたり、泣かせようとしてくることもあるのだと知って、自分がこのひとにそんなふうにされると想像したときには、そういうことをされるのは嫌な気持ちはあるけれど、好きなひとの男っぽい粗暴さで興奮している顔もかっこいいと思ってしまうし、そんな顔でそんな勢いで求められたらすごいんだろうなとは思ってしまうし、そのひとにどうしてもそういうセックスをしたくなる気分のときがあるのなら、好きなひとの気持ちだし、それを受け止めてあげたいと思ったりしながら、どんどん興奮できるようになっていくのだろう。それにしたって、実際のセックスでも同じで、相手の男が好きだからと、相手がしたがるセックスを嫌だなと思いながらと、好きという気持ちで頑張ってやっているうちに、変態的な行為や、乱暴にされることに興奮できるようになっていったひとがたくさんいるのだろう。
 女のひとだって、ポルノを楽しめるし、変態行為も楽しめる。けれど、多くの場合は、男の感情に流されたり、感化されたことでそういうものに引き込まれていったのだろう。男たちがほとんど例外なくポルノ的なものに多少なりとも毒されているのに対して、女のひとたちの多くは、もっとどぎつく興奮してオナニーしたいというモチベーションでオナニーのネタを探さないし、興奮したオナニーのように興奮してセックスしたいというモチベーションでセックスもしないのだ。そういうひとたちからすれば、自分の身体のうえで、こちらに顔を向けながら、自分の頭の中で汚い感情に没頭しようとされることは、男が変わるたびに、こいつもそうなのかと毎回絶望的な気持ちになることなんだろうなと思う。




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