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空虚な希望ーまるで危険なクスリー


しばらくご無沙汰いたしておりました。

少し書くということに行為が難しくなってしまったのもあり、避けていました。

自分の書いたものの価値に触れることが多かったのもあるのだけど

そんな数週間、僕にとって少しばかり希望を抱く出来事があった。それはとてもとても脆いものだというのは分かっている。でも僕にとって、少し世界が変わるかもしれない。僕の人生がスタート地点になるかもしれないと思えるものだった。

ただ現実に少し戻される出来事が起こると、急に不安と恐怖が生まれてくる。

結局僕は、この地獄から逃れることはできないのかもしれない。この世界がお似合いだと言われることに、かなりの忌避感があるけれど、救われない世界にしか居場所がないのなら受け入れることも必要なのかもしれないと感じてしまう。

この数週間、空虚な希望を感じることで自分にとって不必要のものや人間関係に気がつくことはできた。

本当に大切にしてくれる人や本当に向き合ってくれる人を選ぶことができたと思う。それに、もうこの胸の中には復讐や見返しがあまりないこと。復讐や見返しは、相手へ届かないことも気がついた。

それは諦めとも言えるが、無駄なことだと分かってきたとも言える。

私以外の人は幸せに生きていて、許せないと思っている人もなんの裁きもなく生きていて、苦しんだ自分だけが今も苦しんで生きている。それは結局、自分の首を自分で締めているからこその問題がある。もちろん解いたとしても、荒廃した日々は同様の痛みをもたらし続けるが…


希望は、まるで麻薬と同様だ。

希望は、どんなドラックよりも危険である。


これまでの絶望を一瞬にしてなかった事のようにしてしまえる。しかし、空虚な希望ほど自分を痛めつけるものあり、離脱症状(希望が無意味だったと知った時)が発生したときにはとてつもないほどの苦しみと恐怖に襲われる。

それは要するに、期待をしたからこその落差とも考えられる。

期待をすればするほど、自分らしさを失われていく。それまで、自分のペースでやってきたことを希望が生まれることによって、周りと同様の対応をして比較しなければならなくなる。無駄な情報や状況に目向けてしまう。ようやく受け入れられつつある絶望の世界を、最初の拒絶と無理矢理裂かれるほどの痛みの連続へと巻き戻す。

もしこの先、このまま希望が叶い続ければ僕の嫌いで許せない「サバイバーなのに痛みを忘れた強者」に成り下がることになる。

それだけは避けたいが、それにならなくては幸福は享受できないと同義になってしまう。

安易に手を出すとこうなるのは分かるが、人生を変えるために闘っていくことに安易に手を出さないと言うことは不可能だ。

首の皮一枚でも繋がった

というのは結果がそうであったのならよいが、プロセスにおいては危機の連続が始まるとも言える。

希望があるからこそ前を向ける。でもその希望は空虚であればあるほど苦しみを先送りしてしまう。

幸せになりたい。上手く行きたい。安定したい。そう望むことは間違っていないはずなのに、それを手にするために戦うとなるの常にリスクを背負っていかなかければならない。

そんな人生は果たしていいのだろうか。

そして今だからこそ空虚な希望に浸れるが、これが空虚な希望さえも浸れないほどの絶望が訪れた際にはどうなるのだろうか。

ならば、何もかもがなーなーになった世界が一番幸福なのだろうか。

ただ生きている。ただ息をしている。そんな世界が。

誰にも愛されず、夢を見ることも否定され、自己実現もできず、一人で生きて、他者の成功を笑顔で応援し、誰も自分を助けてもくれないそんな世界で生きることがベストというのだろうか。


自分の自分なのに、自分が失われていて自分がどこにもいないという世界が僕の最大限ならば

あの真っ暗闇を必死に走り続けて、恵まれた何も知らない強者と戦ってきた僕はなんだったというのだろうか。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。